満月の夜
東京は、夜になるほど綺麗な街だ。
それは夢があるからじゃない。
暗闇をごまかすほど、光が多いからだ。
眠らない街。
終電を逃した人間。
酔い潰れたサラリーマン。
笑い声を上げる若者たち。
誰もが誰かといるのに、
誰もが少しだけ孤独だった。
その喧騒から一本裏路地へ入るだけで、
世界は驚くほど静かになる。
ビルとビルの隙間から、
満月だけが街を見下ろしていた。
夜風が吹く。
さらり、と長い金髪が揺れた。
腰まで届くその髪は月光を受けるたび、
黄金色ではなく、白銀にも似た淡い輝きを放つ。
まるで夜空からこぼれ落ちた月の欠片を、
そのまま糸にして編み上げたようだった。
細く長い脚。
華奢な肩。
黒いオーバーサイズのパーカーの下に
隠れていても分かる、
無駄のないモデルのような体つき。
歩くたびに髪が揺れ、その影までもが静かに踊る。
優希は立ち止まり、空を見上げた。
「……今日、満月なんだ。」
誰へ言うでもなく呟く。
月を見るのは好きだった。
埼玉の田舎で見上げる月も、
東京で見上げる月も変わらない。
変わったのは、自分だけだった。
十八歳。
春、高校を卒業すると同時に家を出た。
東京へ行けば何かが変わる。
そう信じていた。
けれど、何も変わらなかった。
何も、変えられなかった。
夜はコンビニでアルバイトをして、
休日は新宿を意味もなく歩く。
夢なんてない。
目標もない。
地元へ帰る勇気もない。
ただ、毎日を惰性で生きている。
それでも、この街の夜だけは嫌いになれなかった。
ポケットから小さな香水瓶を取り出す。
手首へ一吹き。
首筋へ一吹き。
甘く、とろけるような香りが夜風へ溶けていく。
最後にもう一度だけ、耳の後ろへ。
その瞬間、
優希の頬にある小さな涙ぼくろが
月明かりを受けて、控えめに影を落とした。
「……よし。」
誰に会う予定もない。
それでも香水をつけるのは、
自分が少しだけ好きになれる気がするからだった。
優希は再び歩き出す。
その甘い香りを。
“彼”は嗅いでしまった。
⸻
腹が減った。
違う。
これは空腹じゃない。
喉の奥で、何かが暴れている。
黒い影が路地裏の壁へ背中を預け、
浅く息を繰り返していた。
長く伸びた黒髪が頬へ落ちる。
夜より深い黒。
その隙間から覗く金色の瞳だけが、
不気味なほど鮮やかだった。
百八十六センチはある長身。
細身でありながら無駄のない身体。
鋭い輪郭に通った鼻筋。
端正という言葉では足りないほど整った顔立ち。
笑えばきっと、誰もが見惚れる。
けれど今、
その唇の奥では人間より少しだけ長い犬歯が
月光を受けて白く光っていた。
「……くそ。」
低く吐き捨てる。
拳を握る。
爪が皮膚へ食い込み、血が滲む。
痛みで誤魔化せ。
耐えろ。
いつもみたいに。
今日だけは。
あと少しで夜が終わる。
そう思った、その時だった。
風が吹く。
甘い。
香水。
花の香り。
ムスク。
その奥にある、生きた人間の血。
鼻腔を満たす香りに、全身が震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
いた。
月の中を歩く少女。
金色の長い髪は、
月を浴びるたび白く輝き、
夜風に流れるたび光の帯を描いている。
黒い服との対比が、
その姿をいっそう幻想的に見せていた。
細い首筋。
白い肌。
月光に照らされる横顔。
涙ぼくろさえ、月が描いた印のようだった。
綺麗だ。
その一言が。
理性を壊した。
止まれ。
止まれ。
止まれ。
頭の中で叫ぶ声は届かない。
身体は本能だけで動いていた。
風を裂く。
音もなく距離を詰める。
次の瞬間。
「っ……!」
優希の身体が背後から抱きすくめられた。
大きな手が口を塞ぐ。
突然の衝撃に息が止まる。
背中へ伝わる体温。
腕の力は驚くほど強かった。
優希は必死に暴れる。
しかしびくともしない。
耳元で荒い呼吸が聞こえた。
獣のような。
苦しそうな。
震えた呼吸。
熱い吐息が首筋へ落ちる。
ぞくり、と背筋が震えた。
白い肌へ、ゆっくりと何かが近付いてくる。
牙。
鋭く尖った犬歯が、あと数ミリで触れる。
噛め。
噛め。
噛め。
本能が叫ぶ。
もう止まらない。
その瞬間だった。
一滴。
温かい雫が優希の肩へ落ちた。
涙だった。
「……違う。」
掠れた声。
「違う……。」
牙が止まる。
「違うッ!!」
青年は優希を離し、自ら壁へ身体を叩きつけた。
鈍い音が夜へ響く。
一度。
また一度。
額から血が流れてもやめない。
「僕は……!」
苦しそうに喉を押さえる。
「まだ……人間だ……!」
優希は逃げられなかった。
怖い。
なのに。
目の前の青年の方が、ずっと怖そうだった。
「……ねぇ。」
震える声で問いかける。
「あなた……誰?」
青年は答えない。
「その牙……何?」
「何をしようとしたの?」
沈黙。
夜風だけが二人の間を吹き抜ける。
やがて青年はゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳は涙で揺れていた。
「……お願いだから。」
その声は、獣ではなかった。
一人の少年の声だった。
「僕を、追いかけないで。」
そう言い残し、
黒い影は夜へ溶けるように駆け出した。
優希はその場に立ち尽くす。
首筋へそっと手を添える。
あと少し。
本当にあと少しで。
自分は、噛まれていた。
それなのに。
恐怖より先に胸を占めたのは、一つの疑問だった。
――あの人は、どうして泣いていたんだろう。




