記憶の中で笑う彼女
休憩室で仮眠をとっていると忙しない足音が近づいてきた。その瞬間、荒々しい声色で名前を呼ばれる。
「舟木っ」
「は、はい」
僕は力の無い返事をして息を切らしている店長に視線をやる。
その表情を見る限り、また僕が何かをやらかしてしまったようで気が重くなる。
「ちょっと来い」
「はい…」
会話とも言えない会話を終えて僕は休憩室を出た。すると、売り場のレジ前には眉間に皺を寄せたお客様が立っていた。見覚えがあるような無いような、そんな曖昧な印象だった。
重い足取りでレジに向かい、僕はこのお客様から酷くお叱りを受けて何度も謝罪した。
今回お客様が怒っている理由は、注文した商品の納期が遅れるという連絡が無かったかららしいが思い当たる節もなく謝罪以外は何も言葉にしなかった。
僕は販売員として、このスポーツ用品店で働かせてもらっている。この店舗では、野球用品とゴルフ用品が豊富でお客様の大半はそのどちらか、もしくは両方の経験者が多い。
野球が好きな人はゴルフも好き、というオーナーの意向からこのような店舗になったそうだ。
そして、今怒っているこのお客様も野球とゴルフの両立をしている方らしい。
お客様の事を曖昧にしか覚えていない僕でもそのくらいは安易に分かった。まず、お客様は野球をしてきた帰りなのかユニフォームを着ている。野球のユニホームを普段着にする人なんて一度も見た事が無いので間違い無いだろう。それから、お客様が怒っている原因でもある納期の遅れている商品というのがゴルフクラブ。間違いなく、オーナーが狙っている客層の人物だ。
僕を怒鳴りつける中で言葉にしたクラブの名前を聞いてお客様の事を思い出した。
お客様の注文していったクラブは特注品で納品には時間が掛かると事前に伝えていた。何よりも確定した納期を何度も電話で伝えようとしていたがいつも不在だった。通話履歴を見れば証拠は得られるがお客様の怒りが収まるとは思えない。
それに、僕にとってはこんな些細な事どうだっていい。
この会社の事もクラブの事も僕自身の事もどうでもいいと思っている。
自分の勘違いで怒っているお客様の話は大体同じ内容を繰り返す。お客様の話が三週目に入った頃、レジ横のガラスケースに入ったブレスレットが僕の目に入ってきた。黒く輝くそのブレスレットはスポーツ用の物で何やら身体のバランスをサポートするらしい。よくある磁気の入ったネックレスみたいな物だと思った。とても胡散臭いが、アクセサリーとしてみれば中々良い。ついでにお客様も右手首に二つ似たようなブレスレットを身に付けていた。
お客様とは別に、黒ブレスレットの似合いそうな女性の顔が一瞬脳裏に浮かんで僕の心は締め付けられた。
気がつくと、お客様の表情から怒りは消えていて大人しくなっていた。このタイミングで納期の事や金額の説明などをすると改めて了承してくれた。
これでひと段落と思いたいが僕が身構えるのはこれからだった。
何故なら、お客様からのクレームを受けた後には必ず店長からの説教も受けるから。
店長室のドアをノックする。
「入れ」
店長からの指示を受けて僕はドアを開けた。
「失礼します」と言って中に入ると一息吸う暇も無く怒鳴られた。
「何回言えばわかんだよ、このクズが。納期の連絡もできない、売り上げもない。おまけに学歴もない。他の会社ならすぐクビだぞ?分かってんのか」
「はい」
「はいじゃねぇんだよ。返事だけなら新入社員だって出来んだぞ。ったく使えねぇな。お前みたいなのをクズって言うんだよ」
こんな風に怒鳴られるのなんて日常茶飯事で慣れっこだった。店長だってきっと怒りたくないけど僕がクズだから怒っているんだ。でも、いくら怒られても僕はクズ以外の生き方が出来ない。
どんなに熱く語りかけられても優しくされても、この心に穴が空いている限り何も響かないし何も変わらない。
これ以上この会社にいても邪魔者になるだけだと心底思った。途端に、僕は口を開いていた。
「今期でこの会社辞めます。これ以上ご迷惑はおかけしません」
「あ、おい」
