✨️第019季 まぶたの裏の春景色✨️
まぶたの裏の
予行演習
列車の窓に
流れ行く春の色が
薄く塗り重ねられていく
蒲郡から一宮へ向かう
車窓はいつもより少しだけ
解像度が高く見えた
まぶたを閉じると
そこにはすでに
“今日まだ起きていない出来事たち”
が先回りして並んでいる
初めてくぐる
大切な方のお家の玄関
初めてお逢いする
大切な方の従姉様の笑顔
庭にしつらえられた
野点の席
お茶碗の縁に映る
私の緊張した顔
そして
そのすぐ隣で
少し照れたように微笑む
大切な方
魚住隆也の横顔
……今日は
私が招かれる番……
あの日
講義帰りの廊下で
「今から
私の家へ来ない?」
と半ば反射のように
隆也を誘った私
あの時の緊張が
改めて胸の奥で
まだ微かに震えている
けれど今日は……
行き先
「魚住家」
ただ
隆也のご両親はすでに他界し
本家の従姉様が
「一度
綾音さんにも会いたい!」
と静かに微笑みながら
招待してくださったのだという
隆也が
「本家」
と口にする時
ほんの少しだけ
遠くを見つめるような視線
そこに混ざる
淡い寂しさと
それでも誰かを
信じている人のあたたかさ
その全てを
私は
“知りたい”
と思ってしまった
隆也の今だけでなく
隆也をここまで運んできた時間ごと
まぶたの裏にひろがるのは
まだ見ぬ庭園の緑と
見慣れた教室の光が
そっと重ね書きされたような
“春景色”のパレット
私はハンドバッグの中で
そっと指先を組む
質問攻めにあうかもしれない
私自身を想像して
頬がゆるむ。
それでも
逃げ出す選択肢は
もうどこにも
残されていない
だって
今日はきっと
私と隆也の
「これから」
にひとつ
静かな下線が
引かれる日だから
列車が
名古屋から一宮に近づくにつれ
心拍グラフの波形が
少しずつ振幅を増していく
私の中で
“まぶたの裏の春景色”
がゆっくりと
現実に追いつこうとしていた
一宮駅のホームに
降り立った瞬間
空気の密度が
少しだけ変わる
人の数も
車の音も
私の知っている
“海沿いの街”
より少し高いキー
改札を抜けた先で
隆也が手を振った
「綾音様
こちらです」
いつもの
少し丁寧すぎる呼び方
それを
ここ一宮の雑踏の中で聞くと
なぜだか胸の奥に
新しいタグが
追加されたような気がした
“隆也の街で呼ばれる私の名前”
私と隆也は
隆也に連れ立ち
地元単線の列車を乗り継ぎ
中心地のビル群を通過すると
一面の田園風景
まだ咲き残る桜の淡い
風にほどけていく
やがて
静かな住宅街の奥に
ひときわ広い敷地をもつ家が現れた
門柱には小さく
「魚住」
とだけ記されている
それなのに
その二文字が
やけに大きく
見えてしまうのはなぜだろう?
インターホンを押す前に
隆也がそっと振り向いた
「緊張
してますか?」
「……してないと言ったら嘘になるかも……」
「大丈夫です
従姉はとても優しいお方様ですから」
彼の
「優しい」
という形容詞を
私は
少しだけ慎重に受け取る
両親を失った少年の
“居場所の証人”
存在が
この門の向こうにいる
チャイムの音。
数秒の間。
そして、扉が開く
現れたのは
上品な色合いの着物に
柔らかな笑みをたたえた女性
「まあ……綾音さんね
ようこそ遠路はるばる魚住の家へ
ありがとうございます」
その声の響きに
私は一瞬だけ
隆也の面影を探す
目尻の下がり方
微笑む時に少しだけ首を傾ける癖
血のつながりは
こんな風に
“ニュアンス”
として受け継がれていくのですね
「本家の従姉の
真希と申します。
今日はどうぞ
ごゆっくりしていってね!」
私は深く頭を下げる
礼儀正しく
でも固くなりすぎないように
そんな演算をしているうちに
言葉より先に
頬が熱くなってしまう。
玄関を抜け
廊下を進むと
ふわりと茶葉の香りが漂ってきた
「まずは
お庭へどうぞ
今日はお天気もいいから
外で一服お点前を」
庭へ続くガラス戸を開けると
そこには
春色の光をたたえた
野外庭園が広がっていた
苔むした石
低く刈り込まれたツツジ
枝ぶりの美しいモミジの隣には、
まだ若い桜の木が一本
風に小さく震えている
その脇に
簡素でありながら
隅々まで整えられた野点の席
赤い毛氈の上に
茶道具が静かに配置されていた
「わあ……!」
思わずこぼれた感嘆に
真希さんが少しだけ目を細める
「隆也のお母さんが
お茶が好きでね。
大切な人を招くときは
よくこうして庭で点てていたの
今日は
その真似ごとだけど
よかったら
綾音さんの
“初春の一服”に」
“隆也のお母さん”
という単語が
空気の密度を変える
私の胸の奥で
まだ触れてはいけないと感じていた
領域の扉が
そっと軋んだ
毛氈に並んで座ると
茶筅の音が
庭の静けさに溶けていく。
しゃか、しゃか、しゃか
まるで
私の心拍の波形を
やわらかく撹拌して
ならしてくれているみたいに
「どうぞ!」
差し出された抹茶碗を
両手で受け取り
ゆっくりと口元に運ぶ
ほろ苦さと
その奥にある微かな甘み
それは、今日一日の
私の感情のプロローグのようでもあり
「綾音さん
大学では隆也と
どんなふうに過ごしているの?」
始まった!
