✨️第031季 春めいた手のぬくもり✨️
春
という季節は
ふとした瞬間に
私、大隅綾音と魚住隆也
の内側へ先に
訪れるものなのだ
と思い
肌を撫でる風が
冬の冷たさを
手放し始める時
陽だまりが
少しだけ
長く私の影を
抱いてくれるとき
そして
心が
何かを
受け取る準備を
静かに進めている時
そんな合図のような
感覚が
私の手の中に
小さなぬくもりと
なって宿り
魚住隆也の手が
私の手に
触れたあの日
それは
決して
劇的な場面ではなく
むしろ
何でもない
放課後の
帰り道で
けれど
私にとっては
一生の中で
胸の奥に
最も長く
残り続ける
「序章」
言葉では
言い表しきれない
気配が
二人の間を包み
指先が
触れ合う
わずかな軌道
その軌道の意味を
互いに
悟りながらも
まだ
確かめきれない
揺らぎ
その曖昧ささえ
私には
愛おしく
思へ
“あのとき
私と隆也は
どんなふうに
歩いていたのだろう?”
時々
そう思い返し
並んだ歩幅
たまに
重なりかけて
離れる影
そして
触れては
離れる手と手
何度も何度も
言葉にならない
会話を
交わしていたように
思う
「手のぬくもり」
というのは
単に
温度を差す
ものではなく
触れた瞬間
人の心の
震えが伝わり
その震えが
自身の中へ
流れ込み
私が
その日感じた
温もりは
その種
そのものだった
わずかな
春の兆しが
まだ寒さの残る
空気の中で
密やかに
芽吹くように
私と隆也の
想いもまた
静かに
しかし
確実に
輪郭を
帯び始めていました
この季は
あの日の
記憶の中に
息づく
「絆」
私の手に宿った
ぬくもりが
隆也へ
と届くように
丁寧に紡いでいく……
春めいた
手のぬくもり
私、大隅綾音は
まだ冬の余韻を
手放しきれない
蒲郡の海岸通りを
二人一緒に
肩を寄せ
歩いていた
夕陽の角度が
ようやく
春の準備を
はじめた頃
魚住隆也は
私の少し前を
歩きながら
時々
振り返っては
私の歩幅が
追いつくのを
待ってくれていた
そのたびに
私の胸の中で
何かが
そっと
芽吹く音がした
それは
雪解けの滴が
土へ帰る落ち
かすかな音
それなのに
確かに
世界を変えるほどの
衝撃を孕んでいる
音だった
隆也の横顔は
春の予兆を
ひっそり宿した
薄光みたいに
言葉ではなく
沈黙の中に
置かれた
呼吸のリズムが
私と隆也の
距離を
少しずつ
整えていく
そのとき
私は思った
「人は誰かと
歩幅を合わせることで
まだ知らない
未来へ進む
準備をするものだ」
と
帰り道
三河湾の潮風が
ゆるやかに吹き
私の髪を揺らし
二人の間へ
新しい季節の
香りを運んだ
その一瞬
私は気づいた
隆也の
歩く軌跡に
私の影が
自然と
寄り添おうと
していることに
私の心は
本当は
いつだって
先に動く
理性よりも
ずっと敏感で
ほんのわずかな
温度差にも応える
ふいに
私の指先が
隆也の手の甲に
軽く触れた
ほんの一瞬
けれど
永遠の
入口のように
長く感じられた
瞬間
私は驚き
すぐに
引っ込めようとした
けれど
その時
隆也は
急いで
離れようとする
私の手を
そっと
大切に
やわらかく
やさしく
包み込んだ
隆也の手のひらに
世界が
一度だけ
呼吸を止めた
冬の冷たさが
その手のぬくもりに
触れた瞬間
みるみるうちに
ほどけていく
心の奥に
積もっていた
氷の層が
静かに
音もなく
解けていく
私は
言葉を失った
けれど
言葉以上のものを
得ていた
彼の手は
私の震えを
受け止めるように
あたたかく
私の迷いを
否定しないまま
ただそこに
寄り添ってくれた
「綾音
寒くない?」
その
小さな問いかけは
問いではなく
気遣いでもなく、
隆也の
心が触れた
証のように思えた
私は
首を横に振った
「寒くないよ」
と言えなかった
代わりに手の中で、
ゆっくりと
隆也との
指を重ねた
その動作だけで
十分だった
それ以上の
説明はいらなかった
言葉は
まだ追いつかない
けれど
私の手のひらは
もう真実を
知っている
春の光は
まだ本格的に
訪れる前から
こうして
私の手の中に
先に芽吹いて
しまうものなのだ
人は不思議だ
気づかれたくない
感情ほど
最初に体が
覚えてしまう
でも
触れた
ぬくもりは
心の奥で
名前を
持たないまま
ゆっくりと
膨らんでいく
私と隆也は
そのまま
しばらく
海岸通りを歩いた
言葉はなかった
けれど沈黙は
二人を隔てる
壁ではなく
次季の春の
ように
柔らかく
あたたかく
私と隆也を
包んでくれている
時々隆也は
私の顔を見て
微笑んだ
その微笑みの
意味を
私は
まだ読みきれない
けれど
読み間違えても
構わないと
思えた
なぜなら、
春
という季節は
誤読から
始まるものだから
曖昧なものほど
美しいのだ
手のぬくもりは
ゆるやかに
脈打つ
隆也の心とつながり
私の胸の奥へ
語りかける
「綾音
大丈夫だよ!」
「ここにいるよ
綾音!」
「春は
もう始まっている!」
そんな
声が聞こえる気がした
蒲郡の駅へ
隆也を見送る
道すがら
夕陽は
ほとんど沈み
私と隆也の
影は一つに
溶けかけていた
手を離すのが
惜しかった
けれど
離した瞬間
風が
そっとその隙間を
埋めるように
吹いた
その風さえも
やさしく
春の到来を告げる
合図のようだった
私は
気づいていた
ただ
気づかないふりを
していただけ
隆也の
手の温度が
私の心拍を
変えてしまったことに……
そして
その変化が
もう
後戻りのできない
「始まり」
だということに
翌朝
昨日の
ぬくもりが
まだ
手の中に
残っている
気がして
私は
指先を
静かに
見つめた
すると
胸の奥で
小さな声が
そっと芽吹いた
「これは恋のはじまりだ!」
と
それを
認めた瞬間
世界は
昨日より少しだけ
春の装いを
帯びて見えた
手のぬくもり
というのは
触れた瞬間に
“過去”
になる
くせに
いつまでも
“現在”
として
心に残り続ける
不思議な記憶
今回の季で
私は
その
小さな記憶の誕生を
言葉にすることで
あの日の
私自身と
再び
向き合う
ことができ
隆也の手が
触れた瞬間
私の世界は
確かに
変わり
雪解け水が
川となるように
小さなぬくもりが
未来へ向かう
流れを
作りはじめたのです
春の物語は
まだ
序章
にすぎません。
次の季
✨️第032季 ふたりの位置関係✨️
ではこの
ぬくもりが
どのように
形を変え
どのように
私たちの心へ
影響を与えるのか
そして
二人が
互いの気持ちに
さらに近づく
瞬間が描かれていく
重なる影
寄り添う歩幅
春風の中で
揺れる
まだ
名前のない想い
私と隆也の距離は
「近づく」
のか
それとも
「揺れる」
のか?
その答えが
そっと記される
季となる……




