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帝都朔月戀物語

作者: 文月黒

 満開の桜が咲き誇る春の日に、帝都の女学校に一人の生徒が入学した。

 名を桜小路(さくらこうじ)八千夜(やちよ)という。

 古くより人々を脅かしてきた魑魅怨霊より帝都を守る使命を与えられた五つの戦巫女(いくさみこ)の家門、その一角を担う桜小路家の四女である。

 髪は烏の濡れ羽色、真雪の白さの肌と桜色に色付く唇の美しいその娘は、育ちの良さがわかる優雅な所作で二人の付き人と共に女学校の専用ロータリーに降り立った。

 入学式を終え、今日からようやく授業を受けるという女生徒達は、ロータリーに停められた桜小路の紋をつけた車を見て目を瞬かせる。


「見て、桜小路のお嬢様だわ」

「戦巫女の桜小路様でしょう。噂通り見目麗しいお方なのね」


 青年の付き人が二人もいるからか、はたまた本人の人目を惹く容姿からか、周りの女生徒達が八千夜を見てさわさわと(さざなみ)のように囁き出す。

 それ程までに八千夜は有名人であったのだ。

 それは家名に由来するところもあったし、もう一つの理由もあった。


「──でもあの方、神通力はお持ちでないのでしょう?」


 一人の女生徒が呟いたその言葉が風に乗って聞こえたらしく、付き人の一人が顔を上げた。

 大陸風の衣装を纏った青年の視線の険しさは、獲物を狙う猛獣の其れであった。

 一瞬にしてロータリーにぴりりと緊張した空気が流れたが、それを宥めたのは誰であろう八千夜である。


音弥(おとや)。およしなさい。わたくしに神通力がないのは事実なのだもの。いちいち気にしてはいけないわ」

「でもお嬢……」

「音弥よ、姫がこう仰せなのだ。弁えて黙れ」


 主人の説得にやや不満げな顔をしつつも、音弥と呼ばれた青年はへの字に口を曲げて八千夜の斜め後ろ、彼の定位置へと移動する。

 その間に車の運転手も務めていたもう一人の付き人の青年が日傘を広げ、主人に差し掛けた。

 先ほどの青年は逞しい体躯もあって護衛然としていたが、こちらの和装の青年は線が細く従者と呼ぶのが相応しい見た目である。


「姫様、参りましょう」

「そうね、(たつみ)。他の方々のお邪魔にならない内に校舎に入りたいわ」

「畏まりました」


 そうして三人は周りの視線を集めに集めて校舎へと向かったのだった。




「音弥、巽。それではまた放課後に」

「おう。おやつ用意して待ってるぜ、お嬢」

「姫様、行ってらっしゃいませ」


 校舎の入り口で付き人と別れ、八千夜は一人廊下を歩く。

 ここでも八千夜に少女達が好奇心と怖いもの見たさ混じりの視線を向けて来たが、本人に気にした様子は全く無い。

 八千夜は葡萄茶(えびちゃ)の袴と編上げのブーツで颯爽と廊下を進んでいく。


「ご機嫌よう、桜小路さん」

「あら、西園寺(さいおんじ)さん。ご機嫌よう。同じクラスなのね」

「不本意だけれどそのようね。西園寺の戦巫女たる私が、役立たずのあなたなんかと同じクラスだなんて、先生方は一体何をお考えなのかしら」


 八千夜が教室に入るなり嫌味たらしく声を掛けて来たのは、桜小路家と同じく帝都守護の使命を背負う西園寺家の次女・花乃(かの)だった。

 同い年ながら八千夜とは違い神通力を持って生まれた花乃は、まだ学生であるというのに西園寺の戦巫女として周りから高く期待されている人物である。

 花乃の嫌味は今に始まったことではないから、八千夜は困ったようにただただ笑って肩を竦めている。

 その態度が気に食わないのか、花乃の嫌味は更に続いた。


「桜小路さん。私があなたと同じ立場なら、家の役に立てない己を恥じて、きっと外にも出られないわよ」

「あら、そうなの。でも、わたくしの家族は力が無くともわたくしを愛してくれているわ。わたくし、両親にも姉様方にもとても大切にして頂いているのよ」

「どうだか。腫れ物扱いが関の山でなくて?」

「腫れ物だなんて……」

「だってあなたに出来ることなんてせいぜい囮くらいでしょう。腐ってもその身には桜小路の血が流れているんですもの!」

「そ、そんな……」


 花乃の言葉についに八千夜は俯いて黙り込んでしまった。

 それを見て花乃はようやく満足したのか、フンと鼻を鳴らして自席に戻っていく。

 息を殺して二人の様子を窺っていたクラスメイト達も、やはり八千夜は訳アリなのだと皆で揃って遠巻きにしている。

 下手に八千夜と親しくして花乃に噛みつかれては堪らないと思ったのかもしれない。

 このようにして、八千夜は入学早々独りぼっちで学校生活を送ることになってしまったのだが、本人はこれまでと特に変わらないわねと至極暢気に学校での時間を過ごすのだった。



