4・昨日の記憶
俺はこんもりとした山の頂上に立っていた。どこの山なのか分からないけれど、丸くてなだらかなお椀を伏せたような形の山だった。地面の色はうすい茶色というかベージュっぽくて、草とか木らしいものは一切なくて殺風景な山だ。
「ここはどこなんだ?俺はどうしてこんなところに居るんだ?俺はさっきまで何してたんだっけ?」
山の周囲を見渡しながら俺は考えた。でも、答えは出てこない。
「ずっとここにいても仕方ない。とにかくこの山から下りよう。」
俺が山から下りようと一歩踏み出したその時、「・・・さーん」と遠くから誰かの声が聞こえてきた。
俺は立ち止まって耳を澄ます。
「まさみちさーん」
それは俺の名前を呼ぶ、女の声だった。女????俺の背筋に悪感が走り、腕には鳥肌が立った。顔にも無数のジンマシンが浮き出るのが分かる。声がどこから聞こえるのか判らなかったが、俺は身の危険を感じて走り始めた。
「まさみちさーん」確実に声が俺に近づいている。山を駆け下りつつある俺の目にふもとから駆け上がってくる女が飛び込んできた。
「ヒィーーーーーー」
下り坂で加速度がついていた俺はあおむけに倒れ込んで止まった。女は俺に手を振り、満面の笑顔で近づいてくる。しかもふもとから駆け上ってくる女は一人ではなかった。
数えきれないほどの女たちが手を振りながら俺の方に向かってくる。「まさみちさーん」と呼ぶ声が地響きのような不気味さで俺を襲う。
俺は地面に這いつくばって体を反転させ、起きあがろうとして目を疑った。さっきまで俺がいた頂上にも無数の女たちがいて俺に微笑みかけていたのだ。いつの間にか俺の周り、右にも左にも上にも下にも女が満ち溢れていて徐々に近づいて俺との距離を縮めてくる。
「助けて・・・助けて・・・」
声を震わせて俺は叫ぶ。俺は地面に両手をついて必死に立ち上がろうとした。と、俺の手が地面にめり込む・・・というよりは地面が柔らかくて温かい。まるで人の肌のように・・。俺の手のひらから伝わってくる山の斜面のこのリアルな弾力と温かさ。それはずっと昔、俺がまだ赤ん坊の頃、母親の胸に抱かれて母乳を吸っていた時の感触に似ている。
「この感触は・・・おっぱい・・・」
俺は理解した。この山は女の乳房だったんだと。オッパイ山・・・。
俺は気が遠くなるのを感じた。
俺のそんな事情には全くお構いなしに、無数の女たちはあっという間に俺を取り囲んだ。そして当然のような顔でニコニコしながら手を伸ばして俺に触れてくる。
まるで、千手観音に犯されているような気分だ。
立ち上がりかけていた俺は再びあおむけに倒れた。無数の女たちの顔と手が俺に迫ってくる。
「・・・もう、終りだ・・・」
女たちは実に楽しそうに俺の体中のあらゆるパーツをまさぐっている。
「神様・・・」
俺は気を失った。
目を開けると、俺の前には蒼い空が広がっていた。さっきまでの女の群れは消えていた。
「夢だったんだ。俺はどこかで眠ってたらしい。空が見えるということは外だな」
俺はホッとため息をついて笑った。
「気がついたんだ」
見上げていた空一面に突然、女の顔がヌーッと現れたものだから、再び心臓が止まりそうになった。
「ずっと、うなされてたよ。『やめて』とか『オッパイ山』とか。相当エッチな夢見てたんだね」
女は笑いながらそう言った。この女には見覚えが有る。つい最近どこかで見たような?
