✨️第007季 青いノートの余白✨️
私の机の上には
いつも一冊のノートが開いている
青い罫線が規則正しく並んだ
ごく普通の大学ノート
けれど
ページの中央をまっすぐに走るその線たちは
いつからか
私の中では
「授業のための場所」と
「それ以外の場所」を区切る
目に見えない境界になった
上の方には、講義内容の速記や雑記
整然と並ぶ文字たちは
たしかに私を支えてくれる「勉強」の証拠だ
けれど
ページの端、余白と呼ばれるその狭いスペースには
まったく違う種類の言葉が溜まっていく
小さな吹き出しで描かれた
私のイラストの隆也の横顔
「この設問は、隆也ならどう解くんだろう?」
という、くだらない疑問
講義とは関係ない
ぽつりとこぼれた比喩や
誰にも見せるつもりのない一文
青いノートの「本文」は
私の未来を支えるための記録
青いノートの「余白」は
私の心が
こぼれ落ちるための避難場所
✨️第007季 青いノートの余白✨️は
そんな二つの領域が
ゆっくり混ざり合っていく
問題の解き方を書き込むペン先が
ふいに隆也の名前を綴ってしまう瞬間
誰にも読まれないはずの落書きが
いつのまにか
私自身を説明してしまう瞬間
遠回りの帰り道で増えていった
言葉にならない気持ちたちが
今度は
ノートの余白のなかで
静かに形を持ちはじめる
「勉強」と「恋心」
「目標」と「不安」
「未来」と「今ここ」
そのどれもを
ひとまず紙の上に預けておくことでしか
まだうまく扱えない私
青い罫線に守られながら
それでも少しずつ線からはみ出していこうとする
そんな私と魚住隆也の
新しい季節の始まりを
このページに記していく
その朝
私はいつもより
少し早く目を覚まし
自室のカーテンの隙間から
こぼれる光が
まぶたを薄く透かしてくすぐる
枕元には
昨日の夜遅くまで開いていた
青いノートが
うつ伏せのまま眠っていた
ページの端には
細いペンで書かれた一行が残っている
「今日も遠回りの帰り道
でもそれが私たちの“まっすぐ”」
自分で書いたくせに
読み返すと
少しだけ顔が熱くなる
ノートをぱたんと閉じて
私はベッドから起き上がった
朝の勉強会の日
いつものように
私の自室で
私のノートを真ん中に置いて
私より少し背の高い
魚住隆也が
相変わらずの猫背で
参考文献をめくる
サイドデスクには
私の青いノートが開き
ページの中央には
今日解くべき議論対象
その両側の狭い余白には
昨日までの
「私の気持ち」
が、まだ消されずに残っていた
「おはよ、綾音!あっ!……書いてある!」
先にページを
覗き込んだ隆也が
くすりと微笑み
私は慌てて
ノートを引き寄せようとして
手を止めた
「見なくていいの!」
「見ようとしてないよ
“またいっぱい書いてる!”
って思っただけ」
ノートの「本文」には
かなり詰め込まれた
数式とメモが並んでいた
でも
隆也の視線が
いちばん長く留まっていたのは
端にある小さな線だった
「……ここ、“魚住”って書いてない?」
「図のラベル! ただのラベル!」
私自身でも
苦しい言い訳だと思った
ページの端。
図形の頂点のひとつに
小さく
「Ryuya」
と書かれていて
「へえ。三角形の頂点に、魚住?」
「うるさい。覚えやすいだけ!」
そう言って
私はその文字の上から
そっと別の記号を書き足した
でも
完全には消えない
「Ryuya」
の痕跡は、インクのかすれとして
薄く残り続ける
「僕も書いていい?」
「どこに?」
「余白、ちょっと貸して!」
隆也は
私の許可を待つまでもなく
私のノートを
くるりと自分の方へ回した
余白の片隅に
さらさらとペンを走らせる
「……何書いてるの?」
「ヒントは!」
「どの問題の?」
「ひ・み・つ!」
拗ねたふりをしながら
私はノートを奪い返す
そして
隆也の書いた
小さな文字を見つけて
言葉を失う
あんまり無理しない……で!
最近、詰め込みすぎじゃない?
