✨第017季 緑雨の香り✨
雨上がりの
キャンパスには
まだ名前のついていない
色が漂っている
アスファルトの黒は
うっすらと
緑を含んでいて
校舎の壁は
さっきまで降っていた
雨粒の記憶を
黙って抱えたまま
光を撥ね返している
私は
その匂いを
ずっと前から
知っていたような
気もするし
今日はじめて
出会ったような
気もしている
緑雨
天気予報には
決して載らない
私と隆也だけに分かる
「気象用語」
をこっそり青いノートの片隅に書
き足したくなる
雨は
境界線をあいまいにする
濡れた地面と
空との距離も
傘の内側と
外側の世界も
そしてきっと
「友達」
と
「それ以上」
とのあいだの線も
✨️第016季「消えないペン跡」✨️
紙の繊維に残る圧痕のように
私と魚住隆也の関係にも
目に見えないインクが
少しずつ滲んできた
今度は
そのインクに
「匂い」
が加わる番!
雨上がりの
キャンパスを歩く時
濡れた葉の香り
アスファルトから
立ちのぼる熱
隣を歩く隆也の体温が
ひとつの空気の
中に溶け合う
この
✨️第017季 緑雨の匂い✨️
そんな
「空気ごと保存したい記憶」
を丁寧に瓶詰めにしていく季
まだ
告白!
という判決
は書かない?……
けれど
判決の
「理由」
の部分にあたる
小さな出来事を
緑色の雨の粒として
一つひとつ拾い上げていく
心拍グラフに
淡い緑の波形が
増えていく
……その記録……
雨上がりの
昼下がり
ゼミ室を出るとき
廊下の窓ガラスに
細かな水滴が
まだ残っていた
外の世界は
さっきまでの
灰色を脱ぎ捨てて
淡い緑のフィルターを
通したみたいに見える
「綾音
傘、持ってる?」
隣に並んだ隆也が
さも何気ない調子で尋ねる
私は一瞬だけ
頭の中の
「物的証拠フォルダ」
を確認する
今日は朝から曇り予報だったけど
うっかりお洗濯物のことで
考え事をしていて
そういえば傘を
置きっぱなしにしてきたんだった!
「……持ってない、です……」
観念して白状すると
隆也は
廊下の端に立てかけてあった
黒い長傘を軽く持ち上げて
ほんの少しだけ
得意げに微笑む
「じゃ“共同使用”で
所有権は僕で
使用権は綾音の僕の二人
でいい?」
くだらない冗談なのに
私の心拍グラフは
一段階レンジを上げる
玄関を出た瞬間
湿った風が
頬と前髪の境界線を撫でていく
キャンパスの並木は
雨粒を振り払うかわりに
緑色の匂いを
大気に溶かしていた
隆也が傘を開く
その布地に残る
先程までの雨の名残り
しずくが一粒
ぽたりと落ちて
私のノートカバーをかすめる
「ごめん
ごめん大丈夫?」
「うん
……むしろ証拠が増えた……」
私がそう言うと
隆也は少し首をかしげてから
ふっと笑う
私と隆也は
自然と歩幅を合わせながら
キャンパスの小道を歩き出す
傘の内側は
外の世界から切り離された
小さな法廷みたい
ここでは
心拍数の上昇も
視線の泳ぎも
全部
「記録」
として残ってしまう
アスファルトの上には
並んだ私たちの影が
少しだけ歪みながら
伸びている
風が吹くたび
並木の葉が
水滴を落とし
そのたびに
「緑雨」
の匂いが濃くなる
「さっきのゼミの判例……」
隆也が
傘の骨にそっと
額を寄せるようにして言う
「綾音裁判官
“生活のリアリティ”
を守ろうとしていた
方向に考えてた?」
「え?それ
褒めてる?それとも予断・偏見?」
わざと法律用語を混ぜ返すと
隆也は肩を揺らして
微笑みながら続ける
「もちろん褒めてる!
……それに
“物語の最後の砦”
の表現
お気に入りだよ」
ゼミ室でぽろりとこぼした
あの隆也表現
私自身でも気恥ずかしい比喩!
