✨第009季 微笑の予感✨
微笑の輪郭が生まれる朝
「私、大隅綾音は
いつから“自分の笑い方”を
意識するようになったんだろう?」
そんな問いが
ある朝ふいに胸をよぎる
窓から差し込む光が
昨日までと同じように
机の上で跳ねるのを見ながら
私、綾音は
自分の頬の内側が
じんわりと熱を帯びていることに気づく
理由は、わかっている
魚住隆也
昨日まで
「ただのクラスメイト」
「勉強仲間」
「遠回り友だち」
だったはずの隆也が
私の表情のひとつひとつを
ゆっくりと書き換え始めている
窓に咲く光に気づいたあの日から
私の中で何かが微かに変わった
ノートの余白に
紛れ込む小さな言葉たち
帰り道の信号待ちで
ふと重なる影
「いつかノートの余白を見せてあげる」
と、冗談みたいに口走ってしまった
半分本気の約束
その全部が
私の顔の筋肉
特に、口元と目尻あたり
に、今までとは違う
動きを教え込んでくる
ただ楽しいだけでもなく
ただ切ないだけでもない
その中間で、
名前の付けられない何かが
そっと微笑もうとしている
✨第009季「微笑の予感」✨は
まだ「恋」と呼ぶには少しだけ照れくさくて
でも「ただの友だち」と言い切るには
もうどこか無理がある
そんな“境界線上の表情”がテーマの
自身では見えない
自身の顔
それをいちばん近くで
変えているのが
窓の光あいだに座る
あの猫背の横顔だということを
私自身がまだうまく認められないまま
それでも確実に
「微笑の予感」
だけは育っていく
これは
私自身の微笑み方を
そして
私の笑顔を見ている
“誰か”を
初めて
ちゃんと意識してしまった日の記録……
その日
朝の支度を終えて
鏡の前に立ったとき
私は思わず首をかしげた
「……なんか、顔、違う?」
寝癖を直しながら
自分の口元を見る
いつもより
ほんの少しだけ
上がっている?!
たいした違いじゃない
けれど
私にはその
“少し”
が妙に気になる
理由は
スマートフォンの画面の中
昨夜
遅い時間に届いた
隆也からのメッセージ
『明日の教室の窓はどんな光かな?
“窓の光シリーズ”更新、楽しみにしてます!』
軽い調子の一文
でもその「シリーズ」という言葉が
私の胸のどこかをくすぐる
(ちゃんと覚えてるんだ、私が言ったこと……)
そう思った瞬間
鏡の中の自分が
自分で見ていてもわかるくらい
照れくさそうに微笑む
キャンパスに向かう路は
朝の空気のまだ冷たさを
少し残しているのに
私、綾音の頬の
内側だけが
先回りして熱を帯びる
校舎に近づくにつれて
私の心拍は
ゆっくりと速くなっていく
講義棟のドアを開けると
窓からの光がいつもよりひときわ強く
まだ半分眠そうな教室の空気を
やさしく起こしていた
斜め前の席
いつもの位置に
いつもの猫背
参考文献を枕にしかけて
ペンだけは
真面目そうに指に挟んで
「おはよ、綾音!」
振り返った隆也の声は
いつもと同じ
なのに
私の返事は
少しだけいつもと違う
「おはよう、隆也!」
気づいたのは
私自身のほうが先だった
さっき鏡で見た
“口元の角度”
が、そのまま声に乗っている
隆也の名前を言うときだけ
二ミリくらい、上に上がる……
「今日の光、どう?」
そう聞かれて、
私は窓のほうを振り返る
雲ひとつない青空
斜めに射し込む光の筋の中で
埃とも花粉ともつかない小さな粒子が
きらきらと舞っている
「……“本気出してる春”って感じ……」
私自身自で言ってから
少しだけ恥ずかしくなる
でも隆也は
くすっと微笑み
いつもの調子で返し
「じゃあ、そのまま書いといて。“本気出してる春”」
隆也の視線が
私の青いノートへと落ちる
私は
わざとらしいくらい
堂々とページを開いた
「はいはい、“窓の光シリーズ”ね!」
罫線の一番上
日付の横に
私はゆっくりとペンを滑らせる
『本気を出しはじめた春の光
窓辺で微笑む の横顔を
やわらかく縁取る』
書き終えた瞬間
視線を感じた
顔を上げると
隆也が
いつのまにか
少し身を乗り出している
「……今の、詩?」
「記録です。私の教室観察記録」
「ふーん。
“微笑み横顔”って、誰の?」
その問いかけに
心臓がひとつ跳ねる
私は咄嗟にペン先を見つめた
(……誰って、言わせないで)
「それは、ね!」
と答えかけたところ
館内放送が割り込む
救われたような
続きを言えなくて
がっかりしたような
複雑な感情が
胸の中で絡まり合う
講議
私はできるだけ真面目に速記しながら
ノートの端っこに
こっそりと小さな記述を増やしていく
『問いかけのあと
私の口元は、ちゃんと微笑んでいた?』
『彼の視線が触れたところだけ
少し、温度が違う気がする』
数式と条文の合間に
こんな文章を紛れ込ませている
自分に気づくたび
頬の心の内側が
じんわり熱く高鳴る
昼休み。
私と隆也は
いつものように
窓際の机を少し寄せ合って
コンビニおにぎりと
サンドイッチを並べた
「はい、これ。ツナマヨ」
「え、なんでわかったの?」
「毎回、ツナマヨが一個は入ってるから」
そう言った瞬間
隆也が
少しだけ驚いた顔をする
そして
照れくさそうに微笑み
こう言う
「……そんなとこまで、見てくれているんだ!」
(“そんなとこまで”どころじゃないけど)
心の中でそうつぶやく
けれど
口から出てきたのは
ごまかすような言葉だった
「観察対象なので
データは多い方がいいの!」
「へえ、“観察対象”ね
じゃあ、さっきの“微笑む横顔”も、そのデータ?」
隆也は
さっきの一文をまだ引きずっている
私は
視線を窓の外へと逃がした
窓ガラスに映る
ぼやけた私自身の顔
そのすぐ後ろに
同じように
ぼやけた隆也の横顔
二つの輪郭が
光の反射でふわりと
重なったように見えた
「……そうかも」
気づいたら
私はそう答えていた
「ちょっとだけ本当」
に
「ちょっとだけ嘘」
を混ぜた言い方で
最後の講義が終わるころには
光はすでに
少し傾き始めていた
窓枠と机のあいだから
長い影が伸びる
帰り支度をしながら
私はふと
私の頬が一日中
前よりよく動いていたことに気づく
微笑む!