「お嬢、お疲れさん」

「姫様。本日のお勉強は如何(いかが)でしたか」

「えぇ、楽しく学んできたわ。二人もお迎えありがとう」


 来た時と同じく二人の付き人に迎えられ、八千夜は艶々の黒い車に乗り込んだ。

 窓の外をぼんやりと見ていると、道沿いに最近増えた洋館が見えてきて、相変わらずハイカラな建物だことと感嘆する。

 西洋から入ってきた文化を取り込み、帝都は発展著しい。

 相次ぐ華族向けの女学校の開校もそうだし、街には洋装の紳士淑女も歩いている。車もそのひとつだろう。

 最近などは瓦斯(ガス)燈も普及し、以前に比べれば街中は夜でもずっと明るいのだ。

 けれども古来よりこの地に息づく物怪や歴史の中で生まれ出る怨霊は、変わらず闇に潜んでは人々を苛んでいる。

 そのような存在から皆を守るため、桜小路家をはじめとする神通力を受け継ぐ術者の家門達が御所に結界を張り、市中を廻って警戒し、日々人々の安寧のために尽力している。

 ──その中に、神通力を持たない八千夜は加わることが出来ない。


(わたくしにも神通力が備わっていたら、今よりもっと……)


 そう考える度に脳裏に浮かぶのは家族や屋敷の皆だ。

 神通力を持たないと判明した後も、家族は八千夜を何不自由なく大切に育ててくれた。

 両親は分け隔てなく愛してくれたし、優秀な戦巫女である姉達も、八千夜を役立たずなどと口にしたことは一度もない。

 だから八千夜は己に神通力が宿らなかった事を恥じたりなどしたことがない。

 けれど、八千夜も桜小路の娘である。

 家族のように、帝都の人々を守りたいと願う気持ちは人一倍強い。


「……巽。今日は新月ね」

「はい。星の光も遠く、今夜は一層暗い夜となりましょう」

「音弥。備えてちょうだいね」

「任せときな。あんな雑魚ども、俺がお嬢の側に行かせねぇよ」


 神通力を持たないとはいえ、桜小路の血を引く八千夜を狙う妖は多い。

 その血肉を食らって自らの力を高めようというのである。

 幸いにもまだ食べられたことはないので、それが嘘か真かは八千夜にはわからない。

 ただ、そんな妖がいるから、八千夜はいつだって護衛をつけられ、破邪の結界を張った桜小路の屋敷で留守番をさせられるのだ。


「ねぇ、音弥」

「んー? どうした、お嬢。おやつなら栗羊羹だぞ」

「まぁ嬉しい。って、そうじゃないわ。昼間、西園寺さんに言われたことなのだけど……あなた達、聞いていたのでしょう」


 八千夜の言葉に車内にピリッとした空気が流れた。

 まず口を開いたのは巽だった。


「えぇ。西園寺の小娘、その首叩き落として黙らせようかと思いました」


 続いて音弥が溜め息混じりに言う。


「俺は刀持った巽を止めるので必死だった」

「あらあら」


 そんな巽の怒りが充満する車内で、八千夜はやはり暢気な様子で肩を竦めるのだった。


 ***


 ──新月の夜というのは、魑魅魍魎の領分である。

 瓦斯燈が明るく闇を照らすほど、その影は色濃く深くなるものだ。

 帝都の要、御所の結界に綻びが生じてから数年。

 帝都を守る主だった家門は結界の張り直しに人員を割いている。

 ここが破られたら帝都を始めこの国は一気に黄泉(よみ)に飲まれてしまうという。

 現世と常世のバランスを取るための要石。それが御所の結界だった。


「ここも、神域としての力が弱まっているようだな」


 帝都外れの古びた神社で、若い特務軍人は古い桜の木を見上げて呟いた。

 青年は田舎生まれで、この度の配属で初めて帝都の土を踏んだ。

 とはいえ、妖や怨霊を相手にする特務軍人として帝都に召集されるほどだ。腕前はそれなりのものである。