私の中では
あれは一度きりで
終わるはずの言葉だった
でも今
こうして
「緑雨」
の匂いの中で再び引用されて
別の文脈に立たされている
言葉には
時効なんてなかったのかもしれない
「……じゃあ
今日の雨上がりの匂いは
何の砦だと思う?」
私でも驚くくらい
自然にそう尋ねていた
隆也は少しだけ考えるような
顔をしたあと
前を向いたまま答える
「そうだね……
“まだ言葉になってない気持ちたちが
逃げないようにしてる砦”
とか?」
心拍グラフが
明らかに規定値オーバーの
跳ね方をする
私はすかさず
心の中の記録係として
メモを取る
『本日・緑雨時、魚住隆也発言
“まだ言葉になってない気持ちたちの砦”
証拠能力:MAX』
傘の内側を満たす空気が
少しだけ甘くなる
「ねえ隆也?」
名前を呼ぶとき
声がわずかに
揺れているのを自覚する
「ん?」
「さっきの文献交換のメモ……
ちゃんと読んだ?」
“コーヒー一杯ぶんの議論付きで”
と書き添えた
あの半ば招待状みたいな走り書き
隆也は
一瞬だけこちらを見る
視線が交差する音が
たしかに
聞こえた気がした
「もちろん
……で
その“議論付き”っていう条項
いつ履行する?」
さらりと返ってきたその言葉に
私は思わず噴き出しそうになる
「条項って……
そんな大げさな」
「いや
継続的な
“また明日”
契約の一部だから……」
隆也の言葉に
私はそっと右手を握りしめる
ああ
隆也
この方は
やっぱり私と同じタイプの
「物語過多な法学部生」
なんだ!
緑雨の匂いが
胸の奥まで
深く吸い込まれていく
キャンパスの門が
近づくあたりで
傘の外側の世界は
すでにほとんど
晴れに変わっていた
「じゃ
明日のゼミ前
図書館の窓際の例の
“指定席”
で!」
隆也がそう言って
傘をもとの
角度に立て直す
「コーヒー一杯ぶんの
“仮説検証タイム”
付きで!」
これ以上
心拍グラフの波形を
どうするつもりなの!?
心の中で
抗議しながらも
私は小さく頷く
「……了解
じゃあその条項
青いノートの
“緑雨条文”
に記載しておくね!」
別れ際
いつものように
交わされる
「また明日」
が今日は少しだけ
濡れた葉の匂いをまとっていた
自宅に家に帰り
青いノートをそっと開く
今日のページには
雨粒の跡みたいな
インクのにじみが
端のほうに
広がっている
私はそこに
静かにこう
書き足した
『※第017季 緑雨の記録
共同使用の傘/“砦”という比喩の再登場/
コーヒー一杯ぶんの仮説検証条項
いずれも
恋に至る前段階の
“黙示の合意”と推定される』
消しゴムの届かない場所に
そっとインクを沈める
ページを閉じるとき
紙からふわりと
立ちのぼる香りは
さっきのキャンパスの緑雨と
どこかでつながっている気がした
私の心拍グラフは今
静かに
けれど確実に
綾音と隆也
「未来に向かって上昇中!」
心拍グラフの行き先
✨️第017季 緑雨の匂い✨️
私の中でずっと曖昧だった
“空気”と“感情”を
そっと結びつける作業
雨上がりのキャンパス
共同使用の傘
緑色の湿度
それらは
どれひとつとして判例
には記載されない
私と魚住隆也の関係を
確実に
アップデートしていく
「生活のリアリティ」
そのものだった
証拠法の講義で学ぶ
「証拠」
には厳格な要件が並んでいる
でも
私の青いノートの中で
証拠と呼ばれるものは
もっと素朴で
もっと私的で
そして何より
香りや温度まで含めた
“全感覚的記録”
でありたい
緑雨の香りを
吸い込んだ傘
濡れた地面に
伸びた二人分の影
「いつ履行する?」
と微笑む
隆也の声
それらはすべて
未来の私が読み返すための
心拍グラフの
証拠写本の一部になった
けれど
感情の変化はいつも
出来事の速度に
追いつくことができない
次の
✨️第018季 心が追いつく速度✨️
そんなタイムラグに焦点を当てる
雨上がりの翌日
図書館の
「指定席」
で交わされる
コーヒー一杯ぶんの議論
そこで語られるのは
「私たちは
これから先も
同じ速度で
未来に向かって
歩く!?」
という
とても私的で
とてもささやかなテーマ
出来事はいつも
先に進んでしまう
心はいつも
半歩だけ遅れてついていく
その半歩分の差をどう
埋めていく?
それを
雨上がりの
香りが
まだ残るキャンパスで
私は隆也と一緒に
少しずつ
確かめていこうと思う
青いノートの次のページは
すでに静かに開かれている
心拍グラフの線は
これからも
緑雨を
吸い込みながら
未来へ向かって続いていく!
私と隆也