まだ何か言いたげな店長を背に僕は店長室を出た。
この会社を辞めて、全て諦める。その選択肢は数年前から頭にあった。今のタイミングで決断した事に理由は無い。
その日の夜、僕は近所のコンビニで缶ビールと缶ハイボールを一本ずつカゴに入れていた。つまみは何を買おうか迷った末にピーナッツを一袋だけ。
コンビニを出てすぐにビールを飲み始めた。少し散歩したい気分になり河川敷まで足を運ぶことにした。河川敷に着くまでに缶ビールを飲み干してしまい、次はハイボールを飲み始める。
仕事が終わってすぐ酒に溺れるダメな大人。
満足に仕事も出来ず、他人に迷惑しかけない情けない大人。
夢も目標も彼女も友人もいない寂しい大人。
唯一得意な絵を描きたいと思っても、踏み出せない臆病な大人。
それが舟木柊であり、通称クズ人間。
河川敷の土手から見下ろす街は輝かしく僕なんかの住む街ではないみたいだった。十一月の夜風は僕の死を示唆しているかのように冷たかった。
もしかしたら、彼女が…片桐美羽が僕を呼んでいるのかもしれない。
気がつけばハイボールも飲み干してしまい、未開封のピーナッツだけを持って輝かしい街へと重い足を運んだ。
家に着いた僕は寝室に置いてある一枚の絵を眺める。
十年程、未完成のまま放置してある美羽の絵。くっきりとした切れ長の瞳に柔らかく上げられた口角。容姿も中身も素敵な女性だった。
美羽は…僕の恋人だった人。
そして、十年前のクリスマスイブのお昼頃に事故で亡くなった。
あの日の事が脳裏をよぎり激しい頭痛と吐き気が僕を襲う。酔いが回ったなんて比じゃないくらいに辛く、意識も遠のいてく。
ああ、やっとだ。やっと楽になれる。僕は静かに瞳を閉じた。
真っ暗な心の世界で走馬灯のように蘇る記憶の中心には美羽がいた。
高校二年生で同じクラスなった時は互いに関わる事はないと思っていただろう。
美羽は持ち前の明るさやリーダーシップでクラスの中心人物。
僕は一人で絵を描いている物静かなクラスメイトCくらい。
廊下に展覧されていた僕の絵に美羽が偶々興味を持って話しかけてくるようになり、彼女の強引なペースに呑まれて一緒にいる時間が増えていった。
そして、高校二年生最後の日。
全生徒が予想することも出来なかった一件が起きた。
片桐美羽が教室の前方に立ち、物静かなクラスメイトCの僕に告白したんだ。
「舟木柊くん。私はあなたが好きです。あなたは…どうですか?」
今思い返しても恥ずかしい。
確か、僕は震える声で「好きだ」と伝えた。それで僕と美羽は校内で一番有名な不釣り合いカップルになった。
一緒に試験勉強をしたり、体育祭では別チームになって競い合ったり、バレー部に所属している美羽の陰練を手伝ったり。そのお返しとして何度も絵のモデルになってもらった。でも、美羽はじっとしてるのが苦手で僕の邪魔をして楽しんでいた。それから、誰もいない静かな教室で互いの想いを確かめるように手を握り合った。誰が見ても素敵な時間だと思うだろう。
そして付き合ってから初めてのクリスマスイブ。僕は美大の受験を控えていてナイーブになっていたが美羽と都内のショッピングモールへデートに来ていた。
そこで入ったカフェで事は起こり始める。
「ねえ、見て?クリスマスっぽい純白のセーター買ったんだ。この日のために!」
「へー」っと興味のない返事をしてしまった。
今思えばこの日は美羽が頑張って会話を盛り上げようとして、僕が会話を終わらせる事ばかりだった。
「へーって、最近はそればっか。もういいよ、今日は帰るね」
美羽と話していてもどこか上の空で受験の事ばかり考えていた。
そのせいでクリスマスデートだというのに美羽を怒らせて一人で帰せてしまった。すぐ過ちに気がついて追いかけたが僕の視界に入ってきたのは、歩道に倒れている美羽の姿だった。
その近くには建物に突っ込んだであろうボコボコのワゴン車が一台。事故だ。
急いで美羽の元へ駆け寄った。美羽はまだ意識が微かにあるようで僕を見つめた。
「美羽、今救急車が来るから。大丈夫だから」
