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⭐️色褪せることのない絆⭐️ ✨️EMPATHY 大隅綾音と魚住隆也✨️  作者: 詩野忍


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6/12

✨️第002季 桜雨の下で✨️

挿絵(By みてみん) 

 春の雨は、時々

 記憶の輪郭を

 やわらかくぼかしてしまう

 

 色鉛筆で丁寧に塗った風景画の上から

 うっかり水を零してしまったように

 線と線の境目がほどけて

 昨日と今日

 期待と不安

 好きと怖いが

 同じ水たまりの中で溶け合っていく


 そのくせ

 この雨は

 私の心の一番奥にしまっておいた名前だけは

 やけに鮮明に浮かび上がらせる

 魚住隆也

 同じ学部なのに

 時間割が微妙にずれていて

 ちゃんと会えるのは週に数回だけ

 けれど

 雨の日だけは不思議と

 どこかで必ず視線が交差する

 濡れたキャンパスの石畳

 曇天を映したガラス窓

 図書館前の軒下


「偶然だよ」

 と、私の理性は冷静な顔をする

「いいえ、これはきっと必然です」

 と、胸の奥で

 まだ名前を持たない感情が反論する


 たとえば

 彼が傘を忘れて困っている確率

 たとえば

 私がたまたま折りたたみ傘を

 二本持ち歩いている確率

 それらが掛け合わさって

 雨粒の数だけ試行されているのだとしたら

 私、綾音と隆也が

 同じ桜雨の下に立つことは

 本当に

「偶然」

 と呼べるのだろうか?


 この季の詩は

 そんな春の雨の一日を

 私の視点から書き留めたもの

 まだ恋と呼ぶには少しだけ早い

 でも

 ただのクラスメイトと呼ぶには

 もう遅すぎる

 そのあいだに漂う透明な領域に

 桜色の雨がゆっくりと降りしきる

 桜雨の音が

 きっと少しだけ

 昔日の鼓動と共鳴するはずだから

挿絵(By みてみん)

 桜の枝先に

 まだ名のない予感


 朝から

 空は迷っていた

 晴れるのか?

 泣き出すのか?

 どちらにするか?

 決めかねている子どものように

 うっすらとした雲をまとって

 キャンパスの上空をうろうろしていた


 私は

 講義に遅れないようにと

 小走りになりながら

 並木道の桜を見上げる

 若葉と、散り残った花びら

 その境目に

 何度も同じ問いを投げかけてしまう


 今日

 彼に会えるだろうか?


 確率で言えば

 六割くらい?


 時間割

 教室の場所

 彼がいつも歩くルート

 頭の中で

 ささやかな

「隆也探索アルゴリズム」

 を走らせながら

 私は校門から図書館までの最短経路と

 もしものすれ違いを

 期待できる回り道とのどちらを選ぶか

 真剣に迷う


 そんなとき

 ひと粒目の雨が

 私の手帳にぽつりと落ちた

 インクの上で広がっていく円形の染み

 今日はきっと

 桜雨になる

 私の中の

 言葉にできない予感が

 静かに肯定をくれる


 傘の縁で交わる視線

 講義が終わる頃には

 雨は本格的になっていた

 廊下の窓ガラスに

 無数の白い線が斜めに走り

 外の世界を薄いヴェールで覆い隠す

 教室を出た学生たちは

 一斉にスマートフォンの天気アプリを確認し

 ため息と共に傘の有無を点検し始める


 私は

 カバンの中から、

 いつもの淡いクリーム色の 

 折りたたみ傘を取り出す

 祖母から頂いた

 小さな桜柄

 布地を広げるたびに

 どこかで聞いた昔話の一節が蘇る


 雨の日に出会った人とは

 長く縁が続く


 それを信じるかどうかは

 統計の問題ではない

 でも、私は今日も

 そっと信じてみることにする

 理屈を少しだけ黙らせて

 心の中の物語に席を譲る


 階段を降りて

 エントランスホールへ向かうと

 人の流れが一度そこで滞る

 外へ出る勇気と

 雨への諦めと

 次の予定への焦りが

 目には見えない渦をつくっている


 その中に

 隆也はいた

 少しだけ濡れた前髪を指で払って

 ガラス越しの空を見上げている

 手には

 ノートと教科書だけ

 傘を持っていないことは

 一目でわかった


 心臓が

 ひとつ跳ねる

 これは

 偶然か?必然か?

 統計的には

「よくある光景」

 に分類されるのだろうけれど

 今の私には

 この瞬間しか存在しない


「隆也?」


 自分でも驚くほど

 声は落ち着いていた

 振り向いた彼の瞳に

 ロビーの白い光が柔らかく映る


「傘、持ってないでしょ?」

「……気付いていた?」


 少し気まずそうに微笑む隆也の顔が

 私の予想よりもずっと幼く

 そしてずっとまっすぐで

 胸が少しだけきゅっと痛んだ


「よかったら、駅まで一緒にどう?」

「でも、悪いよ。綾音が濡れてしまう……」


 そう言いながら

 隆也の視線は

 私の折りたたみ傘に落ちる

 直径、二人分

 物理的には

 少し無理があるかもしれない

 でも

 心の中では

 既に答えが出ていた


「大丈夫。私は小さいし

 ほら!