と
「勉強のこと?」
「全部。ノートの余白、ぜんぶ埋めようとしてる」
ページの下の方には
小さな文字で
びっしりと書き込まれた
私自身の独り言
もっと頑張る
次は満点
失敗しないように
そんな言葉が
罫線から
はみ出しそうな勢いで
文字並んでいる
「ここ、“満点じゃないと意味がない”って書いてある!」
「……見なくていいってば!」
「でも、その隣に、
“遠回りでもいいはずなのに”
って書いてるの、綾音でしょ!」
私は息を飲んだ
昨夜
自分でもよくわからないまま
書き足した一文
「どっちの綾音が、本物?」
「……どっちも、じゃダメなの!」
「ダメじゃないけど。しんどくない?」
質問の形をした優しさは
ときどき鋭い
私は視線をそらし
ペン先で同じ場所を何度もなぞった
「余白くらい、欲張ってもいいと思ってた」
「ならば、“楽しいこと”も書きなよ」
隆也の言葉に
私は思わず顔を上げた
「楽しいこと?」
「うん。例えば、“今日も一緒に遠回りできた”とかさ」
「……それ、もう書いてる!」
「え?」
「昨日のページ!」
私はノートを一枚めくり
昨日の日付の下に
小さく書かれた文を指さした
「ほら。“魚住隆也と遠回り。たぶん、これが今日いちばんの収穫”!」
「うわ、ちゃんとフルネーム!ありがとう!」
「うるさい!」
私と隆也で談笑し
部屋の空気が
少しだけ軽くなる
窓の外には
早暁の光が
ゆっくりと差し込んでいた
その日の講義
私はいつも以上に落ち着かない
数式を書き留めながら
罫線の外側に
別の言葉が零れていく
今日の隆也、ちょっと眠そう
板書写す速さは相変わらずずるい
隣の席、当たり前みたいに私用空けてあるの、何気に嬉しい
周囲の声が少し遠のき
文献のページが
静かなざわめきに変わる
私は
「これじゃダメだ」
と思いながらも
ペンを止められなかった
青いノートの余白は、いつのまにか
“魚住隆也観察記録”になりつつある
休み時間
隆也が覗き込む前に
私は慌ててノートを閉じた
けれど
その仕草が明らかに不自然だったせいで
彼の視線はむしろそこに吸い寄せられる
「今の、絶対なんか書いてたでしょ!」
「講義の速記!」
「直ぐに隠したよ!」
私はどうにか話題を変えようと
教室の窓の方を指さす
「ほら、外。桜、もうほとんど散ってる!」
「話そらした!」
「そらしてない。季節の移ろいを味わってるの」
隆也は
私をからかうのを一旦やめて
窓の外を見た
風に乗って
残り少ない花びらが
ひとひら、ふたひらと舞い下りる
「……じゃあさ」
「なに?」
「桜が全部散ったら、余白にどう書く?」
その問いは
思いのほか、まっすぐだった
私は返事をすぐに見つけられず
ペンの先で机をとん、とん、と叩いた
「たぶん……」
自分でも驚くほどに
声が小さくなる
それでも
隆也にはちゃんと届いてしまう距離
「たぶん、“来年も同じ窓から桜を見たい”って書くと思う」
「……誰と?」
心臓が、一拍
強く跳ねた
その一拍ぶんの沈黙を
私は誤魔化せない
「……内緒!」
「ずるい」
さっき私が言った言葉を
そのまま返される
でもその
「ずるい」
は責める響きじゃなくて
どこか嬉しそうな音をしていた
その日の
「遠回りの帰り道」
は、いつもより少しゆっくりと
夕焼けの色が濃くなり
住宅街の影が長く伸びる
「ノートの余白、見せてって言ったら、見せてくれる?」
「絶対にイヤ!」
「だろうね」
即答した私を見て
隆也はあっさり微笑む
追及もしないし
諦めもしない
その曖昧な距離感が
今の私と隆也には
ちょうどよい
信号待ちの間
私は鞄の中のノートの存在を意識していた
ページの端に眠る
私自身だけの本音
誰にも読まれないはずの小さな文字列
でも、もし
いつか
あなた、隆也になら
見せてもいいと
思える日がきっと
来る
青信号が灯り
人の流れが動き出す
私と隆也もそれに合わせて歩き出す