新調したと言っていた純白のセーターは血痕で赤く染められていて、本能的に助からないのではないかと思ってしまった。
僕が美羽の事をもっと考えていれば。せめて一緒に帰っていれば。全ての選択を間違えて最愛の人を苦しめている。
これからは美羽との時間を何よりも大切にするから、死なないで。
そんな想いとは裏腹に美羽の瞳から光が失われていった。
美羽は…僕を恨んで死んでいったに違いない。
美羽の最期を迎え、再び真っ暗な空間が広がった。
走馬灯とやらはここまでなんだろう。もう、充分美羽の事を思い出せた。僕は自分の犯した罪と共に美羽の元へ行く。
後悔は、あの日の事以外に何もない。だから、もしあの日に戻れるのなら今度こそ…。
「わあっ!」
「うわっ!」
突然、耳元で大きな声がして驚き目が覚めた。何が起きたのか分からない僕の目の前には悪戯に笑う美羽がいた。
あははと笑って机をバシバシ叩く美羽。そんな美羽の姿を見て鼓動は高鳴り瞳が熱くなった。ポツリ涙が頬を流れていく。
僕は考えるよりも先に力いっぱい美羽を抱きしめた。ずっとこうしたかった。
例え、幻でも構わない。
「ちょ、な、なに。どうしたの?」
「ごめん。美羽、ごめん」
ずっと謝りたかった。もう、その機会すらないと思っていた。
「んー。何のごめんかは知らんけど何でも許すよ?」
そう言って美羽は僕の頭を優しく撫でていた。その手の感覚や懐かしい美羽の匂いに癒される。
しばらくして僕も冷静さを取り戻し美羽から離れた。
冷静になればなる程に今の状況の不自然さを無視出来なくなった。
僕が見つめる先にいる美羽の姿。その美羽に触れられた時の感触や匂いまでも現実さながらのよう。そんな中、ふと思う。
「今日って何日?」
僕がそう呟くとすぐに返答が来た。
「二十三日。今さっきまで、明日のクリスマスデートどうするかって話してたじゃん」
美羽は頬を膨らませて僕の肩を軽く叩く。懐かしさを感じると共に痛みもあった。
これは幻影。妄想。空想。今の現象に合う言葉を脳内で駆け巡らせた。そして、絞り出した一つの結論は信じ難く、笑けてしまいそうな程に馬鹿馬鹿しい。でも、他に最適な言葉を僕は知らない。
匂いや痛み、ましてや美羽の空気すら感じ取れるリアル感。まさにタイムスリップ…。
そんなことあり得るのだろうか。でも、今こうして感じている感覚がタイムスリップを肯定している。もしそうだとしたら、明日亡くなる運命の美羽を救わなくていけない。そのチャンスが今僕の元に来たのかもしれない。
二度と美羽を失いたくはない。僕は運命を変える。
そんな決意の元、周囲に目をやった。
感覚的に知ってはいたがここは美術室。少し変な感じで言葉では表しにくいのだが自分の現在の学年や直近の記憶などは感覚的に分かっているようだった。昨日もこの学校に登校して過ごしていたかのような不思議な感覚。
当時持っていたものは全てある。そして、当時無かったこれから起こる事の記憶を僕は持っている。だから、美羽の運命も今の僕なら変えられる。
「ねえ、何で無視すんの」
「あ、ごめん。ちょっと考え事を」
美羽は呆れるようにため息をついていた。
「また大学の事?まあ、しょうがないんだけどさ…もう少し私を見ても良くない?」
『そんなの合格してからでもいいじゃん』って過去の僕は言ってしまったんだ。
合格どころか美羽との時間は受験前に終わってしまったというのに。
僕は息を呑み言葉にする。
「いつもごめん。受験よりも美羽の方が大切なのに…」
美羽は目を丸くして少し固まった。かと思いきや笑みを浮かべて僕の頬を指で突いた。
「謝んなくていいんだよ。柊が美大に合格するのは私の目標でもあるし」
これまでの記憶を辿っても見当たらない美羽からの言葉に戸惑った。
「ど、どういうこと?僕の美大合格が美羽の目標って」
すると、美羽は頬を赤らめて恥ずかしそうに話してくれた。
「柊は、いつか絵を描いて有名になるの。美術家でもいいし、漫画家でもいい。イラストレーターとかもありだよね。あー、絵本作家も素敵じゃない?」
「う、うん」
