✨️第035季 虹色の傘の下✨️
雨は
世界の輪郭を
いったん溶かしてくれる
晴れの日にだけ
正しさを求めてしまう私は
雨の音の中だと
少しだけ柔らかくなれる
そう気づいたのは
隆也
あなたと名前を呼び合う
レッスンをした翌朝
昨日
私は
意識をしないで自然体
「隆也」
と言えた
たった二音が
胸の奥の景色を塗り替えた
呼び掛ける
という行為は距離を
縮めるだけじゃない
私の中の
“逃げ道”
を隆也の方へ向けて
一本の道にし直す
だから怖かった
けれど
怖さは未熟さではなく
誠実さの端っこだと
隆也が言葉にしてくれた
私はその言葉を
手のひらに乗せて
持ち歩いている
今日の空は
朝から灰色
雨粒が細く糸を引く
濡れた歩道は光を抱え
街路樹は葉脈の匂いを強くする
私の心も
そんなふうに香り立つ
私と隆也
一つの傘に一緒に……
私達の距離は
逃げられないほど近くなる
近さは
嬉しい!
でも
近さは
怖い!
だから私は今日
雨の中で
もう一度
“名を呼ぶ速度”
を確かめ
雨音に負けない声で
けれど
雨音の優しさを
壊さない声で
虹色の傘の下で
私と隆也の世界が
重なる地点を
私は確かめに行く
雨は
言い訳を洗い流す
傘の内側に
小さな宇宙ができる
外の世界より狭いのに
心は不思議と広くなる
隆也の肩に寄るたび
私の呼吸が
ひとつ深くなる
「隆也」
二音の粒は
雨粒よりも軽く
それなのに
胸の奥にだけ
重たく沈む
私の名を呼ぶ隆也
あなたの声は
あたたかい
虹は
空に架かるものじゃない
傘の縁に跳ねた雨が
私と隆也の間で
七色に砕ける時
そこに
小さな虹が生まれる
近づくことは
怖いことじゃない
近づくことは
ともに歩くこと
雨の中で
私と隆也は
同じ速度を
歩調を合わせながら
探している
見失わないように……
雨の日の道は
音で満ちている
車の水切り音
傘に鳴く音
服装の裾が
湿りすれ音
私は
その全体像を
外側に立ち
内側を眺めている
いつも癖……
私は鞄の中の
折りたたみ傘を
確かめた
まだ
乾いている布の
香りが少しだけ
胸を落ち着かせ
逃げ道の確認
いつもなら……
けれど今日は
逃げ道を
最初から作りすぎる
私自身が
見直し!
だって
昨日
「隆也」
と意識をしないで
自然体で呼べたから
呼べた私に
もっともっと勇気を
あげたい!
と思ったから
濡れたアスファルトに
反射する灯りが
少し滲んで見え
私は立ち止まり
深呼吸を一つ
昨日の
私、大隅綾音と魚住隆也
二人のレッスンで覚えた呼吸
急がない
胸の底まで
その時隣に
静かな気配が寄り
「綾音!おはよう!」
私の名前
呼ばれると
世界の輪郭が
一段くっきりする
私が隆也と
ここにいることが肯定される
私は顔を上げ
傘をまだ開かないままの
隆也
あなたを見た
肩先に雨粒がついて
濃紺のコートが少しだけ
色を深めている
「おはよう!隆也!」
言えた!
意識せず自然体で
昨日より自然に
でも昨日より確かに
私の口から出た二音は
雨に吸われる前に
隆也
あなたの方へ届いた気がした
あなたは目を細めて
ほんの少し微笑む
それは
呼吸の端が柔らかくなる感じ
私が好きな表情
「綾音!
傘
一緒にどう?
……もし嫌じゃなければ……」
隆也はいつも
選択肢を私に渡してくれる
「嫌じゃない」
と言うのは簡単なのに
私はそこで一度迷う
近づくことは
逃げ道を狭くする?
でも狭くなることは
悪いことじゃないって
私は昨日
そのことを学び始めたばかり
「はい!
ご一緒させてください……!」
私が返事をかえし
隆也は傘を開き
ぱっと広がる布の音が
雨の音の中で小さく響く
傘の内側は狭い
私と隆也
肩と肩の距離が
意志で調整できないほど近い
私の左肩に
隆也の右肩が寄り
布越しに体温が移る。
私は一瞬だけ
息が止まりそうに
「大丈夫?」
隆也が低い声で訊く
大丈夫!
と言い切る自信はない
でも
逃げないと決めた
私は自分の心臓の音に
耳を澄ませた
雨音と混ざって、
鼓動は少しだけ
穏やかに聞こえる
私はうなずき
「大丈夫!
……でも
近い、かな……」
言葉にしたら
近さが少しだけ安全になる
隆也は
「うん」
と短く返し
歩き出し
私と隆也は同じ歩幅で
横断歩道を渡る
白線の上に落ちた雨粒が
踏むたびに小さく散る
散った水は
傘の縁に跳ねて
光を砕いた
七色
と呼ぶほど派手ではない
けれど確かに
透明の中に色が混じる
私はその瞬間
胸の奥で小さく思った
これが
“虹色の傘の下”
なのかもしれない
歩いている間
私は何度も隆也の横顔を
見そうになって
やめた
見たら
視線の熱で距離が
さらに縮まる気がし
でも
見ないままでは
私はまた外側に立ってしまう
昨日
隆也は言う
私の“速度”が変わる
と
なら今日も
速度を変えてみたい
「隆也!」
私は
雨音に負けない声で呼んだ
呼ぶ瞬間
息が一つ深くなるのを
自分でも感じた
隆也が振り向くき
傘の内側で視線が交差し
私は逃げ場を失う
だけど
それが怖いだけじゃないことも
知っている
「なーに?」
「……昨日のレッスン
ありがとう
今日も二人だけの……」
「傘の中の?」
「そう
私と隆也との
距離の、声の
意識しないで
自然体で……名前のも」
言った途端
頬が熱くなった
雨の冷たさがあるのに
私の中は熱を持つ
隆也は真剣な真顔
「もちろん!
