満天の星、欠けた月
「ただ……」
幽々たる部屋の中で、蒲団に入っている月子の唇から、心臓が飛び出すかと思うくらいの大きさで、不覚にもそんな言葉が溢れだした。
今は幸せだ。ただ、自分の思い描いていた幸せとは少し違う気がしてならないと、月子はそう思う。
瞼の裏に浮かんでいたのは小説家を志し、田舎から大学に通うために上京した頃。
憧憬は夢の如く儚く、現実という月日に流され、大学を卒業して就職した先の同僚と結婚したのは八年前の事だった。
小説家になりたいなどと言う憧れは、専業主婦の趣味に変わり、まれにネット上の投稿サイトに掌編を上げる程度になっていた。
娘の小月が生まれてからはそんな余裕もなくなり、家事と育児に追われるだけで一日が終了する事も多かった。
そんな中で自分の時間、ましてや小説の執筆をする時間など取れるはずもなかった。
「ユーチュバーになりたい」
ある日、夫がそんな事を笑顔で言い出して、会社を辞めてきた時は、夫が仕事のストレスで心を病んでしまったのかと思った。
月子は何度も夫を病院へ連れて行こうとしたのだが、どうやら本気であると気が付いた時には夫婦の関係も終わりを告げていたのである。
娘の親権は月子が取ったが、女手一つで小さな子供を育てながら働くと言う事は、月子が想像していた以上に負担となり、心身共に疲れ果てるまでそう長い時間は必要としなかった。
月子は冷凍食品工場で餃子の皮に具を挟む行程で働いていた時に倒れてしまった。
連絡を受けて田舎から上京してきた両親は、娘の窶れた姿に驚き、子供と共に実家に帰ってくるようにと月子を説得したのである。
月子も他に選択肢などを無い事は理解できていた。
退院した一週間後にはアパートを引き払って故郷に戻ったのだった。
それから3年。
木々の生い茂る山奥の、自らが生まれ育った限界集落で両親の営む農作業を手伝いながら暮らす日々は、彼女の心と体を癒し、穏やかに過ぎていく時間に月子は満ち足りた気持ちでいる。
しかし、いまの生活は現実の延長上と言うだけであって、そこに自分の夢や希望というものを見いだす事はできないでいた。
そんな事を自覚はしていても、見ていないフリをしているそんな自分を通り越して、心が無意識に言葉を漏らしたのかも知れない。
「どうかしたの?おかあさん?おしっこ?うんこ?」
横ですっかり眠っていると思っていた小学校に入学したばかりの娘、小月が眠たい目を擦りながら声をかけてきた。
「まだ起きてたの。何でもないし、おしっこでもうんこでもないから、もう寝なさい。明日は朝からお爺ちゃんと熊撃ちに出かける約束でしょう?起きれなくなっちゃうわよ」
そう月子が言うと、小月は布団の中に潜り込み、しばらくして寝息を立て始める。
明るく育っていく小月の姿。
きっと心の中は夢と希望に満ち溢れているに違いないと、自分の子供の頃を思い出しながら月子は思う。
自分も小月くらいの時は、そんな風に思っていたけれども、この歳になると簡単にそうは思えなくなっている。
読書が好きで、いつか自分も書いてみたいと物書きに憧れたのは中学生の頃だった。
親に無理を言って東京の大学に進み、公募やネットに自作を投稿していた日々。
楽しい事ばかりじゃなかったけども、満ち足りていたように思う。
今となっては全てが懐かしく、そして二度と手の届かない時間だった。
トイレと思い、静まりかえった家の中をトイレに向かっていると、階段横の窓から満天の星の中に浮かぶ満月が見える。
満ちたり欠けたり。
まるで人生のようだと月明かりに照らされながら月子は思う。
どう考えたところで、自分の今の状態は満月であるとは言えないだろう。
そもそも常に満月の状態などという自然現象を無視した事は、多くの人がそうであるように望む事などできない話なのである。
ならば自然の摂理に従い、満ちた時もあれば、欠けている時もあると言う事を素直に受け入れなければならないだろう。
欠けているいま現在を満たすため、近いうちに小説を書いてみようと月子は思った。