僕が相槌を打つと美羽は優しく儚げな笑みを浮かべた。その表情もまた初めて知るものだった。
美羽は話の続きをする。
「それでね、有名になった柊の記憶の中で私は生き続けるの。柊はとても魅力的な男性だから私なんかよりも素敵なパートナーを見つけて幸せになるの」
僕は言葉に詰まりながらも、それは違うという思いで首を横に振った。
言語化するまでには少し時間を要したが美羽がじっと待ってくれていたのでゆっくりと言葉にする。
「僕は、何も出来ないクズだから。きっと将来は美羽に愛想尽かされてるよ。どうでもいい職について夢も目標もないまま時間だけ浪費する…そんなくだらない人生になると思う」
「自分をクズだなんて言わないで。柊は私が好きになった、たった一人の男性なんだから」
こんな僕を好きだと言ってくれる。絵を描く事以外に何もない僕を肯定してくれる。そんな美羽が愛おしくて…そんな美羽にだから罪悪感が募っていく。
美羽が僕の右手に触れてきた。少し冷たくて柔らかい優しい手。その手はやがて僕の手と絡まり繋がる。
こんな些細な幸せを僕は忘れていた。もう長い事、人肌に触れていなかった。
再び込み上げる涙を抑えて美羽の手を握る。もう決して離さないように。
「今日はもう、帰ろうか」
美羽がそう言い出して僕は頷いた。
外は暗くなっていて校内にも生徒は殆どいない。静けさと冷気に満ちていた。まるでこの世界には僕ら二人しかいないように思えた。
校舎の外に出ると美羽がはぁっと息を吐く。白くふわりと浮かんだその吐息は瞬く間に消えていった。すると、こちらを見て美羽がニコッと笑った。
僕も何故だか釣られて笑ってしまった。何年も笑えていなかった僕はうまく笑えているだろうか。そんな心配が頭の片隅にあった。
「なんかさー。柊が笑うの久しぶりだね」
一瞬、心を読まれたのかと思いドキッとしたがこの頃は受験間近で笑う事などなかったのだと思い出した。
「なんか、少し笑ったら胸が軽くなった気がする」
「うん。何だか、いい顔になったよ。居眠りして起きたらこの世の終わりみたいな表情になってて少し焦ったわー」
色んな思いが表情に出てしまい美羽に気を遣わせていたのだと知った。実年齢で言えば僕の方が十歳ほど年上だというのに。全く、笑えてしまう。
「でさでさっ。クリスマスデートどうしよっか」
美羽の楽しそうな表情はまるで子どものようだった。
「僕はどこでもいいよ」
「じゃあ、最近オープンした都内のショッピングモールに行きたい」
「ショッピングモールに行ってどうすんのさ。映画とか?」
「あーいいね。映画も見ようよ」
「ホラー映画でいいんだっけ?」
「むー。いじわる。私がホラー苦手だって知ってて言ってるでしょ」
「まあね」
僕は苦笑し、美羽は頬を膨らませていた。
「ホラー映画なんて選んだら私は別の映画見てやるんだからっ」
「そりゃ、最低最悪なカップルだな」
美羽はあははと笑った後、冗談混じりに最低だねと呟いた。
「映画館なら僕がいいところ知ってるからそこに行かない?」
美羽との会話を楽しみつつも事故が起きた付近から遠ざけようと思い、僕から提案をした。
「映画館に良いも悪いもないでしょ」
「まあ、確かに」
美羽にツッコまれ、苦しい誘導だったと反省する。
「実はね、新しく出来たショッピングモールで柊に見せたい所があって…」と、美羽が恥ずかしそうに言った。
その反応を見て、僕は美羽の想いを尊重したいと思った。そもそも、事故が起きた時間と場所は僕が知っているのだから万に一つも危険は及ばない。
「分かった。任せるよ」
「ありがとう」
「で、僕に何を見せたいの?」
「えー、それ言ったら意味なくない?」
「イルミネーションが綺麗だとかそういうのでしょ」
「まあーそんな感じかな。柊も好きでしょ?」
「まあ、ぼちぼちね」
美羽がもっと素直になれよーと言って僕の横腹を突いてきた。何だかくすぐったくて笑けてしまい、二人でふざけ合いながらこの冬空の下を歩いた。
僕らはこの輝かしい街の一部となり人混みの中透明に溶けていく。
