✨第059季 病院の待合室の静けさ✨
病院の待合室には
「言葉が追いつかない静けさ」
がある
モニターの音が流れ
ドアが開閉
濃い無音のまま残る
それは
悲しみの静けさではなく
祈りとも
恐れとも
名付けきれない
“命がまだ決まっていない時間”
の静けさ
三女
しのぶの
結婚の日が決まり
ほっとして
あの朝
りゅうさんは
いつも通り
定年退職を一週間後に控え
任地の高校の門で
生徒様に
「おはよう!」
と声をかける
それは
立派な言葉ではなく
自然な
ささやかな
さりげない
生徒様への支え
それが
突然折れた
脇見運転のトラックが
生徒様へ向かって突っ込み
りゅうさんは
身を投げ出してかばい
三人の生徒様は無傷だった
けれど
りゅうさんは巻き込まれ
救急搬送
肝破裂を
主とする内臓の損傷で
出血が止まらず
予断を許さない状態
そう告げられ
私は長い間
明日を信じる理由を
計画や手順や定義で
“整える”
ことで作ってきたこと
でも
待合室の静けさは
整えた言葉を
すべて薄くする
残るのは
ただ一つ
あなたが
無事に戻ってこられるように
戻ってこられた時
「形」
を壊さずに
置いておくこと
押さない
握らない
ただ
娘たちと中心を支える
その静けさの中で
家族という引力が
どのように呼吸をつなぐのか
そして
戻ってきてくれた
あなた
りゅうさんの命の重みが
私達の明日を
もう一度温め直す
その過程を……
✨第059季 病院の待合室の静けさ✨
— Silence of the Waiting Room / Silentium Atrii Nosocomii —
(Taciturnitas gravis est: sed spes sub ea vivit. ― 静けさは重い。けれど、その下で希望は息をする)
救急外来の廊下は
何故か今日は
光が白い
白すぎて
影が薄い
影が薄いと
人は輪郭を
失いそうになる
私の膝の上に
置いた手を見つめ
何度も
握りしめそうになり
握れば
何かが固定される
気がした
けれど
そのたび
りゅうさんの
流儀が浮かぶ
押さない
握らない
壊れないように
配置を整える
だから私は
指をほどく
ほどいて
呼吸だけを残す
息を数えない
数え始めると
私の
“ちゃんと”
が起き上がってしまう
今は
ちゃんとにしない
ちゃんとを脱いで
ただ
待つ人の
体温として
ここに座る
主治医様の説明は
短く硬い
「肝臓の損傷が大きい」
「多臓器の出血が止まらない」
「輸血をしながら緊急手術に入ります」
そして
最後に
あの言葉
「予断を許しません」
整っているのに
胸が置き去りになる
丁寧なのに
心が行き場を失う
それは
しのぶが
あの夜受け取った
“整った別れ”
と似ていた
整っているほど
人の痛みは
一人になる
私は
りゅうさんの痛みを
一人にしないために
ここにいるのだと思う
待合室に
私達の家族が
集まってくる
しずく
しほか
しのぶ
東京の二人は
息を切らして
東京の風の
公務中にかかわらず
言葉を探せない顔で
私の前に……
孫たちも来てくれた
しずく
や
しほかの
子どもたち
小さな柔らかな手
小さな優しい声
「おじいちゃん
どこ?」
答えられない
答えた瞬間
現実が
確定してしまう
気がして
私は怖い
でも
子どもは
怖さの手前で
立ち止まらない
ただ
今欲しいものを
まっすぐに
言ってくれる
しのぶは
私の隣に
座っていた
泣いていない
けれど
泣いていないことが
すでに
泣いている
あの夜
しのぶは
私の胸で
泣き明かした
今度は
私が
泣き明かす
番になるのかもしれない……
そう思った瞬間
私は自身を叱った
泣くのはいい
でも
泣き方が違うかな?
今の私は
りゅうさんの
帰り道を残すために
泣く……
悲しみのために
ではなく
無事の帰還のために
「魚住さん
手術は順調に進んでいますからね」
看護師様が
途中経過を伝えてくださる
その声は優しい
優しいのに
胸が痛い
優しさは時に
現実の輪郭を強くする
時計は進む
でも一分が長い
長いのに
戻ってこない
私の中の時間だけが
病院の壁に
貼りついている
一時間
二時間
三時間
その間
私たちは
何度も立ち上がる
呼ばれるたびに
立ち上がり
短い報告を頂き
また座る
「出血が続いています」
「最善を尽くし止血を試みています」
「血液センターから緊急の輸血用意を継続しています」
「多臓器の状態が不安定です」
言葉は医学の
言葉なのに
私の耳には
ただ
あなた
りゅうさんが
“戻るか戻らないか”
の二択だけが残る
私は思う
明日を信じる理由は
明日の内容ではなく
戻る
か
戻らないか
の境界に立たされた時
私たちが
“戻れる形”
を捨てないこと
それが
明日を信じる理由になる
四時間が過ぎた頃
生徒様が集まってくださった
制服のまま
顔を強張らせ
それでも頭を下げ
私たちに言う
「先生が
……私達をかばってくれました……」
その言葉が
待合室の空気を
少しだけ動かしてくれた
りゅうさんの生き方が
ここで
“結果”
として立っている
生徒様が無傷だったことは
奇跡ではなく
りゅうさんが選んだ結果だったのね
五時間
孫が
小さく言う
「おじいちゃん
えがお
みたい」
その声は
祈りより先に届く
祈りは
時に遠い
でも子どもの願いは
近い
近いまま
胸に刺ささり
温度になる
そして六時間
廊下の向こうが騒がしい
足音が増える
医療の速さが
空気を薄くする
私は立ち上がった
立ち上がったのに
脚が自分のものではない
その瞬間
手術室の向こうから
怒号が響く
執刀医様の声
看護師の皆様の悲痛の叫び
医学の言葉ではなく
人が人を呼び戻す声
胸の奥を直接叩く声
「帰ってこいよ!
