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各国の指導者だけが知る話がある。
この世界を乱し、滅ぼそうとする存在がある事を。
そしてその存在によって滅ぼされた国が既にあるという事を。
北の大国・カルタシス
魔王の住まう荒野との境に位置し、魔王を護る特別な王国として永きに渡り名を馳せてきた。
しかし、滅ぼされたというのは正しい表現ではない。今も王都の外側では何とか都を取り返そうと激しい戦いが続いている。
その努力むなしく、都は魔都として人の近付けない街になっている。かつて美しい白亜の建物が並んだ街は、今ではすっかり寂れ見る影もない。
昼日中でも空はどんより曇り、奇怪な生物が耳障りな声を上げて飛び回る。地上も地上で、既に骨ばかりとなった死体が散乱し、その骨を齧るネズミや魔物が闊歩している。
都は外界から完全に閉ざされていた。強大な魔法が都を覆い、人間は都の外へ出られないのだ。
逃げる暇もなかった住民たちは悲惨な生活を強いられている。昼間でも固く扉を閉ざし、必要がなければ外には出ない。たまに来る配給をじっと待つだけだ。
それでも彼らは、時折薄く窓を開ける。王宮を見上げては、こっそり祈りの言葉を捧げる。
王宮の尖塔。その先にあるのは一つのしゃれこうべ。
かつてこの都が栄華を誇っていた頃、この国を治めていた勇ましき王のなれの果てである。
国民は痛ましいその姿に、昔の生活を思い起こし涙を流す。そしてただひたすらに祈る。
いつかあの王の血を受け継いだ御子が、この苦境から救い出してくれる事を信じて。
その御子を探すのは、現在の主も同じ事だ。
但し、厳密にいえば少々違う。
彼は子供になど興味なかった。求めるのは、魔物に占領されたこの都から見事に子を連れ去った剣士である。
魔王子と呼ばれる彼は苦痛に顔を歪めた。
押さえた左目は潰れ、一直線に傷が走っている。そして蔓草の様な呪いの刻印……
もう十年以上前の傷だというのに、未だに痛みが襲う。彼が剣士に持つ憎しみが消えずにあるからだろう。
永い事彼は剣士と争ってきた。初めて剣を交えてから、半世紀は経とうとしている。
しかし、未だ剣士を殺すに至っていない。出会ったばかりの頃こそは、彼の力は剣士をはるかに凌駕していたというのに。
様々なものを得て、剣士は彼と比肩する力を持った。
あの剣士さえいなければ、世界はもっと容易く混乱に陥っていただろう。しかし子供を連れ去って以来、剣士は姿を消してしまっていた。居場所を突き止める事も出来ない。
何を考えているか分からないが、存在を隠すのに忌まわしい三人の王が絡んでいる事は明白だ。恐らくは魔界や聖霊界の住人たちも一枚噛んでいる。
全くもって不愉快な事だ。
彼は苛立たしげに地を蹴った。唇を噛む。
ふと、彼の表情が変わった。
数日前に受けた報告を思い出したのである。その時はつまらぬ人間同士の争いだと、気にも留めなかったのだが。
今頃になっていろいろ思い出したのだ。
彼の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
「クククッ…お前の事だ。決して見捨てられまいよ……」
低く呟いた言葉が闇の中に木霊した。
◆
スタットは本当に小さな村だった。
人口は僅か三十人ほど。深い森と霧に囲まれ、旅人さえ近づかない。二ヶ月に一度馴染みの行商人がやってくる以外は、訪れる人もいない。ほぼ自給自足の生活である。
若い姿もない。
見たところ成人していないのは、レオンの二人の子供と村長の孫娘くらいである。一番の働き手となる年代も五人いるかどうか。後はかなりの年配者ばかりである。
しかも年寄りたちは余所者を好まないらしい。リデル達の姿を見るなり声を潜め、こちらの様子を窺う。
気分の悪い事この上ない。
その事を極力遠回しにレオンに告げれば、彼は困ったように笑った。
「すまない。彼らはどうにも頭が固くて……」
しかし、そう言われた翌日には村人たちの様子が少し改まっていて、かなり驚いた。少なくとも人の顔を見て、これ見よがしにひそひそと話す事はなくなった。
