✨️第003季 春光のまなざし✨️
桜雨の翌朝
窓を開けた瞬間に
目に飛び込んできたのは
昨夜の気配をすべて洗い流してしまったような
やわらかな光だった
濡れていたはずの石畳は
何事もなかった顔で朝陽を跳ね返し
校庭の桜は
水滴の代わりに
ほんの少し重くなった若葉を揺らしている
まるで
「昨日の特別なんて知らないよ」
とでも言うみたいに
世界はいつもの日常を装っていた
だけど
知っている
あの桜雨の下で
私、大隅綾音は魚住隆也と
一本の傘を分け合った
駅前までの短い道のりを
並んで歩き
何気ない会話を交わし
彼がそっと傘を傾けてくれた
その一瞬一瞬を
私はノートの端まで使って書き留めた
問題は
今日からだ
昨日までと
何かが違って見える教室
同じ黒板
同じ席
同じ教授の声なのに
私は講義の内容よりも
出入口の方へ意識を引きずられてしまう
「また会える確率」
を、私はこっそりと
計算し続けている
すれ違うタイミング
視線の交差角度
あいさつに費やされる秒数
どれもこれも
数学の教科書には載っていない変数ばかりだ
桜雨が過ぎ去ったあとの
春光の一日
昨日まで
「当たり前」
だと思っていた風景が
ふとずれて見える
その小さな違和感
期待と不安
行ったり来たりを繰り返しながら
少しずつ新しい位置に
落ち着いていく
ある出来事を境に
世界の彩度が少しだけ変わった!
そんな朝の記憶があるのなら
どうか、
この季のページをそっと開いてみて!
光に照らされて
浮かび上がる心の
「ずれ」
が、きっと
あなたのどこかにも
ひそやかに響いているはずだから……
晴れた空に残る「昨日」の影
目覚ましより少し早く目が覚めた
カーテン越しの光が
いつもより白くて
まぶしい
枕元のスマートフォンを手に取ると
画面には何の通知もない
当たり前のことなのに
なぜか少しだけ
肩透かしを食らった気持ちになる
自分に気づいて
私は小さくため息をついた
そもそも、連絡先さえ知らないのに
昨日、駅前で別れたとき
「また大学で」
と言った彼の声が
何度もリフレインする
あの一言が意味する範囲を
私は勝手に広げたり狭めたりしながら
朝食のトーストをかじる
キャンパスへ向かう道は
もうすっかり乾いていた
水たまりのかわりに
日向と日陰の境目が
くっきりと浮かび上がっている
私は昨日と同じ並木道を通りながら
つい、傘を持たない右手を見つめた
あのとき、
彼の肩に触れそうになった指先
もう少し背が高ければ
もっと自然に並んで歩けたのだろうか
取り返しのつかない
「もしも」
は、いつも現実よりも饒舌だ
一秒のずれ
一行のずれ
午前中の必修科目
教室の後ろの扉が開くたびに
私は反射的に顔を上げてしまう
三度目までは
自分でも笑って誤魔化せた
五度目を過ぎたあたりで
「これはちょっと重症かもしれない」
と認めざるを得なくなる?
ようやく彼が入ってきたのは
講義開始のチャイムから
二分ほど経ってからだった
手には、昨日と同じノート
髪は、もうすっかり乾いている
彼はいつもの席
前から三列目の右側
に向かって
何でもない顔で歩いていく
問題は
その視線の軌道だった
教壇
空いている席
窓際
私の座っている列の
わずか手前で
彼の視線は一度だけ
ふわりと揺れた
ほんの一秒
けれど
私の心の中では
その一秒が永遠に感じられた
もしかして
私を探していた?
それとも
ただぼんやりしていただけ?
講義ノートの一行目には
教授の名前を書くつもりだったのに
気づけば
「4/○ 快晴」
とだけ記している自分がいる
昨日の私なら
日付欄の横に
天気をメモするなんて
絶対にしなかった
たった一度の桜雨が
私のノートの書き方まで
少しずつ変えてしまっている
「たまたま」
が重なるとき
昼休み、図書館
いつもの自習スペースは
レポート提出前らしく
珍しく満席に近かった
諦めかけて
踵を返したところで
奥の窓際に一つだけ空席を見つける
そこには
背の高い男子学生の姿
魚住隆也
隆也は窓側の席に座り
その隣がぽっかりと空いていた
迷う
ここで引き返せば
おそらく別の席を探すだけ
でも
隣に座る理由も
座らない理由も
実はたいして変わらない
私の足は
気づけば隆也のテーブルへ
向かっていた
「ここ、荷物置いてる?」
「あ、綾音。どうぞ!空いてるよ!」
名字ではなく
下の名前で呼ばれたことに
心臓が一瞬止まりかける
昨日
駅前でそう呼ばれたからかもしれない
私の中では、
たった一度の例外が
あっという間に
「既成事実」
として登録されてしまう
「レポート?」
「うん。統計の……。綾音は?」
「同じ。誤差の話とか
読めば読むほど
自分の心が一番ブレてる気がしてくる」
隆也がふと微笑む
その微笑みが
昨日と同じであることに
私は密かに安心する
「そのブレも含めてデータにしちゃえば?」
「そんなの、標本になりすぎて恥ずかしいよ!」
会話のテンポが
昨日より半拍だけ早い
相槌の間合い
視線の戻る位置
ページをめくるタイミング
いろんな要素が
少しずつ
「たまたま」
重なって
テーブルの上に目に見えないリズムを作っていた
ずれが生む
ささやかな不安
午後
教室の席替えで
私は窓際から通路側へ移動した
ささいな配置の変化なのに
視界が一気に変わる
いつも見えていた
景色が見えなくなり
代わりに
今まで意識しなかった人の表情が
よく見えるようになった
隆也は
少し離れた列の中央付近
彼は真剣な表情で
時々、鋭い質問を投げかける
その横顔を見ているうちに
私はふと
胸の中に小さな違和感を覚えた
昨日
一つの傘の下で
並んで歩いた方と
同じ人だろうか?