先生!
生徒さんが先生の
戻りを待っていますよ!」
「魚住さーん!
奥様
三人の娘様
お孫様が
待ちわびていますよ
早く帰ってきて!」
私は息を止めた
止めたのに
涙が出た
涙は
私の息の代わりに出てくる
しずくが
私の腕を支える
しほかが
しのぶの背を撫でる
しのぶは
唇を噛み
それでも
目を逸らさない
誰も押さない
誰も握らない
ただ
壊れないように
優しく
柔らかく
互いの位置を整える
それから少しして
看護師様が走ってきた
「脈
戻りました!」
「血圧
上がってきています!
安定しました」
言葉が
やっと意味を持った
意味を持った瞬間
私の身体は崩れた
崩れていい……
……よね……?!
この崩れは
乱れではないよね
あなたの命が戻った衝撃に
身体が追いつけないだけよね
「先生
戻ってきたんだ……」
生徒様がほっと言う
永い沈黙からの安堵の声
その声には
未来が入っていた
あなたが
教師として
最後を飾る場所へ
いつもの門の
教室の
朝へ戻る未来
ICUの前に移され
医療機器の音が
一定のリズムで鳴る
そのリズムは
私たちの
心を整える
“手順”
ではなく
あなたが
「生きていてくれる」
生命の鼓動の音を
繰り返す合図
私は
その音に救われ
言葉より
確かなものがある
それは
鼓動が作る音の秩序
あなたの手を握りしめ
祈り
さらに
祈り
もっともっと
祈り
日が変わり
日がまた変わり……
六日が過ぎた
「意識が戻る兆しがあります」
医師の言葉を聞いた瞬間
私は喜ぶ準備も泣く準備もできず
ただ
りゅうさんの手を見た
握らない
押さない
でも
戻ってきてくれた時に
迷わないよう
指先だけ
触れる
“戻れる形”
をそこに置く
あなたの
まぶたが震えた
一度
二度
ゆっくりと開き
焦点の合わない瞳が
天井を見て
私達を見て
最後に
私に向けて止まった
「……あやね……」
名前が
昔の学生時代の音になった
私は胸の奥の中心が
静かに折れ直るのを感じた
折れたまま
戻らないのではなく
折れた所から
違う強さで支え直される
それが
家の中心の更新
しずくが
泣きながら
ようやく
いつものかわいい
笑顔にもどり
しほかが
震える息で
「……お父さん……」
と言い
しのぶが
声にならない声で
ただただ泣き頷き続ける
孫たちは
小さな手が振った
「おじいちゃん!」
その呼び声の中に
“これから”
が詰まっている
りゅうさんは
まだ痛みの中に
いるはずなのに
ほんの少しいつものにこり
押さない笑顔
握らない優しさ
それを
私達に渡した
私は思う
明日を信じる理由は
明日が良い日になる
確信ではない
怖い日を迎えてしまった時
戻ってこられる
先が残っているという事実
そして
戻る人が
戻ったという事実
病院の待合室の静けさは
私達から多くの言葉を
消し去りつつ
けれど
家族という
引力だけは鮮明に
見えないのに
確かに動き
人を
命を
帰り道へ引き寄せる
りゅうさん
あなたが
戻った今日も
明日は約束されないかも
それでも
私たちは信じる。
信じるのは
明日ではなく
“戻れる形”
を一緒に持てる
あなたと私の家族の存在……
病院の待合室で
私は知った
静けさは
空っぽではなく
静けさは
むしろ満ちている
恐れ
祈り
願い
責任
そして
大切な方を
ひたすら信じて待つ愛
でも
それらが
言葉になりきれないまま
濃い無音として
沈んでいる
りゅうさんは
武道に携わってきた方だから
頭部や頸部などの
骨折が皆無だったことは
本当に幸いだった。
内臓の傷は時間が要る
けれど
二週間ほどで
退院できる
見通しだと聞いた時
私は初めて
「明日」
を現実の言葉として
思い描けた
退院の日は
退院+還暦+定年退職
が重なり
私達の家族の節目に
病室には
お花があふれ
三姉妹から
孫たちから
医師様看護師の皆様から
生徒様から
そして
怪我をする前に用意していた
りゅうさんから
私への
それは見事なお花も
そのお花は
“未来を信じていた人”
の証拠
事故の前のあなたが
私に
いままでの感謝の気持ち
あらかじめ
予約して置いてくれていたのだと
私は思う
明日を信じる理由は
大きな勇気ではない
小さな薪を
心にくべ続けること
消えないように
強くしすぎないように
ただ
火を途切れさせない
次季
✨第060季 心の薪をくべる✨
退院後の家には、
「生きて戻った人」
の静けさが宿る。
体は戻っても
心が追いつくまでに
時間がかかる夜
門の朝を思い出して
息が浅くなる瞬間
それでも
私たちは押さない
握らない
ただ
そっと抱きしめ
あの時の一瞬を
少しでも和らげ
灯りを一段落とし
あなたの胸の中に
薪をくべる
還暦のあなたへ
定年のあなたへ
そして
守ってあげた
生徒様の未来へ
私は
もう一度
家の中心を整え直し
条文ではなく
いつもの温度で
計画ではなく
いつもの帰り道で
火は小さくていい
小さな火が
明日を照らす
それが
私達の
「信じる」
の形……




