2・片手で料理
左手で卵を割るのがこんなにも難しいとは知らなかった。
俺は右利きだからなおさらそう感じるのかもしれないが、左手に卵を持ち、殻を割るべく流し台の縁でコンコンと卵を叩く、その力加減が分からないのだ。強すぎると無残にも卵の中身が流し台のシンクに垂れ落ちてしまう。実際、俺はこの5分間に3個もの卵を無駄にしてしまった・・・あぁぁ、もったいないーー。自分の体のパーツながら改めて右手に「いつも俺がお世話になり、ありがとうございます」とひれ伏したくなってしまう。
そのひれ伏すべき右手は、今見知らぬ女の左手と手錠でシッカリと繋がれていて、俺の右隣りでは女が椅子に座って気持ちよさそうに居眠りしている。
「いったい何で女性アレルギーの俺が、こんな知らない女の為に目玉焼きなんか作ってるんだよ?俺が天罰を受けるような事でもしたか?だいたいこの女は勝手に人のすみかに泊った癖にお礼も無しで気楽なもんだ。料理くらいは作れよな」・・・と、心の中で叫ぶ俺。
「あーー、お腹すいちゃった。何か食べるものとかないの?」
トイレから出るなり女はそう言ったのだ。「あいにくだけど、ココはファミレスでもカフェでもファーストフード店でも無い」
俺は俺をひきつれたまま俺の部屋を歩き回る女にそう言ってやった。
すると女は「そう・・・じゃあ、君が何か作ってよ。メニューは任せるから。あ、ただし私はキャビアとパプリカが苦手だから、よろしく」とのたまわったのだ。
パプリカはいいとして、キャビアが苦手??俺はキャビアなんて喰ったもことねぇよ。キャビアもトリュフもフォアグラもフカヒレも、俺にとっては食材じゃなく「美味そうだなー。どんな味がするんだろう?どんなセレブがどんな顔して食べてるんだろう?」って妄想の対象でしかないんだよ。バカヤロー!
フライパンの上では丸い薄切りハムの上に乗った2つの卵がジュージューと心地よい音を立てている。この女さえいなければ、今頃はもっと楽しい朝の料理タイムになったはずなのに。全身に現れたジンマシンが消える兆候も無いし、本当に忌々しくてウザい女だ。
俺は自由な左手で出来あがったハムエッグを皿に盛り、その隣りに昨日スーパーで買っておいたチョコクロワッサンを2個づつ乗せた。
「朝食できたけど・・・」
「・・・・・」
「起きてくれるかな?」
「・・・・・」
「おい、起きろって」
俺は右手を大きく振った。女の手が連動してゆらゆら揺れる。
「ん?どしたの?」
女はようやく目を開けた。
「朝めし」
女の目の前に皿を差し出す。
「わぁ、美味しそう。君って料理出来るんだぁ」
女の目が輝いている。
「凄くいいにおい。盛り付けもイケてる」
たかがハムエッグごときでテンション高すぎるだろ。
俺と女は各々皿を左手と右手とに持ってテーブルへ移動した。俺的にはこんなわけのわからない女と一緒に行動したくはないが、手錠で繋がれている以上やむを得ない。部屋の中央のテーブルで向かい合わせに座ろうとしたが、繋がれた手が微妙に不自由なので椅子を動かして隣り同志に座ることにした。
「いただきまーす」
女はそう言うと右手でクロワッサンを口に運んだ。特に違和感なくスムーズに食べているところを見ると右利きらしい。
「美味しい」
今にも号泣しそうな感激ぶりだ。ハムエッグも箸で半熟の黄身をハムや白身にトッピングして実に美味そうに食べている。
それに引き換え俺は、慣れない左手で箸を使ってハムを挟もうとするのだが、何度も皿に落して食が前に進まない。この不平等は一体何なんだ?見知らぬ綺麗な女と同じ部屋で目覚め、並んで朝食を摂る・・・。普通に考えればロマンチックで、特に男にとっては最高のシュチュエーションだろう。でも、極度の女性アレルギーの俺にとっては嬉しくも楽しくも無い。正直、苦痛だ。地獄だ。
一刻も早くこの手錠を外してこの苦痛から解放されたい。
俺はチョコクロワッサンをかじりながら手錠を外す方法を考えた。鍵が無い以上何か道具を使ってこの金属の鎖を切断するしかない。とはいえ、このワンルームマンションにはのこぎりもニッパーもドライバーも無い。ということは、どこかへ買いに行くしかないということか・・・?手錠をしたままの状態で・・・?それは嫌だ。出来ることならこの状態で外に出ることは極力避けたい。
でも・・・じゃあ・・・どうする?