そして、美羽の亡くなった日を迎えた。
いや、違うな。美羽の運命を変える日がやってきたんだ。今日のデートで事故現場に近寄るような予定はない。仮にどんなアクシデントが起きても美羽だけは守る。それだけだ。
朝の九時に駅で待ち合わせた僕らは電車に揺られながら都内のショッピングモールへと向かった。
休日のクリスマスイブということもあってか車内は少し混んでいた。だが、二十分くらいで目的の駅まで着いた。道中は楽しみだね、なんて他愛のない会話だけをした平然を装っていた。でも、本当は緊張と後悔を同時に味わっていた。
クリスマスデートということもあってか、今日の美羽は気合いが入っていた。記憶にもはっきり残っている純白のセーターは少しオーバーサイズなのかふわっとしていて、黒のミニスカートから伸びるシュッとした足が上半身との強弱をつけていて、世界一可愛いコーデに思える。足は流石に寒いのかスパッツを履いていて…なんて観察しながら緊張しているのは僕がおじさんになった証拠なのだろうか。
それから、こんなにも可愛くオシャレをしてくれていたにも関わらず十年前の僕は全く気が付かなかった。中学生男子なら確かに疎いとは思うがそれを差し引いても最低だ。本当、こんな僕のどこに惚れる要素があったんだろうか。
罰ゲームで付き合ってますと言われた方がまだ納得出来そうだ。
駅の改札口を出てショッピングモールの方へと美羽が歩き出す。
「美羽」
僕の呼びかで美羽の足は止まりこちらを振り返った。
「今日の美羽とても可愛いよ。い、いつも可愛いけど、今日はそれよりも特別可愛い…です」
あと数年で三十歳になるのだからサラッと言えよ、と思うが僕としては逆に恥ずかしく目のやり場に困った。
美羽は僕の発言に驚いたのか、一瞬固まった。それから少しずつ頬が赤くなっていった。
「柊は疎いから気付かないと思ってた。仮に気付いても直接言う度胸なんてないかと」
「まあ、気付いたなら言うよ。言いそびれるのは嫌だしね」
僕の発した言葉に何か変な部分があったのか、美羽は何も言わず優しい眼差しで見つめてきた。
その後、予定通り映画を見た。ホラーで美羽を怖がらせても楽しかっただろうが、今回は美羽の強い希望によって恋愛映画だった。
病気を抱えたヒロインと主人公の王道作品。最後ヒロインは死んでいくと言う結末の予想が簡単に出来てしまい面白みに欠けるかもしれないと思っていたが、僕は大号泣。
記憶が正しければ前回も同じ映画を見た。当時は号泣どころか何も感じられず退屈だとすら思っていた。月日が経ち新たな経験も重ねて見方は変わるのだろう。
映画の後、僕らは一息付く為にまたしても前回と同じ喫茶店へ入った。
店員さんがすぐ席にやって来て、僕はカフェラテを注文し美羽は抹茶ラテにした。
その直後、話をしたくてうずうずしていた美羽が口を開く。
「柊って恋愛映画で泣くんだね、ふふ」
「僕は感受性豊かなんだ。ヒロインが死ぬシーンでポップコーンをモリモリ食べてた美羽とは違う」
「だ、だってヒロインが死んじゃうって事はクライマックスじゃん?ポップコーン早く食べなきゃじゃん!」
「それにしてもタイミングがあるでしょ」
「なに?エンドロール中に早食いしろっていうの?」
「そんな事は言ってな…」
やや口論になりかけたその時。
「お待たせしました。カフェラテと抹茶ラテですね」
マニュアルに沿った店員さんの言葉と共にカフェラテが目の前に置かれる。
変な空気になり店員さんが去ってから僕と美羽はクスクスと笑った。
「私達の痴話喧嘩が羨ましくて邪魔してきたねっ」
「そんな訳ないでしょ」と、僕が言うが美羽は抹茶ラテに夢中なようで聞いてはいない。そして、一口飲んでから美羽が呟いた。
「このお店、なんか良いよね…」
美羽に同調するように頷いた。
「私、同じ作品とか場所とか二度は楽しめないタイプなんだけど…このお店の雰囲気はとても好き」
「抹茶好きの美羽の事だから、抹茶ラテが美味ければ良いんじゃないの?」
僕は揶揄うように言い、美羽はあははと笑って誤魔化した。
