✨️第013季 春風に揺れる髪✨️
風がページをめくる前に
春の風は
いつだって不意打ち
天気予報のマークや
アプリの数値では
測れないタイミングで
ふっと
私と隆也の間を
通り過ぎていく
あの日から
心拍のグラフに
はっきりとした
「跳ね上がり」を
自分の手で
描いてしまってから
私は少しだけ
世界の見え方が
変わった気がする
講義の内容も
試験の範囲も
これまで通り
きちんとノートにまとめている
けれど
そのページの
どこかには必ず
隆也の名前や
その日の表情
そして
「心拍+いくつ」
という
他人には意味のわからない
メモが紛れ込んでいる
まだ私は
この感情を
公然と
「恋」
と呼ぶ勇気を
まだまだ持てないでいる
医学書の用語で言い換えれば
「経過観察中」の状態
とでも言えばいいのだろうか
判決を急がず
じっくり審理を重ねている最中の
グレーゾーンの案件
そんな中で迎えた
よく晴れた春の日
キャンパスの並木道を
吹き抜ける風が
私の髪を
ふわりと揺らした瞬間
私は
はっきりと気づいてしまった
隆也の視線が
確かに
その髪の揺れを
追っていたことに
この
✨️第013季 春風に揺れる髪✨️は
私自身が
「自分」
という存在を
少しだけ女性として
意識し始めてしまった
そんな
照れくさくて
でも嬉しくて
胸の奥がそっと
温度を上げていく季の記録……
春風は
ページをめくる
私、綾音と隆也
二人の物語の
その入口で……
風が連れてきた視線
その日の一限は、憲法
窓際の席に座ると
まだ少し冷たい朝の光が
ノートの余白に
斜めの線を落としていた
開け放たれた窓から
ふっと風が入り込む
ページの端が
めくれそうになって
私は慌てて指先で押さえた
同時に
髪が頬にかかる
さらりと
小さな音を立てて
その瞬間だった
前の斜め席から
視線を感じた
顔を上げると
隆也が
教科書から目を離して
こちらを見ていた
驚いたような
でもどこか
見とれているような
眼差し
目が合うと
彼は少しだけ
照れたように笑って
慌てて教科書に
視線を戻した
それだけのこと
けれど
私の胸の中では
心拍のメトロノームが
突然
テンポアップしてしまった
今の
なに?
風が
髪を揺らしただけ
それだけのはずなのに
その揺れを
追うように動いた
隆也の瞳を
私は
見逃すことができなかった
ノートの片隅
講義とは関係ない
メモが増える
『春風一陣
髪、頬にかかる
隆也の視線
たぶん2秒』
そしてその下に
小さく小さく
こう書き加える
『心拍、+8』
廊下の風
休み時間
私は廊下へ出
窓からの風が通り抜ける
少し薄暗い空間へ
歩き始めたところで
背後から名前を呼ばれる
「綾音!」
振り向くと、
文献を数冊片手に持った
隆也が
小走りで近づいてきた
「さっきのところ
“表現の自由”の判例
綾音のまとめ方
分かりやすい」
そう言って
隆也は私のノートを指さす
さっきのページ
春風と視線の出来事を
隠すように書き足した
判例の要点
「え、あ……ありがとう!」
戸惑いながら微笑む
また風がふっと
吹き抜けて
髪が揺れた
隆也の手が
自然な動作のように
伸びてくる
「……あ、ごめんね
花びらがついてた!」
そう言って
私の髪の先を
指先でそっと払う
ほんの一瞬
髪越しに
隆也の指の温度が
伝わった気がして
心臓が跳ねた
春風より
ずっと近い温度
「助かったわ
ありがとう」
と微笑みを
みせる私の声が
自分でも驚くほど
柔らかかったことに
帰り道になってから気づく
図書館の窓辺
午後
図書館の
窓の外には
薄紅色をまだ少しだけ
残した桜の枝
私と隆也は
隣り合って座りながら
それぞれのノートを
開いていた
「ここ
“判例の傾向”
ってまとめるより
“裁判所の視線”
で考えた方が
分かりやすくない?」
隆也が
自分のメモを見せながら言う
“視線”
という言葉に
私の胸が
また少しだけ反応する
さっき
風の中で
私に
向けられていた視線
「裁判所の視線?