 彼の得意は御霊鎮(みたましず)め、つまりは封印や浄化であった。

 討伐部隊の中では地味な役目だが、なくてはならない役目でもある。

 正式な配属は来月になるのだが、青年は実際に帝都を自らの足で周り、目についた範囲で神域を強化していた。

 御神木である桜の木に己の神通力を流して強化し、綻びかけた神域を立て直す。

 いつもと同じように神通力を練り始めた青年、高遠(たかとお)眞人(まひと)は闇の中から微かに物音がしたのに気付いて反射的に腰の軍刀に手を掛けた。

 ギチ、ギチ、と妙な音だ。鳥の鳴き声とも違うし、ましてや木々の葉ずれなどでは決してない。


「あっ!」


 そして眞人は闇の中に(うごめ)くものを見て思わず声を上げた。


(なんということだ。神域の中にまでこのようなものが……!)


 それは巨大な百足(むかで)の妖だった。

 大人の男の胴より太い身体とざわざわと蠢く数多(あまた)の足。

 ギチギチと聞こえていたのはその(あぎと)から漏れる牙の打ち合う音だった。

 眞人は小さく舌を打ち、大百足の攻撃を逃れるために機をみて大きく横に跳んだ。


 ──その時だった。


(なんだ?)


 眞人は星の光しかない夜空に黒い何かが横切るのを見た。

 しかし次の瞬間、強い力で殴られたような衝撃を顔に受け、彼はくらりと気を遠くする。

 意識の端で「まさか人がいるだなんて!」と若い女性の声が聞こえた気がして飛び掛けた意識を手繰り寄せる。お陰で軍刀を取り落とす不様は避けられた。

 この場には妖がいるのだ。女子供がいて良い場所ではない。救助せねば。

 ──妖や怨霊から民を守る。

 それは眞人の軍人として染みついた習性のようなものであり、行動原理だった。

 倒れそうになったのをグッと脚に力を込めて堪える。

 口の中に広がる鉄の味は先ほどの衝撃で口内か舌かを切ったからだろう。

 目の前がチカチカするが、それでもなんとか持ち直して視線を動かせば、桜の木の手前にオロオロとした様子の娘と、表情の読めない二人の青年が立っていた。


「あぁあ、ごめんなさいごめんなさい! わざとでは、けっしてわざとではないのよ! 人がいるとは思わなくて!」

「姫様、実に綺麗な顔面着地でございました」

「巽! そんなこと言っていないで! 音弥でもいいから早くこちらの殿方を手当して差し上げて!」

「ヤだね。男なんて助けてもちっとも面白くない」

「もう、あまり意地悪を言わないでちょうだい」


 巽と音弥と呼ばれた青年を従えて眞人の前に立った娘は、全身が黒で包まれていた。

 闇夜の中でもなお艶やかに光る射干玉(ぬばたま)の髪と舶来の玻璃(はり)のような瞳。

 纏う巫女装束は袴まで全て黒く染められ、その出立ちはまるで夜を切り取ったようだった。


「君は、」


 どうしてこんなところにいるのかと、僅かに非難めいた色の混じる声で言い掛け、背後の大百足が身体をくねらせたのに気付いた眞人は破邪の力を付与された軍刀を構えて娘を己の背に追いやった。

 まずは足止めでもなんでもして大百足を封じ、この場に術士の救援を送って貰う必要がある。それまで己一人でこの娘らを守らねば。

 そんな眞人の行動に、娘は驚いたのか僅かに目を見開いた。


「守って下さるの」

「僕は軍人だ! 弱き民間人を守るのは当然だろう! いいから君たちは僕の後ろに下がっていたまえ!」


 ギチギチと警戒音を鳴らしてこちらを窺う大百足に突きつけるのが軍刀一振りではあまりに貧相であるが仕方ない。

 懐から術式を書いた札を取り出し、口の中で起動のための言葉を紡ぐ。


(手持ちの術式では結界を張って足止めするくらいしか出来ないが、民間人をこの場から離脱させるのが最優先だ)