 桜柄だから……二人で使った方が

 きっと縁起がいいよ」


 冗談めかしてそう言うと

 隆也は一瞬きょとんと

 それから照れくさそうに微笑む

 その微笑み

 私はきっと

 今日から何度も思い出すことになる


 桜雨の下を歩く

 二つの足音


 エントランスを出た瞬間

 雨音がいっそう近くなる

 アスファルトに跳ねる水滴

 桜の枝先から

 こぼれ落ちるしずく

 遠くで走り去る

 バスのタイヤが上げる水煙


 私と隆也は

 一本の傘の下で

 慎重に歩調を合わせる

 私が半歩前に出ると

 彼がそっと合わせてくる

 彼が歩幅を少し狭めると

 私は自然とそのリズムをなぞる


 話題は

 ささやかなものばかりだった

 今日の講義の感想

 教授の口癖

 レポートの締切

 雨の日の通学路の好き嫌い


 でも

 そのどれもが

 私には推理小説の伏線のように思えた

 この先

 どんな物語が待っているのかは

 まだ分からない

 けれど

 今交わしている些細な言葉の一つひとつが

 いつか

「あの日の印象的な一節」

 として

 心のページに引用されるかもしれない


 ふと

 彼が傘の持ち手を

 少しだけ私側に寄せた

 肩に落ちていた雨が

 すっと引いていく


「綾音。ほら、ノート濡れたら大変だし」


 さりげないその一言が

 私にとっては

 今日一番の決定的証拠だった

 隆也は

 私のことを

 ちゃんと気にかけてくれている!

 それを

「好意」

 と呼ぶのは

 まだ早いのかもしれない

 だけど

 心がふわりと軽くなるには

 十分すぎる理由だった


 確率を超えるものの名前


 駅前のロータリーが見えてきた頃には

 雨脚は少し弱くなっていた

 信号待ちの横断歩道の上で

 私たちは並んで立つ

 傘の外側を

 流れ落ちる雨の水が縁に沿って

 細い線となって垂れていく


「ねえ、隆也」

「うん?」

「もし、

 私がここを通らなかったら

 隆也、どうしてた?」


 自分でも

 少しずるい問いだと思いつつ

 口にしてしまう

 彼は少しだけ困ったように笑って

 空を見上げた


「走って帰って、たぶん風邪ひいていた。かも?」

「じゃあ、私が助けたってことでいい?」

「そうだね。……助かった。ありがとう」


 それだけの

 言葉なのに

 胸の奥で何かが静かに形を変えるのを感じた

 雨に溶けかけていた輪郭が

 もう一度くっきりと描き直される

 この瞬間を

 私はきっと一生忘れない

 そんな予感だけが

 はっきりとした線を持って

 私の中に残った


 信号が青に変わり、

 人々の波が一斉に動き出す

 駅の入口で

 私たちは足を止めた


「じゃあ、また大学で」

「うん。また」


 言葉はそれだけ

 だけど、

 彼が振り返った回数と

 その視線の滞在時間を

 私は無意識に数えてしまう


 一度

 二度

 三度

 ……  


 たぶん

 それは偶然の振り返りではない


 雨はまだ

 静かに降り続いていた

 桜の花びらを濡らしながら

 私たちのこれからを

 ゆっくりと潤していくように


 桜雨の証拠標本

 夜

 自室に戻ってから

 私は今日の出来事をノートに書き写した

 傘の角度

 歩幅の差

 交わした言葉

 隆也の微笑み


 まるで

 雨の日の標本をつくるみたいに

 一つずつ

 ページいっぱいに並んだ小さな記述は

 どれも他人から見れば

 取るに足らないものかもしれない

 けれど

 私にとっては

 この上なく貴重な

「証拠」

 だった


 この桜雨の下で

 私と隆也は

 たしかに同じ傘を分け合った


 その事実だけが

 静かに光っている

 私はペンを置き

 窓の外の雨音に耳を澄ませる


 きっとまた

 季節が巡っても

 今日の桜雨を思い出すだろう

 それが

 まだ名前を持たない感情だとしても

 色褪せない一枚の写真のように

 私の心の片隅で

 そっと保存されているはずだから

挿絵(By みてみん)

 桜雨の一日が終わっても

 窓の外の世界は

 何事もなかったかのように

 翌朝には晴れ上がる

 濡れていた石畳は乾き

 傘立てにずらりと並んでいた色とりどりの傘も

 いつもの持ち主たちの手に戻っていく

 キャンパスは

 何千人もの学生の足音で満たされ

 昨日とよく似た

 けれど決して同じではない一日が始まる


 あのとき

 一緒に歩いた駅前までの道

 あのとき

 彼がそっと傘を私の方へ傾けてくれたこと


 それらは

 誰の時間割にも記載されていない 

「空の白の出来事」

 けれど、空の白の中にこそ

 本当の物語は潜んでいる

 私はそう信じて

 今日もノートを開く


 ✨️第003季 春光のまなざし✨️

では、

 桜雨の翌日に訪れる

 少し不思議な

「ずれ」

 の物語を綴る

 昨日まで

 当たり前だと思っていた教室の景色が

 ふと違って見える瞬間

 隆也の何気ない一言が

 心の中で何度も反芻されて

 別の意味に変わっていく過程

 そして

 ほんの些細な行き違いから生まれる

 静かな不安と

 それをそっと縫い合わせようとする勇気


 色褪せることのない絆は

 決して劇的な告白や

 大きな事件だけで形作られるものではない

 むしろ

 日々の小さな誤解と、

 そのたびに交わされる小さな

「ごめんね」

 と

「ありがとう」

 によって

 少しずつ強度を増していくのかもしれない


次の季で

私はまた

十九歳の自分の目線から

その微妙な心の揺れを

丁寧に書き起こしてみたい


桜雨の滴が乾いても

若葉はこれからますます色を深めていく

私と魚住隆也の時間もまた

静かに

しかし確かに

次の季へと歩き出しているのだから

挿絵(By みてみん)

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