俺は寝起きで二日酔いの頭をフル稼働させて必死に考えた。
「食欲無いの?要らないんなら、私が貰ってあげるよ」
「べ、別にそういうわけじゃないよ」
「体にも吹き出物がいっぱいで来てるし、体の調子悪いんじゃないの?病院に行ったら?」
「これは・・・」
もう説明するのもウザかった。
兎に角この手錠を何とかしなければ。俺は何気に時計を見た。デジタルは『7:36』を示している。
そろそろ仕事へ行く時間だけど、この状態で仕事なんてありえない。
俺は左手で携帯を操作し、赤石先輩に電話した。そのまま左耳に携帯を押し当てる。幸い先輩は3回の呼び出しで「はぁい」と出てくれた。これが先輩の凄いところだ、。どんなに酔いつぶれていても、体調が悪くても必ず5回以内のコールで電話に出てくれる。こういうところも女にモテる条件なのだろうと俺は尊敬している。
「あ、すいません赤石先輩。昨日飲み過ぎたせいで体調悪くて・・・今日の配送、休ませてもらいたいんですが?」
リアルに頭を下げながら低姿勢で懇願する。
「あぁ、いいよ。俺もお前に無理言って飲ませ過ぎたからなー。ゆっくり休めよ。元気になったら女探しに出かけるんだぞ」
「あ・・・それは無理ですよ。本当に今日は外へ出られない状態なんですから・・・」
「じゃあ、俺が知り合いの女をお前のとこへ派遣してやろうか?体も心も介抱してくれるぞ」
「い、いえ。結構です。今日は1日安静にしていますから、お気遣いないく。赤石先輩」
「そっか。じゃあ、ゆっくり休んでろ。今日の配送は少ないみたいだし、お前の受け持ち分をみんなで分担して片づけとくから」
「ありがとうございます、赤石先輩。この恩は必ず返しますから」
「気にすんなよ。それといい加減『先輩』っていうのやめてくれよ。俺、照れくさくってよ。『赤さん』とか『レッド』でいいよ。女子たちはみんなそう呼んでくれるからな」
「はぁ・・・」
俺は先輩の女子友と同じ位置に居るわけか?
「じゃあ、迷惑掛けますけどよろしくです」
俺はそう言って電話を切ってから大きなため息をついた。
「仕事、休むんだ」
女がそう言った。皿の上のチョコクロワッサンとハムエッグは綺麗に無くなっている。俺は返事の代わりに残りのハムエッグとクロワッサンを左手で一気に口へ運んだ。
「食欲あるんだ」
俺の頭にかつて赤石先輩が言っていた「女は思ったことをいちいち口にしなくては気が済まない生き物なんだ」という言葉が浮かぶ。
「朝食終わり。さあ、片付けるか」
直接女に声をかけたくはないので独りごとっぽく言って立ち上がる。
「そうね。ごちそうさま。美味しかったよ」
女も立ち上がり二人並んで流し台へ皿を運ぶ。その時、どこからか音楽が聞こえてきた。これは・・・ベートーベンの「第九」だ。デジタル処理されていて着信音っぽい。
「あ、チョット待って」
女が急に向きを変えてテーブルに戻ったので、俺は右手を強引に引っ張られる格好で皿を落としそうになる。そんなことにはお構いなく、女は素早く右手でテーブルに置いていた携帯を取ると話し始めた。
「はい。おはようございます。お世話になってます・・・。今日・・・ですか?はい。予定空いてますからいいですよ。じゃあ、13時にスタジオへ直接行きますのでよろしくお願いします」
携帯を切ると女は俺に向かって「仕事入っちゃった」とほほ笑んだ。
「俺には関係ないけど、何の仕事してるの?」
反射的に聞いてしまう俺。
「モデルしてるの。て言ってもメジャーじゃなくて地元のショッピングセンターとか個人商店のモデルだけどね」
そういうと女は「仕事出来る時にしっかり稼がなくちゃね」と、やる気満々だ。ちょっと待ってくれよ。この状態を何とかしなくちゃ仕事なんて無理だろう。俺達の今の状況を理解できてるのか?
女は流しで手際良く皿を洗うと、「とりあえずこれを外さないとね」と左手を小さく振った。どうやら理解は出来ているようで俺は少し安心する。
「さあ、これを解除するための道具を探しに行きましょう」
女は早速外出するつもりらしい。
「でも、このままじゃまずいと思うけど」
俺は女の勢いをけん制する。
「じゃあ、ここで外せるの?」
「い、いや・・・ここでは無理だけど・・・」
「じゃあ、外へ出て外す道具を探すとかするしかないでしょ?」
ごもっともです。でも、手錠で繋がれたまま外に出たら怪しまれるだろう。警察に通報されたりとかの厄介事には巻き込まれたくないし・・・。けど、このままここにいても永久にこの状況は変わらないし・・・。一体どうして俺はこんなことになるんだよ?誰か助けてくれよ。
「さあ、考えている暇はない。行きましょう」
女が玄関へ向かう。
「イテッ。チョット待って」
俺の抵抗も虚しく女は俺を引っ張るように玄関でヒールを履いた。俺だけここに残れたら幸せだけど。
女の勢いに俺ももれなく付き従うほかない。泣きたい気分で俺もよろけながらスニーカーを履いた。
(つづく)