 眞人は結界を展開し、その内側に大百足を閉じ込めれば時間稼ぎが出来るだろうと踏んでいた。

 田舎では土地神崩れを相手にしたこともある。それに比べれば大百足程度、大したことはないはずだ。

 けれど。


「結界の効きが悪い……」


 確かに大百足を結界内に捕らえたものの、想定していたよりもずっと展開した結界は脆いものだった。これでは早々に破られてしまう。

 結界は得意だというのにこれはどうしたことだろう。

 眞人が困惑に眉を(ひそ)めたその時、背に娘の声がしてそっと掌が当てられた。


「──今宵は新月。新月の夜、帝都は守りの力が薄くなります」


 その言葉に眞人は目を見開いた。

 結界の出来を左右するのは術者の力量もあるが、その土地の力によるところが大きい。帝都がこれまで織り上げてきたこの地の結界の力が弱まれば、土地のは陰陽の均衡が崩れてしまう。そのため、このように結界の出来に差が出てしまうのだ。


「まさか! 帝都の結界はそこまで弱っているというのか」

「えぇ、残念なことに。今宵は皆、御所の帝をお守りすることで手一杯でしょう。ですから……」 


 闇夜に通る軽やかな声。


「ここはわたくしが一層張り切らねばならぬということよ」

「な、君、何を」

「軍人さん、ここから先はわたくしにお任せ遊ばせ」


 そう言って黒い装束の巫女はするりと眞人の背から抜け出て前に出ると、その場で舞手の如くくるりと身を翻して慣れた様子でいつ持ったのか手にした薙刀を構えた。


「さぁ、御勤めと参りましょう」


 そのどこか弾む声と同時に、大百足が強く身体を打ちつけて内側から結界を破った。

 興奮しているのか、先ほどよりも強く牙を打ち鳴らす耳障りな音が暗い境内に響く。


「君、待ちたまえ!」


 手を伸ばして娘の肩を掴むより早く、強い力で後方に腕を引かれて眞人は思わずたたらを踏んだ。


「何をする!」

「それは此方(こちら)の台詞だ。姫様の邪魔をすることは許さん。役立たずは隅で小さくなっていろ」

「うちのお嬢の勇姿を拝めるなんざそうそうないんだ。大人しく見学してなって」


 無理矢理に眞人を桜の幹の前まで追いやったのは、立派な仕立ての着物を纏った青年と大陸風の衣装を纏った大柄な青年だった。確か巽と音弥と呼ばれていた。

 眞人は不満を顕にしてなおも大百足に向かおうとしたが、青年らがそれを許さない。

 そこを動くなと視線を向けられると、不思議と足が動かなくなってしまった。

 もしや彼らも妖の類ではあるまいなと思った眞人の耳に、がきぃんと鉄同士が打ち合うような音が聞こえた。


「は……?」


 音の方へ視線を向ければ、そこには大百足相手に薙刀のみで立ち向かう娘の姿があった。

 軽やかに跳び、大百足の足を薙刀で切り払い、その背に飛び乗っては胴へと刃を振り下ろす。

 先ほどの音は薙刀の刃が大百足の胴を切ろうとして硬い表皮に阻まれる音であったのだ。


「もう! こいつ硬すぎるわ!」


 大百足の背から大きく跳躍して猫のように空中で体勢を変える娘は続けて叫んだ。


「音弥! ()()()ちょうだい!」


 娘の声に音弥と呼ばれた大柄な青年は嬉々として頷き、パァンとその場で大きく手を打ち鳴らした。

 青年の手元に一瞬だけ炎のような橙の光が見え、同時に術が発動する時によく似た空気の振動を感じる。


「応ともよ!」


 音弥が吠えた次の瞬間、娘の手にしていた薙刀は溶けるように消えて、瞬きの内に見慣れぬ武器が両の手に握られていた。形でいうならトの字に似た、把手のついた棒状の武器である。

 と、とん、とつま先で軽く地面を蹴りながら娘は武器を構える。

 その構えは柔道や合気道ともまた違うもので、以前に一度だけ見たことのある大陸の拳法というものがそれに近しいだろうと眞人は思った。ならばあの武器は大陸のものなのかもしれない。

 そう推察したのと、娘が大百足に向かって飛び出すのが同時であった。

 とん、とん、と猫のような軽やかな足取りで大百足の攻撃をかわしながらその身体を器用に駆け上り、勢いそのままに星しか見えぬ空へと大きく跳ぶ。


「御覚悟!」


 頂点に達したところで娘はくるんと体勢を変え、落下しながら思い切りよく手にした武器を大百足の頭部に叩き込んだ。


「……なんという……」


 あまりに鮮やかな身体捌きだった。

 危なげなく地面に降り立った娘の背後で、一拍遅れて大百足の身体が揺らぎ、ずぅんと音を立てて倒れた。


(この娘は一体何者だ)