私は心の中で
そっと息を整える
「えっと……
一緒に講義を受けたり、
図書館で勉強したり……
朝の勉強会を
彼が開いてくれていて……」
「朝の勉強会?」
「はい
私が
少しでも
“遅れないように”
って……
資料をまとめてくれたり
質問に付き合ってくれたり……」
つい
「遅れないように」
と口にした私自身に
内心で苦笑する
学びの速度だけじゃない
感情の処理速度も、
いつだって
隆也の方が一歩先を
やさしく照らしてくれていた
真希さんは
茶碗を置きながらうなずく
「ふふ……変わらないわね
隆也
小さい頃から
自分のことより先に
誰かの“理解の速度”を
気にする子だったから」
私はその言葉を
胸の奥でそっと反芻する
彼の時間軸の断片が
少しずつ私の中に取り込まれていく
「ところで
綾音さん?」
来た!
今日の核心へ向かう
柔らかい導入の声
「隆也のこと
どう思ってるの?」
茶席の空気が
ほんの少しだけ温度を上げる
私は視界の隅で、
隆也の肩がわずかに跳ねるのを見た。
隆也は慌てて言葉を挟もうとする
「 ま、真希さん……!」
けれど、その抗議は
従姉の穏やかな笑みで
軽やかにいなされる
「いいじゃない
大事な家族の“今”くらい
ちゃんと確認しておきたいの」
私は一度、まぶたを閉じた
そこに浮かぶのは
教室の窓に咲く光
並んで歩く影
心拍のリズム
そして先日
私の家の玄関で
家族に囲まれて微笑む隆也の
あの横顔
全部をひとつの言葉に
押し込めるには
まだ「定義」が足りない
けれど
沈黙はこの場では
きっと一番不誠実だ
私は目を開け
真希さんの瞳を
真っ直ぐに見つめ
「……とても
大切な方です!」
「大切?ね!
それは
“今だけ”?」
「いいえ
これからも
きっと
もっと
大切になっていく
方だと思います」
自分で言いながら
その言葉が胸の内側に
やさしく刺さっていく
“これからも”
“もっと”
未来へ向かって
グラデーションする
感情の速度を
私はようやく
言語化し始めている
のかもしれない……
真希さんは
少しだけ目を潤ませたように見えた
「ありがとう
そんなふうに言ってもらえて
私まで
救われる気がするわ」
「救われる……?」
「ええ
あの子のご両親
いなくなってから
“この子の春は本当に来るのかしら”
って心のどこかでずっと
不安だったから」
私は
お茶碗の縁越しに
隆也を見る
彼は照れくさそうに
視線を逸らしながらも
どこか誇らしげに、
ゆっくりと息をついていた
野点のあと
座敷に戻ると
海の香りをまとった料理が
次々と運ばれてきた。
お刺身の皿には
銀色に光る魚の身が
花のように盛りつけられている
「一宮、というより
今日は“海の子”仕様ね」
と真希さんが笑う
「綾音様
お刺身はだいじょうぶですか?」
「はい!