「そういえば、感受性豊かな柊さんは今日の映画で印象に残ってるシーンってある?」
そう問われ、んーと唸りながら搾り出す。
「まあ、シーンというか…。最後、最愛の人を置いて亡くなるヒロインはどんな気持ちだったのかなーって」
僕の答えに対して、あーと相槌を打ってから美羽は言葉にする。
「別に何も思ってないと思う」
「え、なんで」
「だって、死ぬ側よりも残された側の方が辛いじゃん。もし、ヒロインが何か思っているんだとすれば主人公君の幸せくらいじゃない?」
これまでの自分と重ねて考えてみるが残された側の方が辛いなんて僕には思えない。確かにこれまでの僕は辛い思いを抱えていた。でも、死にはしなかった。
ふと、映画を見る前に考えていた事を美羽に聞きたくなって聞いてみる。
「美羽はさ、僕のどこが好きなの」
「と、突然きたね」
微かに笑いながらも珍しく戸惑っていた。
美羽は悩みながらも、んーそうだねっと話し始めた。
「初めて見た時は教室の隅でお絵描きしてる静かな人って印象だったんだけど。授業が終わると誰かに言われるでもなく黒板消したり、教室のゴミ拾ってたり。気の利く人だなって思うようになって。そしたらいつも楽しそうに描いている絵はどんな絵なのか気になって。美術室の壁に飾られている柊の絵を見てからは気になって仕方なくて強引に関わり出したんだよね。その後も告白に至るまで、柊の穏やかな雰囲気とか、真面目さとか変に自信無いところとか、色んな柊を好きになった」
「美羽が見た僕の作品って確か…」
「作品名、一匹オオカミ、です!」
何故だか嬉しそうに作品名を答える美羽。
「あの絵を見てこの人は一人でも生きていけちゃう強い人なんだなって。私もそんな強い人になりたいって思った」
僕はその作品の事を良く覚えている。描かれているのは大きな月と一匹のオオカミの背中。その背は力強く太々しく描いたが見せなかったオオカミ表情は泣いているんだ。
僕は一人ぼっちが悲しかったし寂しかった。自分からは誰にも話しかけられなくてずっと待っているだけだった。そんな僕自身を表現した作品なんだ。
「美羽は誤解してるよ。本当の僕は臆病者なクズだ。強いどころかヘタレで君の事さえ大切に出来ていない。それに…」
君の事を見殺しにしてしまった。そう言いかけてやめた。だって、今の美羽にとってそれは関係のない事で僕が無関係にしなくていけない事だから。
「もう出よっか」と美羽に突然言われた。
大してゆっくりしていないのに何故そんな事を言うのかと疑問に思ったが、携帯の画面に映る険しい表情をした僕を見てまた気を遣わせてしまったのだと反省する。
僕は大丈夫だ、と言おうと思ったが美羽がすでに席を立っていたので、飲み残したグラスを置き去りに会計を済ませてショッピングモールの中央広場へと来た。
夜にはイルミネーションがやっており、美羽はそれを見せたかったんだと思う。
外気が冷たくて僕の熱くなりかけた頭が正常になっていくのを感じた。
二人で木のベンチに腰掛け何も話す事なく緩やかに時間が過ぎていった。こんな当たり障りない時間がどれだけ大切だったのか今なら分かる。
ふと、広場の時計に目をやると美羽が亡くなった時間を超えていた。表情には出さぬよう、心の中で僕は喜んだ。込み上げる涙をグッと堪えて美羽の方へ視線を向けた。
「え、」
何故だか美羽の目に涙が浮かんでいて赤く染められたその頬を伝っていた。
「美羽?」
なんで泣いているのか分からなかった。分かってあげられない事が悔しかった。
僕の心情がまたしても表情に出てしまったのか、美羽は慌てて涙を拭った。
「ごめんね。柊」
「な、何が…」
「ごめん、私ね。私…死んじゃってるの」
思いがけないそんな言葉を聞いても意外と冷静だった。それどころか、これまでの魔法が解けていくように腑に落ちた。
「そ、そう、だよね」
タイムスリップなんかじゃない。そんな可能性は大いにあった…にも関わらず僕がそう信じて、美羽を救って罪滅ぼしの真似事をしたかっただけなんだ。
ごめんねと謝り続ける美羽に僕は問う。