そこで俺の記憶は一気に戻った。この女に手を握られて・・・。
「急に蒼くなって倒れるんだもん。ビックリしたよ。でも、公園の近くで良かったよ。私、君を支えながらここまで歩いてきたんだよ」
俺は寝かされていたベンチから起きあがった。
「そうだ、思い出した。ホームセンターに行って、この手錠を外す道具を買うんだった。さあ、行こう」
俺はベンチから立ち上がって歩こうとしたがベンチに座っている前原美咲に手錠で繋がれた手を引っ張られた。
「どうしたんだよ。早くこの手錠外さないとお互いに不便だろう。さあ、行こうよ」
俺はベンチにゆったり座っている前原美咲に即時行動を促した。けど、美咲は思いつめたようにじっと前を見ている。
「どうしたんだよ?こんなところにいても問題は解決しないよ」
「私、君が気を失ってる間に考えてたの」
「????」
「昨日の事を」
「昨日?」
「なんで面識のない私と君とが手錠で繋がれたんだろうって。少なくとも昨日まではこんな状態じゃなかったわけでしょ?」
「まあ、それはそうだけど・・・」
「政道君は昨日のことって覚えてる?」
美咲が座ったままで唐突に俺を見上げた。目が真剣だった。
「昨日は・・・」
俺は昨日の事を思い出そうとした。
いつも通り、宅配の仕事でトラックに荷物を積み込んで1日街中を走りまわって、ノルマが終わって帰ろうとしたら赤石先輩に「飲みに行くぞ」って強引に誘われて、かなり飲まされて、酔っぱらって・・・それから?どうしたんだろう?目が覚めたら俺の部屋に居て、美咲と手錠で繋がれてた。俺はそのありのままを美咲に話した。
「じゃあ、酔った後のことは覚えてないのね?」
「まあ、そういうことになる」
俺はほんの数時間前の昨夜の出来事を覚えていない自分が情けなかった。
「私は昨日は地元のフリーペーパー用の撮影があって海へ行ってた」
美咲も昨日の行動を話した。
「『秋の海辺を歩こう』っていう企画で、スタイリストが用意したセーターとジャケット着込んで砂浜を歩いたんだけど、風が強くて寒くて泣きたいくらいだったよ。しかも最悪な事にカメラマンが意地悪で、『はい、そこでジャケット脱いでみて』とか言うんだよ。信じられないよ。私はフリーのモデルだから文句言えなくて言われる通りにジャケット脱いで震えながら笑ってたんだよ。」
そこで美咲は大きくため息をついた。モデルも大変な仕事なんだ。
「最悪だったのは撮影後。カメラマンが『オレは今夜フリーなんだけど、食事とか付き合ってくれない?淋しくてさぁ』ってにやけ顔で私を口説いてきたのよ。私のタイプじゃなかったし、意地悪されたから丁重に断ったの。そしたら私の耳元で『ちょっとくらい綺麗だからって調子に乗ってるんじゃねえぞ。バカやろう。覚えてろよ』って・・・サイテー」
美咲は「やだやだやだ」と本当に嫌そうに頭を振りながら呟いた。俺は美咲がチョット可哀そうになって、
「それは確かにサイテーだね。で、それからどうしたの?」
と聞いた。もっとましなフォローの仕方もあるんだろうけど、悲しんでいる女子をフォローした経験のない俺にとってはそれが精一杯の言葉だった。
「それから、一人で牛丼食べて電車に乗ったら疲れがどっと出てきて居眠りしちゃって、目覚めた時には君の部屋に居た」
美咲も手錠に繋がれた瞬間を覚えていないらしい。
「うーーーーん」
俺は唸った。一体誰が、いつ、どこで、何のために昨日まで一切面識のなかった男女を手錠で繋いで俺の部屋に連れて行ったのか?謎だ。まるで見当がつかないし思い当たる節もない。
「でもまあ、こんなとこで考えててもしょうがないからホームセンターでこいつを外せそうな道具を探そうよ」
俺は美咲が同意してくれること前提でそう言ったのだ。けれど美咲は、
「それは後からにしよう。もう時間がないのよ。時計見て。今12時よ。私13時から写真撮影あるから行かなくちゃ」
と言うではないか。
「はぁ??気持ちはわかるけど、こんな状態で仕事行ったら変だろう?俺はこんな状態じゃとても仕事なんてできないよ。今日のところは仕事キャンセルして、手錠外しに集中しようよ」
多分俺の言っていることは間違っていないと思う。
確かに気を失って時間を大幅にロスしたのは俺の不覚だったが、それも俺達をこんな手錠で繋いだ奴のせいなんだ。俺は被害者なんだ。俺は美咲の気持ちを変えるべく何度も手錠外しの重要性を強調した。でも、美咲は「仕事優先」の姿勢を崩さなかった。これが平常なら、その不屈のプロ根性には敬服するのだけど?
哀しいことに俺は美咲ほどのプロ意識を持ち合わせていないし、無理やり女子をねじ伏せる勇気も生まれつき持ってはいない。
「俺は、どうなっても知らないよ」
最後にはそう言って折れるより仕方なかった。
「じゃあ、一緒に私の仕事に付き合ってね」
美咲はそう言うと、ようやくベンチから立ち上がった。「やれやれ・・・この状態で写真撮影なんてありえないけど・・・もうどうにでもなれ」
俺の携帯が鳴ったのはその時だった。
見たことのない番号。普通なら無視するが、半ば自棄になっていた俺は勢いで携帯に出た。
「今の気分はどうだ?」
いきなりそう言われたものだから意味が分からなかった。間違い電話?
「綺麗な女と手錠で繋がれた気分はどうだ?」
「だ、誰だよ一体?」
少なくとも相手は今の俺の状況を知っているようだ。でも、声に聞き覚えは無い。
「手錠、外したいか?」
そう言うと相手はクックッと笑った。
「誰だ?俺達を手錠で繋いだのはお前か?」
「その女、綺麗だろう。俺が君と変わりたいくらいだよ、藤田政道君」
知らない相手が俺の名を知っていることに恐怖を覚えた。
「お前は一体誰なんだ?こんなことして何が面白いんだ?何が目的なんだ?」
俺は携帯に叫んだ。
「また連絡するよ。じゃあな」
俺の質問は完全に無視して相手は一方的に電話を切った。俺の隣りでは美咲が驚いたように俺を見つめていた。 (つづく)