 眞人は信じられないものを見る目で娘を見た。

 歳の頃はどう見ても女学生のような、一見すると本当にただの娘なのだ。

 それが息一つ切らせずたった一人で大百足を討伐した。


「軍人さん、お怪我はなくて?」

「君こそあんな大立ち回りをして怪我などしてはいないのか」

「まぁ、お優しい方。でも大丈夫。ご覧の通りピンピンしておりますわ」


 大百足の死骸を背に微笑む娘に、眞人はずっと抱えていた疑問をぶつけた。


「君は一体何者なのだ。たった一人でこのように妖を退治するなど……」


 けれど娘の人差し指が言葉を遮るように眞人の唇に置かれたので、女性に耐性の薄い眞人は慌ててしまって最後まで言葉を紡ぐことが出来なかった。

 唇に触れた先ほどまで武器を握っていたはずの娘の指先は柔らかく、そしてほのかな温もりがあった。


「軍人さん。今宵この場で見たことはどうかご内密に」

「ではせめて名前だけでも」

「御免なさい。堪忍してくださいまし」


 それきり娘は微笑むばかりで何一つ答えはしなかった。


「──姫様。そろそろ次に参りませんと」

「あぁ、いけない。そうね。新月の夜は長いのだもの。音弥、お願いね」

「任せな」


 そして止める間もなく、かき消すように彼らは眞人の目の前から姿を消したのだった。

 しんと静まり返る境内にはらはらと桜の花弁が舞い散る。

 大百足の骸と今になってジクジクと主張し始めた口元の痛みがなければ、眞人はきっと夢だと思っただろう。


「一体なんだったんだ……」


 ぽつりと漏らしたその呟きは、舞い散る桜の花弁の一枚のように静かに闇夜に溶けたのだった。


 ***


 ──そして日は過ぎ、とある吉日。天候にも恵まれたある日のこと。

 帝都を守る軍部の対妖部門たる特務部隊に正式に配属された高遠眞人は、上官と共に帝都内の高級料亭にいた。


「大佐。私のような若輩に見合いなどまだ時期尚早では……」

「何を言うのだ高遠中尉。私は君の歳の頃にはもうとうに結婚していたぞ」

「しかし、そも桜小路といえば名家ではありませんか! 私などでは到底釣り合いが取れません」

「何を謙遜する。君とて(さと)ではそれなりの家門ではないか。どんと構えておれば良いのだ」


 眞人は両親を亡くしているが、高遠家は元を辿ればそれなりに古い血統の家門である。

 しかし今の眞人は士官の一人に過ぎず、しかも田舎から帝都に出てきたばかりの田舎軍人だ。後ろ盾がある訳ではないから出世するかもわからない。

 どう考えても帝都を守る戦巫女の家系と名高い桜小路家と縁談を結べるような身分ではない。


(どうせ向こうから断られるだろうし、とりあえず来るに任せるしかないな)


 強引に勧められた見合いに気乗りがしないのは致し方ないことだ。

 初めて来た高級料亭という場所もなんだか落ち着かないし、既に帰りたくなっていた眞人だが、まだ見合い相手の顔すら見ていない。

 さっさと終わらせて帰ろう。

 そう思ったところに襖の向こうから声がした。


「桜小路様、ご到着でございます」


 女中の声に緊張からか自然と眞人の背が伸びる。

 しばらく後、介添人と共に部屋に入ってきたのは桜柄の振袖を着た娘だった。


「お待たせして申し訳ございません。桜小路八千夜でございます」

「な……ッ」


 闇夜の中でも目を引いた射干玉の髪は、こうして明るい中で見ても艶やかで美しい。

 吸い込まれそうなほど澄んだ玻璃の瞳。化粧を施しているのか、あの夜よりもやや華やかな印象の娘、八千夜は挨拶の後、顔を上げて眞人を見るとあらと目を瞬かせた。

 その様子を見て介添人と大佐は知り合いかと二人に問うた。


「知り合い、と申しますか……」


 上官からの問いに眞人は軍人らしくもなく言葉を濁した。

 そういえば、あの夜のことは内密にと頼まれていた。

 なんと言えば良いか一瞬迷った眞人は冷や汗をかきながら続けた。


「先日、慣れぬ帝都で難儀しておりましたところ、こちらの方に助けて頂いたのです」


 我ながら苦しい言い訳である。

 けれど桜小路の介添人も上官もその説明で納得したらしい。

 顔見知りならば後は若い二人でと挨拶した早々にその場に置き去りにされ、襖の向こうに感じる人の気配が遠ざかってから眞人はほうと大きく息を吐き、向かいの八千夜はその様子を見てくつくつと喉の奥で小さく笑った。