「僕も死ねたの?」
「…」
美羽は悲しい表情を僕に見せた後、力強く抱きしめてきた。
それから、震える声で呟いた。
「死んでない、し。死なないで。柊は、私が柊の事恨んでるって勘違いしてたみたいだけど違うんだよ」
今は話を聞くべきだと思い相槌だけ打った。
「あの日、車に轢かれて意識が無くなってく私の元へ柊は駆けつけてくれた。あの時、私が伝えたかったのは怖さでも文句でも恨みでもない…私が柊に伝えたかったのは…」
今日という日は雲が分厚く、風は冷たい。妙な静けさに包まれていて音がよく聞こえる日だった。
あの日の思いを今伝えようとしてくれる美羽の心の音すら聞こえてくるようで、彼女が言葉にするよりも先に僕の瞳は熱くなっていた。
「柊…大好きだよ。これまでありがとう」
彼女の抱きしめる力は変わらずとも僕の感覚が鈍くなっていくのを感じていた。
きっとこの特別な時間はもう長く続かない。
「美羽、僕だって君が好きだ。君がいない世界ではもう生きていけそうにない」
そう伝えると美羽は僕の体に巻き付けた腕を解いて首を振った。
「駄目、生きて。言ったでしょ?柊は絵を描いて有名になるの。それで私は柊の記憶の中で生き続ける」
「そんなの無理だ。絵で有名になんて慣れやしない。僕は仕事でもミスしてばかりのクズだ。何者にもなれる訳ない」
「何者にでもなれるよ。ミスなんて恐れないで。例え納得のいく線が描けなくても何度でもやり直せば良いじゃん。そうやって自分だけの線を見つけて、もう一度私を…柊の記憶で笑ってる私を描いて。今この広場に居る私を描いて」
必死に言葉を並べる美羽。その想いに応えたいが僕じゃ役不足だ。
次第にこの冬の寒さすら感じれなくなっていく。今この現象が何なのか分からないが美羽との時間が終わる事だけは予測出来た。
「美羽、僕は…」
美羽は僕の言葉を遮るように唇を重ねた。今の僕では美羽の唇の柔らかさとか温度とか何も感じ取れやしない。それでも美羽の心の温かさが流れてくるように思えた。
美羽は涙を流しながら満面の笑みを浮かべた。
「ここで柊とキスするっていう生前の目標はやり遂げたしもう行くね。私の分まで頑張ってね。私を描かせたら柊は世界一だよ、大丈夫だ!」
僕は涙と弱気な心を拭い取り、美羽を見つめた。
そして、最後の言葉を瞬時に考えて選ぶ。
「美羽…またね」
僕の言葉を聞いて美羽はあははと笑っていた。
「あ、そうだこれ!柊に似合うと思って…」
そう言って投げられた黒いブレスレットに気を取られていると美羽はもう消えていた。
「僕も美羽に似合うと思ってたんだ…黒いブレスレット」
翌朝、目が覚めると僕は床に這いつくばっていた。
体は痛いのに心は軽くて、手には昨日お店で見た黒いブレスレットに似たものを持っていた。
昔から持っていたような持っていなかったような。あまり思い出せない。けれど、大切なものだと感じた。
気がつくと未完成の美羽の絵と向かい合いペンを握っていた。
昨日までは思い出すので辛かった、今は亡き彼女の絵。
くっきりとした切れ長の瞳に柔らかく上げられた口角。容姿も中身も素敵な女性だった。それと涙ながらに笑う魅力的な世界一可愛い僕の彼女だった。
十年の月日が経った。
僕は三十歳手前で画家を目指し芸術家として少しは有名になった。今日は僕の代表作の舞台ともなった都内のショッピングモール広場にて自作品の展覧会を開いている。
展覧会を開く度に色んな方々から称賛されるの人生を変えた一枚の絵。
ある一人の芸術家が僕のその絵を見てこう言った。
「輝く白き羽は天使を彷彿させ、その瞳は黒真珠さながら。涙ながらに微笑む表情は丸で幸せの絶頂にいるかのように思える」
実際の所、作者の僕ですら絵の中の彼女が幸せなのかは分からない。でも、そうであって欲しいと思う。
作品名。記憶の中で笑う彼女。
短編小説でした!
ライトノベルとかではない作品なので
楽しんでいただけたのかはわからないですが最後まで読んでくれた方々、ありがとうございます。
そして、これからも応援お願いします!!