もちろん
同じだ
だけど
教室という「公」の場にいる
魚住隆也は
昨日より少し遠くに感じられる
その距離感が
私の心の物差しを狂わせる
私は声をかけそびれてしまった
タイミングを逃しただけ
それだけのはずなのに
足元の床が
ほんの少しだけ傾いたような
不安定さが残る
昨日のあの近さは、
やっぱり雨の魔法だったのかな?
春光のまなざし
夕方の帰り道
校門を出たすぐ先の横断歩道で
信号待ちの人だかりに
私は飲み込まれる
白線の上に
並ぶ靴のつま先を眺めていると
不意に
右斜め前から声がした
「綾音!」
振り向くと
そこに隆也がいた
夕陽を背に受けて
少し眩しそうに目を細めている
昨日の雨音の代わりに
今日は車のエンジン音と
人々のざわめきが
背景に流れていた
「さっき、
ゼミのあと声かけようと思ったんだけど
タイミング逃しちゃって」
「……私も
席、変わっちゃって。
なんかよくタイミングが分からなくて」
言いながら
自分で自分に苦笑する
たったそれだけのことで
こんなに揺れていたのかと
少し自己嫌悪情
隆也は少しだけ考えるように
視線を落とし
それから、ゆっくりと言った
「昨日、
一緒に駅まで歩いたでしょ。
あれ、すごく嬉しかったから、
ちゃんとお礼言いたくて」
「え?」
「傘、半分貸してくれたこともそうだけど……
ああいう時間って、滅多にないなって!」
春の光が
彼の黒目の中で柔らかく跳ねる
そのまなざしを
真正面から受け止めた瞬間
私はやっと理解した
私だけが
ずれているのではなくて
彼もまた
昨日から少しだけ
いつもの位置を
動かしているのだということを
信号が青に変わり、
人の波が押し出されるように動き出す
私、綾音と隆也私は
一緒に横断歩道を渡った
昨日とは違う
傘のない空の下で
「ねえ、今度さ」
彼が、
歩きながら
少し照れくさそうに続ける
「図書館じゃなくて、
どこか静かな所で
一緒にレポートやらない?」
心臓が
今度ははっきりと音を立てて跳ねた
昨日の雨の中で生まれた
「もしも」
が、今日の光の中で
少しだけ輪郭を得ていく
「うん。……行こ!」
その返事をした瞬間、
世界の色がひときわ鮮やかになる
桜の花びらは
もうほとんど散ってしまったけれど
若葉の緑は
これからまだいくらでも深くなる
私たちの時間もきっと、
そんなふうに、
ゆっくりと濃度を増していく……
ノートの余白に差し込む春の光
夜、自室
机に向かって
私は今日の出来事を
またノートに書き起こす
昨日より
少しだけ丁寧な文字で
信号待ちの横断歩道
春光に細めた彼の目
静かな所への
話題に移る寸前の、わずかな沈黙
どれもこれも
他人から見れば些細な断片だろう
けれど
私にとっては
確率を超えて
少しずつ積み上げていく
ページの端に
私は小さく
こう書き添える
今日
魚住隆也のまなざしは
たしかに春光を帯びていた
その一文を囲むように
自室の窓の外から
差し込む街灯の光が
ノートの紙面を
淡く照らしている
桜雨の記憶と
今日の陽射しが
ページの上で静かに重なり合っていく
春光の一日が終わる頃
窓の外の空は、
ゆっくりと
夕暮れの帷に沈んでいく
昼間
あれほどはっきりと
世界を照らしていた光は
今は街灯と室内灯に役割を譲り
代わりに
心の中の輪郭が浮かび上がる時間がやって来る
今
私は確かに
一歩進んだのだろうか?
それとも
ただ立ち止まった場所が
少しだけ
違っていただけなのだろうか?
ノートを閉じたあとも
そんな問いが何度も頭をよぎる
けれど、
答えを急ぐ必要はないのだと
どこかで分かってもいる
色褪せることのない絆は
時間をかけて少しずつ育つもの
水をやりすぎても
光を当てすぎても
きっと上手くいかない
ちょうどよい距離感と
ちょうどよい沈黙
そのバランスを探りながら
私と隆也は今
春という季節の上に立っている
✨️第004季 ふたりの始発駅✨️
「ちょうどよさ」
思いがけない形で良い意味で揺らぎ始める
静かな所での勉強会
互いのノートが似ている?
に気づいたときの驚きと
くすぐったいような尊敬
そして
小さな勘違いから生まれる
心の温度差。
私が書き留めたノートの記しは
ときに私自身を縛りもする
昨日との違いを必死に探すあまり
目の前の彼の変化を
見落としてしまうこともある?
それでも
ページをめくる手を止めない限り
物語は静かに続いていく
私はまた十九歳のまなざしのまま
喜びと不安の両方を抱きしめながら
一歩先の光景を描いてみたいと思う
桜雨が遠ざかり
若葉が風にきらめく頃
私と魚住隆也の時間は
もう一つ先の季節へと
ゆっくり歩みを進めていくのだから