「軍人さん、秘密にしてくだすって有難うございます」

「……何か事情がおありとは思ったが、まさか桜小路のお嬢さんだとは」


 桜小路とは帝都守護として名高い戦巫女の家系である。そこの娘ならば妖退治もお手のものだろう。

 そこまで考えた眞人はふと抱いた違和感に僅かに眉を顰めた。

 目の前の娘は八千夜と名乗った。

 眞人は帝都にきてからその名を耳にしたことがあったのだ。


「あの、失礼だが桜小路の末娘である八千夜嬢といえば神通力を授からなかったと聞いております。ならばあの夜、あなたはどうして大百足を倒せたのですか」

「ふふふ。面と向かってお尋ねになるなんて正直な方。えぇ、えぇ、わたくし神通力はかけらもございません」

「ではなぜ」

「純粋に鍛錬の賜物ですわ。わたくし、神通力こそ授かりませんでしたが、実は身体能力が一族でも頭ひとつふたつ飛び抜けているのです。あ、これは家門の者も存ぜぬことですから、こちらも秘密にしていてくださいましね」


 振袖の袖で口元を隠してころころと笑う八千夜の様子に嘘は見られない。

 しかし眞人の頭の中にはとんでもない量の疑問符が回っていた。


(鍛錬の賜物といっても、あの尋常でない動きはもはや神通力の域ではないか!)


 軽やかに宙を飛び跳ね、全身の力を使って大百足の頭を砕いたアレが鍛錬の賜物の一言で済まされて良いはずがない。日々厳しい鍛錬に励む特務軍人でさえも、あれほどの動きが出来るものは少ないのだ。

 第一、あの場には確かに術の、神通力の気配がした。

 そして眞人は一つの可能性に気が付いた。


「そうだ、あの武器。あれに何かあるのでは」

「まぁ鋭い。左様です。ねぇ、高遠さま。せっかくですから続きのお話はお庭で致しませんか。ここのお庭はそれはもう見事なものですの」


 八千夜の示す先には確かに立派な庭園が広がっている。

 正直なところ眞人も外の空気が吸いたいと思っていたので素直にその提案に頷いた。

 女中の案内で庭に降り、連れ立って歩く。

 あの夜よりも小柄に感じたのは彼女の足元が革のブーツではなく草履であったからかもしれない。


「高遠さま。先ほども申し上げましたが、わたくし神通力は授からず、代わりにとっても頑丈な身体を授かりましたの。家の者は神通力のないわたくしを何故か病弱のように扱いますけれど、わたくしこれでも女学校の運動の授業では一番ですし、力だって人三倍ほどには強いんですのよ」

「それは、そうだろうな」

「高遠さまはそうお思いになる? でも不思議ね。家の者はどうしてだか気付きませんの。わたくし、とっても丈夫で、薙刀だって随分と上達したのに、誰に言っても信じて貰えなくって気が付いたら深窓の姫君のような扱い。ですからああしてこっそり家を抜け出していたのです」


 桜小路の末娘は神通力を持たぬ故に妖の格好の獲物である。

 魑魅魍魎が己が力を高めるために彼女を喰らおうと狙っている。

 そんな話を聞いたことがあっただけに眞人は現実との食い違いに困惑した。


「しかし、頑丈なだけで妖は倒せないだろう。危険なことに変わりはないのでは」

「頑丈なだけでないので外へ出ております。……ここからが、先ほどのお話の続きです」


 池の縁をぐるりと巡る小道を歩く八千夜の振袖の袂が蝶々のようにふわりと靡く。

 三歩ほど遅れて歩き、豪奢な帯結びを見ながら眞人は続く言葉を待った。


「わたくし、桜小路の血を引きながら神通力は授かりませんでした。わたくしの身体は空っぽの器。だからこそ障りなく神の力をこの身に降ろせるのです」

「は……?」

「高遠さまはご覧になりましたでしょ。巽と音弥。あの二人、普段はわたくしの付き人をしておりますが正体は神なのです。わたくしは彼らの力を借りて妖と戦っておりますの。あの夜わたくしが使っていた薙刀と旋棍はその力を具現化させたものですわ」


 とんでもない話である。

 神通力を操り、多種多様な術で妖を倒し怨霊を封じる。それが祓魔の常套であるというのに、この娘は神の力を借りて戦うと言った。あの武器こそが眞人たちのいうところの神通力そのもの、いやそれ以上のものだったのだ。