綾音のペースで」
その
「ペース」
という言葉が
私の背中を押した
ペース
速度
呼吸
私は一度
傘の内側の空気を
味わうように息を吸う
ともに誓う
私はそれが
今日も嬉しかった
並木道に入ると
雨脚が少し強くなり
葉を叩く音が増え
地面の水たまりに
波紋が広がる
私と隆也は
自然に肩を寄せた
寄せた
というより
寄らざるを得ない
傘の内側の世界が
さらに狭くなる
その狭さが
実は
私の胸をぎゅっと掴む
でも私は
逃げない
「綾音!」
隆也が私の名を呼び
私は反射で
「うん」
と返しかけて
昨日と同じように
いったん止めた
でも
今日は返事も練習にする
と決めたから
「……隆也!」
私は返し
呼び返すと
対話が対称になる
私と隆也の間に
往復の線が一本引かれる
その線は雨粒みたいに
細いのに
確かに二人の
世界を固定する
隆也の目が
やわらかな肯定で揺れた
「今の
すごく自然だった
ありがとう!綾音!」
「……雨のおかげかも
雨って
言い訳をくれるから」
「言い訳?」
「うん
恥ずかしさを
雨のせいにできるから!」
私はそう言って
少しだけ微笑み
傘の内側で
隆也も微笑み
雨音に溶け
それがちょうどいい
暖色の灯りがある
建物の前に到着
濡れた世界から乾いた世界へ
移る境界
私はその境界が好きで
でも少し怖い
変化はいつも
私の胸の奥の準備を
試すから
入口前で
隆也は傘を閉じ
ぱたんと布が畳まれる音
外の雨が急に大きく聞こえ
私は少しだけ
寒くなった気が
だって傘の内側の
小さな宇宙が消えるから
でも
消えないものもある
私の中に残った
“近さ”
の記憶
そして
名前を呼び返したときの熱
「綾音!」
隆也がもう一度呼び
今度は迷わなかった
私
「なーに?隆也!」
私は
はっきりとした
言葉で返した
その言葉が
私の口の中でつまずかず
二音が
私の速度で
私の呼吸で
綺麗に
美しく
外へ出た
雨がその音を奪う前に
隆也の目に耳に
心に届いた
隆也は真面目な顔をして
「本当!
傘の下は逃げ道がないね」
私は息をのんで
そして正直に答えた
「うん
今まで怖かった……
でも今は
逃げ道がない時に
逃げなくてもいい
相手がいるって
強いね」
あなたは一瞬
言葉を探すみたいに
視線を落とし
それから
私を見つめ
ゆっくり言う
「綾音が逃げなくていい場所
もっともっと作ってあげたい
いつもの綾音の速度で
気兼ねなく」
その言葉で
胸の奥が静かにほどけ
私は
名前を呼ぶという小さな宣言を
もう一度心の中で確かめた
私は隆也
あなたをここに
私はあなたの元へ
私はあなたと同じ時間を
ともに生きる
まだ大きな声では言えない
けれど
小さな大きな声で
確かに
建物の扉を押し
乾いた空気が肌に触れ
雨の匂いが遠のく
でも私の中の雨音の
余韻は残っている
傘の縁で砕けた
光の色も残っている
虹は空だけじゃない
私と隆也の近さ
私の心の中で七色にほどける
私は
青いノートを胸に抱えた
次の季節へ
今日の一行を
書き進む……
雨の日の傘は
ただ濡れないためのではなく
二人だけの
“境界線”
になり内側は狭いのに
そこで交わす呼吸と視線は
なぜか広い
私は今日
身体で覚えた
名前を呼び掛ける
レッスンで
“座標”
は雨音の中で
揺れながらも
確かに
私と隆也の足元を
照らしてくれた
互いに
呼び
互いに
呼び返すこと
同じ歩幅で歩くこと
どれも小さな事なのに
私の世界は少しずつ変わっていく
一人の世界から
ともに歩む二人の世界へ
そして
私が気づいたのは
近づくことの怖さは
消えない
消えないままでいい
怖さがあるから
私は丁寧に呼吸をする
丁寧に名を呼ぶ
丁寧に手を伸ばす
誠実さとは
きっと
そういう速度のことだと思う
次季
✨️第036季 刻まれる音」✨️
雨の季節が少し続き
私と隆也の静けさの中で
原稿への執筆のペンの音
文献の検索するページ音
"二人の空間の音”
を共有していく
音は目に見えないのに
記憶として確かに残る
隆也が私の青いノートに
引いた短い線のよう
私が
「隆也」
と呼んだ二音の
余韻のように
その
“刻まれる音”
が私と隆也の
絆
をどんな形にしていくのか
私はずっと一緒に聴き取りたい……