レオンは随分発言力があるらしい。しかも、やはり見た目通りの年齢でもないらしい。本人が人間だと言っているのだから、人間の血を一番濃いのは間違いなさそうだが。
見た目は確実に年上の男たちが、彼には丁寧に話しかけていた。レオンも特に敬意を払っているのは長老だけに見える。
村長の孫娘は答える。
「そりゃそうだよ。レオンはこの村の護り手だもん」
彼女は快活に笑う。
村長の孫娘、名をローズといった。年は十六でリデルと同じ。黒髪に深い青い瞳が印象的な可愛らしい娘だ。ただ、同じ年頃の娘たちより、少々上背がある。その長身のせいか、僅かながら声もハスキーな感がある。男装しても似合いそうだ。
リデルは首を傾げる。
「護り手って、そんなに重要な事か?」
「よそは知らないよ。この村ではね」
場所によっては村や町を守る自警団がある。それはもっと大きな場所に限る。小さな村は外敵も少ないからそんなに必要もない。
リデルは首を傾げるばかりだ。
「こんな場所だけどね、たまぁに盗賊や山賊がねぐらにしようとする事もあるから、結構大変なんだ。外はどういうわけだか魔獣だらけだし」
ローズは苦笑した。
リデル達はこの村に滞在する事を余儀なくされている。
ヴィーゼの事もあるが、それ以上にリデルの手に問題が発生したのだ。
レオンでさえ気付けなかった。
「腐ってる…?」
翌日もリデルの手を診たレオンが呆然といった様子で口にした。
昨日は赤く膨れただけのように見えた手は、今や完全に爛れ異臭を放っている。硬直した夫越しに覗き込んだ妻が思わず悲鳴を上げたほどだ。
「こんなになるまで、なんで何もしなかったの!?」
すかさず手を取り、魔法による治療が施された。それでもあまり良くならない。治癒魔法はただの傷ならいいのだが、炎症などを起こしていると効きが悪くなる。
レオンが傾いだ。呆れ果てた口調で訊ねる。
「これは昨日今日の傷じゃないな?」
「……」
リデルは気まずそうに上目遣いで彼を見た。怒っている様子はないが、表情は険しい。
「いつから我慢してきたのかは知らないが、これから先も旅を続けるなら、妙な意地は張らない事だ。いいね?」
彼は厳しい口調で言いつけた。
無論リデルは反論したが、それ以上にレオンは厳しかった。
「今ならまだ綺麗に治してやれる。痕も残さずにな。だけどな、これ以上炎症が広がれば手が壊死する。手首から先を切り落とさないといけなくなる。それでもいいなら止めないがな」
最後はもう脅しに近かった。
ここまで言われて更に言い返せるほど、リデルに度胸は無かった。
ついでに、当分の間剣を持つなと厳命されて。
この村に来て一週間近くたつが、リデルの手から包帯が取れる事は無い。しかも手を使わないようにと、鍋掴みに似た厚手の手袋まで嵌められてしまった。これではやわやわと握ることしかできない。
ローズはもっさりとしたリデルの手を見た。
「それって不便じゃないの?」
「不便だよ。家にいる時は外させてくれるけど」
言い換えれば、外に出る時は必ず着けさせられるという事だ。
本来なら触れるだけで痛む傷だ。本人は我慢出来ても、それを見逃すほどレオンたちは甘くなかった。
味方と思っていたヴィーゼも同じだ。
リデルがブツブツ文句を言っていると、冷やかな視線と共に言われた。
「手を切り落としてもよろしいなら、何も申しませんが」
他人に言われただけなら不平不満もぶつけられるが、身内に言われるとかなり厳しい。
リデルは己の手を見つめた。
「良くなって来てると思うんだけどな……」
「無理して悪化させてもいい事なんてないよ。せっかく面倒見てくれるんだから、ちゃんと治した方がいいって」
ローズは言った。もこもこの手を取る。とってみて、初めてその厚さを知った。流石に驚いてしまう。
「何もここまで……」
「だろ?」
リデルは乾いた笑いを洩らした。
しかしローズは表情を引き締める。人差し指を立て、リデルの顔を覗き込む。
「されるって事は、相当酷いってこと!自分で過信しないの!!」
「…ハイ……」
リデルはがっくりと肩を落とした。
皆にここまで言われれば、完敗である。