 大百足の頭を割った武器を思い出し、眞人はその力の強さに身震いする思いだった。


「しかし、神の力など降ろしては到底身体が持ちますまいに」

「それが桜小路の血、ということなのでしょう。そして……」

「そして……?」


 ごくりと眞人は唾を飲んで八千夜の言葉に耳を澄ませた。

 八千夜はひらりと袂をひらめかせ、眞人へと振り返って満面の笑みで言った。


「わたくし、術のことはさっぱりわかりませんが、妖だろうが怨霊だろうが大概はたくさん殴れば消滅するのです!」

「殴……っ」


 そういえばあの夜も最終的にはとどめの一撃は殴打であった。

 眞人は石のようにかたまって数秒八千夜を見つめ、そしてはぁと大きく息を吐いて脱力した。片手で顔を覆って俯くと八千夜の慌てる声がした。


「どうなすったの、高遠さま。やっぱりお転婆はお嫌い? それとも神降ろしなんて、こんなわたくしは気味が悪いかしら。あの、ご気分を悪くされたのならごめんなさい」

「──あの、」

「はい、ごめんなさい。わたくし、本当に……、あッ!」


 途端にしゅんとした八千夜の手を取り、眞人は困ったような怒ったような複雑な表情で口を開いた。


「桜小路八千夜嬢。君はどうにも危なっかしい。神の力を使えても術のことは無知だというし、今後もまた一人で妖退治に行くつもりだろう」

「えぇと、あのぅ、それは……、はい」

「あぁ、やっぱり。軍人として、男としてそんなことは見逃せない。だから、君には悪いが」

「……桜小路の家に告げ口なさるの」

「いいや。そんなことして何になる」

「では何ですの」


 じ、と悲壮な表情で見上げられて一瞬眞人は言葉に詰まり、しかしもう退けないと八千夜の細い指先を掌の中に捕まえたまま、真っ直ぐに彼女の潤んだ瞳を見つめ返した。


「君には悪いが、この縁談進めさせて頂く」

「はぇ?」


 ぽかんと口を開けた八千夜は、しばらく目を丸くしたまま眞人を見つめ、そして静かに呟いた。


「……よ、よろしいの?」

「良いも何も、それしかないだろう。あの夜のことは僕が何を言ったところで何一つ証拠もないし、君を桜小路の家の奥に仕舞い込んだとて勝手に抜け出して妖退治だ。かくなる上は、事情を知る僕が君の側について君を守るしかあるまい。監視のようで君には悪いが……」


 眞人はここに来てようやく得心がいった気がしていた。

 誰も彼もこの桜小路八千夜という娘をひどく誤解している。神通力がないからか弱いと思い込んで疑わない。

 そしてその誤解はきっと眞人一人が何を言っても解かれることはないだろう。

 彼女は深窓の令嬢として蝶よ花よと育てられたのかもしれない。だが彼女の本質はそんなところにはないと眞人は気が付いている。

 桜小路の一員として魑魅魍魎から帝都を守る。彼女がそのことに誇りをもっていることはあの夜の邂逅だけでよくわかった。わかってしまった。そしてそれだけで眞人が頷くには十分だった。

 そんな眞人に八千夜は瞳をうろりと動かし、居心地悪そうに呟いた。


「わたくし、ご存知の通りとっても強いの。それでも守って下さる?」

「あぁ。確かに君の方が力は強いだろうな。けれど、結界術や浄化術であれば僕の方が絶対に上だ。それに君、倒すばかりでその場の浄化など出来ないのだろう。あの夜も僕があの場所の浄化をして帰ったんだぞ」

「まぁ。そうでしたの……」

「君が倒す。僕が浄める。守りたいものは一緒なのだから、一緒にいた方が都合が良いし、本当に、本当に君は危なっかしいのだから、出来るだけ僕の目の届くところにいてほしい。いざという時は僕が盾となって君を守る。だから……僕と夫婦になって貰えないだろうか」


 ぎゅうと両手で八千夜の手を包み込む。

 八千夜の手はあの夜よりも熱い気がした。

 高遠さま、と震える唇が小さく開く。


「……嬉しい。わたくし、あの夜に高遠さまに守ると仰って頂いた時から嫁ぐのなら高遠さまのようなお優しい方のもとが良いと願っておりましたの。不束者ではございますが、どうぞ末永くよろしくお頼み申し上げます」