むくれる!
驚く!
照れる!
そのどれもが
隆也の一言に
揺らされる
「綾音!」
名前を呼ばれて
顔を上げると
隆也が
鞄を肩にかけたまま立っていた
「今日は
いつもより“微笑み”が多い気がする……」
「えっ?!」
思わず
変な声が出る
隆也は
少し照れたみたいに
後頭部をかきながら続ける
「ノートを書いてる時も
なにげに口元が、ちょっとうわむき?」
隆也は指で
口端をちょん、と上に持ち上げて見せる
「……こんな感じで」
その仕草があまりにも可笑しくて
私はこらえきれずに
くすっ!になってしまった
「今もそう
ほら、やっぱり
今日の綾音はいつもより“微笑む”」
そんなことを
真顔で言わないで
心の中でそう叫びながらも
私の口元は
彼の言葉に素直に従ってしまう
「……それ、きっと」
私は
窓の方へちらりと視線を送る。
夕方の光が
教室の隅で薄く揺れている
「“窓の光”のせいよ
今日は、光の機嫌がいいから」
「そっか
じゃあ、今日の“微笑ログ”も、ちゃんとノートに残しておいて」
「なにそれ」
「綾音の笑い方の記録
僕の青いノートがあったら、たぶん一行目はそれ」
不意打ちの言葉
胸の奥で
何かが静かに弾ける音がした
「……一行目から、そんなの書くの?」
「うん。“今日の綾音、よく微笑んでいた”って」
あまりにもストレートで
私はまともに
隆也の顔を見ることができなくなった
校舎を出ると、
夕焼け前の淡い光が
キャンパス全体を包み込んでいた
風はまだ少し冷たいのに
頬の胸の内側は
やっぱり熱い
「今日も、遠回りして行こ?!」
今日は
隆也のほうからそう誘う
その言葉に
私は自然と
微笑みうなずく
「うん
……“外の光コース”、続行で!」
並んで歩く歩道
街路樹の影が
私たちの足元で
重なったり
離れたりする
ふと横を見ると
隆也も
さっき私自身で言った通り
いつもより少しだけ
よく微笑んでいるように見えた
(ねえ、隆也
私のこのウインク、あなた、隆也のノートにも、ちゃんと残ってる?)
そう心の中で
問いかけながら
私は鞄の中の
青いノートの存在を確かめる
今日のページの余白には
今夜もうひとつ
書き足すべき一文がある
『今日の私の笑い方は
きっと、誰かのまなざしに影響された
“微笑の予感”』
インクが紙に触れる瞬間
その“一歩手前”の感情に
名前をつけたくなる
でもまだ、
はっきりとは書かない。
今はただ
「予感」
として、そっと置いておく
いつか
この予感がはっきりとした形になったとき――
私はその時
初めて堂々と
この気持ちに
「恋」
という名前へ
それまでの間は
こうして
ほんの少しだけ
上向きになった口元で
隆也
あなたの隣を歩いていたいと思う
「好き」の輪郭が近づく音
✨第009季「微笑の予感」✨は
大事件も
大げさな告白もない一日の記録だった
でも
鏡の前で気づいた“微妙な変化”
教室で隆也に
名前を呼ばれたときにだけ
揺れる口元
窓ガラスに重なった
二つの輪郭
「今日、よく微笑んでいた気がする」
と言われた瞬間の心のざわめき――
そのどれもが
たしかに私の中で
何かの“輪郭”を描き始めている
まだ私は
自分の気持ちに
はっきりとした
名前を与える勇気を持てない
でも
鏡の前の私の顔も
青いノートの余白も
窓に咲く光も
そして何より
魚住隆也のまなざしも
どれも少しずつ
私、「大隅綾音」
という人間の
“微笑の変化”
を肯定してくれているような気がする
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この“予感”が
もう一歩だけ踏み出す