むしろ嬉しいかも!」
お箸を動かすたびに
質問の矢が飛んでくる。
「綾音さんはご兄弟は?」
「ご両親はどんな方?」
「将来はどんな道に?」
私はひとつひとつ
言葉を探しながら答えていく
自分のことを語るたびに
どこかで隆也
静かに頷いてくれているのが分かる
まるで
私が“自分の履歴”を
隆也の家の座標軸に
重ね書きしていく
作業のようだった
「……最後にもうひとつだけ」
真希さんは
湯呑をそっと置いて
少し真剣な声になる
「もし
いつか
隆也が
何かに躓いたり
自分を責めたりして
立ち止まってしまった時
その隣に
綾音さんはいてくれる?」
その問いは
未来に向かって投げられた
小さな錨のように感じられた
私は息をのみ、
それからゆっくりと、
胸の奥にある言葉をすくい上げる
「……はい
私にできることなんて
きっと限られていると思うけれど
それでも
“隣にいようとすること”
は約束したいです!」
隆也が
驚いたように私を見る
その瞳に映る
私自身の姿が
ほんの少しだけ
“まぶたの裏の春景色”
と重なった
食後
庭先に出ると
空はもう淡い夕暮れの気配を
にじませ始めていた
「さっきのお茶の木
隆也のお母さんが植えたのよ」
と真希さんが教えてくれる。
私は
その幹にそっと手を触れた
そこには
もうこの世にいない
隆也のお母様の
日々のぬくもりが
確かに蓄積されている気がした
時間は
失われるばかりじゃない
誰かの暮らしの残り香が
別の誰かの今日を
やわらかく支えている
私もいつか
隆也の
“これから”
のどこかに
そんな形で
溶け込めたら
一宮の駅へ向かう
隆也の車で
私は隆也の顔を見つめる
頬には
少しだけ気疲れと
それ以上に満ち足りた色が宿っていた
「今日は……
本当にありがとう隆也」
「いいえ
こちらこそです
綾音様が来てくれて
従姉も
きっと母も
喜んでいると思います」
“母も”という言葉に
私はそっと目を閉じる
まぶたの裏
そこには
今日一日の断片が
静かなコマ送りで
流れていく
野点の抹茶碗
海鮮料理の彩り
質問攻めにあって
うろたえる私と
それを見て肩を震わせて微笑む隆也
そして
真希さんが
少しだけ真面目な声でおっしやった
「この子の春は、
ちゃんと来たのね」
という一言
“春はまだ序章”
私と隆也の季節は
きっとこれからも
迷い
揺れ
時に遠回りしながら
続いていくのだろう
けれど
今日という一日はたしかに
私の中の
“心の座標軸”
に新しい基準点を刻んでくれた
それはきっと
“ふたりの中心点”
と呼ぶにふさわしい
小さな
けれど揺るぎない
私、大隅綾音と魚住隆也の
春景色……
今日という一日は
少し出来すぎた
ドラマのよう?
列車で
蒲郡から一宮へ向かう私
隆也のお家の門をくぐる私
庭園で茶碗を両手に抱える私
海鮮料理を頂きながら
隆也の従姉様の質問攻めに
たどたどしく返答する私
どの場面にも
隆也の横顔が必ずいた!
“家族に紹介する”
という行為は
私と隆也の関係に
目に見えないラベルを
貼っていく
「恋人」
という
名前を眼の前に
けれど
家族の記憶の書庫の片隅に
互いの存在が
そっと収納されていくことで、
絆は少しずつ
「永続」
を目指す列に並び始める
まぶたの裏に浮かぶ
今日の春景色は
どれもが淡く
やわらかく
それでいて
確かな輪郭を持っている
野点の席で
真希さんに問われた
「その隣に
いてくれる?」
という言葉
私はあの問いを
単なる
“確認”
ではなく
未来への
“共同署名欄”
に受け止め
あの日
私の家で
母や姉が
隆也を受け入れてくれたこと
今日
隆也の大切な人が
私を迎え入れてくれたこと
その二つの出来事は
まるで
春の両端に灯された
二本の小さな光のようで
その間を結ぶ線の上を
私と隆也のこれからの季節が
そっと歩いていく
そして次の季節
✨️第020季 小さな勇気の種✨️
今日の春景色の余韻が
私の中でどんなふうに
発芽していくのか
家族に紹介されたことの意味
“隣にいる”
と口にした私自身の覚悟
そして、
まだ言葉にしていない
「好き」
の前の呼吸と
いつかきっと訪れる
“定義が変わる日”
への静かな準備運動
心の速度に
ようやく追いつきかけた
今日を通過点にして
私はもう少しだけ
私自身から
一歩踏み出す勇気を
育てていきたい
まぶたの裏の春景色は
まだ描きかけのまま
ページに白紙のまま
広がっているけれど
これからも
隆也、あなたと一緒に
紡いでいけますように……