 白粉(おしろい)を軽くはたいた頬が桜色に染まり、泣き出しそうな顔で微笑んだ八千夜は眞人がこれまで出会った誰よりも美しかった。

 しばらく八千夜に見惚れていた眞人が、自分が女性の手を握ったままだということに気付いて声を上げるのは、このすぐ後のことである。


 ***


 季節は移り、秋から冬へと変わろうという頃の新月の晩。

 ざざ、と茂みを抜ける生臭い風に眞人は思わず眉を顰めた。怨霊、死霊独特の匂いがする。

 自分の着任からこちら、帝都の結界は少しずつ補強されてはいたものの、完全な復活まではまだしばらくかかるらしい。

 だからこそ眞人は特務軍人として帝都内を巡回し、妖や怨霊と日々交戦しては帝都の結界が維持されるよう場を浄めて回っている。


「眞人さま!」


 暗闇で名を呼ばれ、眞人は手の中に展開した術式に意識を戻した。集中しなければ。


「あと二分くれ!」


 そう叫んで薄くなった結界を張り直す作業に戻れば、声の先で何かを裂く鈍い音が返ってきた。

 重ねて弾んだ声が闇夜に通る。


「お任せくださいまし! 巽、行くわよ!」

「はい、姫様」


 ザッと勢いよく茂みを飛び出し、刀を手にした巽と共に追い掛けてきた低級の怨霊を薙刀で斬り払うのは、今宵も黒い巫女装束に身を包んだ八千夜だった。

 怨霊を薙刀で斬り、薙ぎ、時に逃げようとしたそれを革のブーツで踏み付けて、八千夜は今夜も縦横無尽に暴れ回っている。


「お嬢! こいつらで最後だ!」


 音弥が追い込んできた怨霊たちに向かって八千夜が大きく薙刀を振る。


「──御覚悟!」


 横一文字に斬り裂かれ、怨霊は端から崩れるように霧散した。

 最後の一欠片まできっちり霧散したのを確認して八千夜は眞人の元へと駆け寄った。


「眞人さま。浄化の方はいかがですか」

「ああ、こちらも終わったところだ」

「怨霊って倒すのは簡単なのだけれど、倒しても倒しても同じところにすぐに湧くのよね」

「それは君がきちんと場の浄化をしないからだ。ここいらの怨霊は土地に憑くことが多い」

「んもう、意地悪」


 ぷぅと頬を膨らませる八千夜に怪我はないかと確認すると、八千夜はたちまち機嫌を直して頷いた。

 この帝都は小さな結界を幾つも重ねて張ることで巨大な結界を構築している。

 新月の夜は土地の力が弱まっている場所や人々の感情の吹き溜まりになりやすい場所に張った結界が綻ぶと、こうして怨霊が発生しやすい。

 帝都の中心ならば特務軍人が巡回していても、こういった帝都の端は後手後手になってしまうのが現状だ。

 だから八千夜と眞人は、新月の夜は神通力を持たぬ八千夜を屋敷で警護するという大義名分を上手いこと利用して、このように隠密に動いていた。


「お嬢、帝都の西の端にある堀の方になんか良くない気配がしてる」

「あらあら今夜は千客万来ではないの」

「姫様、お疲れではございませんか」

「大丈夫よ。有難う」


 婚約してもなお神である音弥と巽はこうして当然のように八千夜の側にいて、眞人には時々それがどうしようもなく気に食わないが、これも彼女のためと割り切って小さく溜め息を零すに留める。

 帝都の結界が盤石(ばんじゃく)のものになり、静かで穏やかな新月の晩を過ごせるようになるまでこの慌ただしい夜は終わらない。

 その日が一晩でも早く訪れるよう、眞人は八千夜と共に星だけが煌めく夜を行くのだ。


「眞人さま、どうなすったの」

「いや、何でもない」


 振り返った八千夜が微笑んで眞人に手を差し出す。

 朔の夜に彼らの力に頼るのは仕方のないこと。

 どうしても彼らのあの距離が気になるのなら、今度は自分が昼日中に八千夜を連れて二人きりで甘味処にでも行けば良い。

 早足で追い付き婚約者の手を取った眞人は、子供っぽい悋気(りんき)を払うようにふるりと頭を振った。

 指先に力を込めれば当然のように相手もキュッと握る手に力を込める。今はこれで良しとしよう。


「そう? それでは──次の御勤めと参りましょう」


 夜を切り取ったような出立ちの美しい娘の言葉に頷き、眞人は共に力強く地を蹴ったのだった。




 月の隠れた朔夜(さくよ)のこと。

 誰にも言えぬ秘密を背負い、帝都を守る二人の(こい)と戦の物語。

 ()れにて一旦幕引きで御座います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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