たしかにその言い方の方が
イメージしやすいかも……」
そう答えながら
私は窓の外へ
一瞬だけ視線を向ける
風が枝を揺らし
散り残った花びらが
空中で小さな軌道を描く
その動きが
春風に揺れる
私の髪と
どこか重なって
見えてしまって
顔が熱くなる
「綾音?」
名前を呼ばれて
振り向くと、
隆也が少しだけ首を傾げていた
「綾音の今日
いつもより髪……
えっと、その……
……ちょっと大人っぽいというか……」
言いかけて
隆也は慌てて
視線をノートに落とす
「……あ、ごめん
変なこと言った……?!」
「ううん」
私は首を横に振る
胸の奥が
じんわりと熱くなっていく
大人っぽい
その言葉は
これまで一度も
私自身宛てに
受け取ったことのない種類の
褒め言葉
「ありがとう!」
やっとの思いで
そう言う
私の声が
春風に
溶け込んでしまいそうなほど
か細くて
でも確かに
隆也に
届いたことだけは分かった!
なぜって……
隆也の耳が、
ほんの少しだけ
……赤くなっていたから……
髪を解く夜
その夜
お風呂上がりの自室で
私は
ドレッサーの鏡の前に座り
濡れた髪を
タオルで拭きながら
ふと昼間の出来事を
思い返していた
春風に揺れた
私の髪
それを追いかけた
隆也の視線
廊下で花びらを
払ってくれた
隆也の指先
「大人っぽい」
と言ってくれた
少しぎこちない
隆也の言葉
どれもこれも
青いノートには
書ききれないほど
細やかな記憶の粒
自室の机の上に
ノートを開き
私は今日の心拍グラフを
描き始める
午前の講義
廊下で
図書館で
そして今
鏡の前の私
曲線は
春風に揺れる
髪のように
ふわり、ふわりと
波打ちながら
ときどき大きく跳ね上がる
『今日の心拍の揺れは
「恋」
という名前に
かなり近づいているよね!?』
そう書きかけて
私はペン先を止めた
まだ
断定はできない
でも
もう
「証拠不十分」
として
片づけてしまうには
こころの中の資料が
あまりにも増えすぎている
春風が吹くたびに
揺れる髪を
あなた、隆也が
「きれいだ」
と思ってくれている
その事実だけで
世界の彩度が
少しだけ高くなるのだとしたら
私はその変化を
何度でも
何度でも
自分の手で
記録していきたい
髪をドライヤーで乾かしながら
私はそっと目を閉じる
いつか
この髪を撫でる手が
もっと自然に
隆也のものだと
受け入れられる日が来るのだろうか?
その日の私の心拍数は
きっと
今日描いたどんなグラフよりも
高く
でも安定した曲線を描くのだろう
春風に揺れる髪
それはきっと
私の中で芽生えた感情が
外の世界へと
ほんの少しだけ顔を出し始めた
その証拠なのだ
ページの最後に
私は小さくこう書き添えた
『春風の季
私の髪が揺れるたび、
隆也との絆も
すこしずつ
揺れながら伸びていく』
ふたりだけの沈黙へ
✨️第012季 心拍のリズム✨️
で私は
私自身の身体の内側で
鳴っている音に
ようやく名前を与え始めた
そしてこの
✨️第013季「春風に揺れる髪✨️
でその音は
春風や髪の揺れ
視線や言葉といった
外の世界の
ささやかな出来事と
静かに連動し始めた
まだ私は
はっきりと
「好き」
と口にすることができない
けれど
髪を整える時間が
少しだけ長くなったり
窓を開ける角度を
意識したり
春風を受けとめる
私自身の姿を
どこかで気にしている
私に気づく
それはきっと
「恋」
という言葉の手前で
そっと芽吹く
ごく小さな自己主張?
次の
✨️第014季 ふたりだけの沈黙✨️
では言葉よりも先に
心が寄り添ってしまう瞬間を
綴っていく
声を交わさなくても
隣り合って
座っているだけで
不思議と落ち着く時間
図書館の机の下で
ふと触れそうになって
慌てて引っ込めた指先
駅の待ち時間の間のベンチで
同じ空を見上げながら
それぞれの沈黙に
そっと
耳を澄ませる夕暮れ
言葉を交わさないからこそ
かえって濃くなる気配と
私と隆也
二人の間を満たしていく
やわらかな静けさ
その沈黙の中で
私の心拍は
どんなリズムを刻むのか?
青いノートの
次のページを開きながら
私は胸の奥で
そっと
春風を待っている
「ふたりだけの沈黙」
の先に
どんな言葉が
……生まれるのかを知るために……