「綾音……」
「なーに?」
「もしさ。僕にも“青いノート”あったら、余白になに書くと思う?」
不意打ちの質問に
足が一瞬もつれそうになる
私の心の中で
勝手にページが開いていく
「……“眠い”って、毎日書いてそう」
「ひどくない?」
「でも事実でしょ?」
笑いながら、
私はふと、
真面目な答えも気になった
「じゃあ、ほんとは?」
「ほんとは……」
隆也は少しだけ空を見上げた
夕焼けの光が瞳に映り込む
「“今日は綾音が笑ってた”とか、“怒ってた”とか、“泣きそうだった”とか」
「え?!」
「そういうの、書いてる気がする」
心臓の脈が
一瞬
ノートのページをめくる音みたいに聞こえた
私は視線を落とし
足元に並ぶ影を見つめる
ふたつの影が
ゆっくりと伸びて
重なったり離れたりしている
「……そんなの、書く必要ある?」
「ある!僕が覚えておきたいから」
短く、そう言った
それ以上
説明を足さないところが
隆也らしかった
いつもの
JR東海と名古屋鉄道の
改札前に着く
いつものように
ここが一日の終点であり
明日の始発駅になる
「じゃあ、また明日!」
「うん。また明日!」
別れ際
私はふと
口が勝手に動くのを感じた
「ねえ、隆也!」
「ん?」
「いつか……私のノートの余白
ちょっとだけ見せてあげる!」
「え?」
自分で言いながら
耳まで熱くなる
隆也の驚いた顔を直視できなくて、
私は慌てて続けた
「“ちょっとだけ”ね。ぜんぶは無理」
「……約束?」
「気が向いたら」
「それ、約束って言わない!」
けれど
隆也は
どこか嬉しそうに笑って手を振った
改札を抜ける
隆也の背中を見送りながら
私は胸の中の
「チェックボックス」
に、そっと新しい項目を書き足す
「いつか、余白を隆也にひらくこと」
家に帰り
机に向かう。
青いノートを開き
今日の日付を書く。
その下の余白に
私は静かにペンを置いた。
「今日、魚住隆也が言った
“僕にも青いノートがあったら
綾音のこと書くと思う”って
私のブルーの罫線の上に
新しい色が、そっと混ざり始めている」
インクが紙に染み込んでいく
その様子を見つめながら
私は思う
青いノートの余白は
きっと
私たちの未来の
「下書き」
なのだろうと
✨️第007季 青いノートの余白✨️は、
私の心が初めて
「勉強」と「感情」の両方を
同じページに置こうとした季節
これまでは
テストの点数や、模試の判定や
将来の進路のことばかりをノートに記してきた
そこに
誰かの名前、魚住隆也という名前を
書き込むなんて
私にとっては小さな反則のように感じられた
けれど
遠回りの帰り道で
隆也の言葉に
たしかな温度を感じてしまったあとでは
その反則を
「ちょっとだけなら」
と許してしまう私自身自分がいる
青い罫線に守られた領域と
その外側の、自由すぎる余白
両方が一冊のノートの中に
共存しているように
私と隆也の日常にも
「目標」と「揺らぎ」が
同時に存在している
どちらか一方を捨ててしまうのではなく
両方を抱えたまま
ページをめくっていくこと
それが
私と隆也が選びつつある
生き方なのだと思う
そして、
そのページの片隅には
いつも
私、大隅綾音の気持ちと
魚住隆也の気配が
静かに書き込まれている
名前を出さない日でさえ
問いかけの形や
比喩の角度のなかに
私と隆也の存在が滲んでしまう
いつか、本当に、余白をひらく日が来るだろうか?
“これが、私の心のノートです”と、素直に手渡せる日が……
その答えはまだ
ページの奥で眠ったまま
でも、
今はそれでいいのかもしれない
下書きの段階だからこそ
書ける言葉もあるのだと
最近の私は
少しだけ優しく自分に言い聞かせられるようになった
次の季
✨️第008季 教室の窓に咲く光」✨️では
私のノートから
視線がふと外へ向かう
青い罫線の上ではなく
教室の窓ガラスに反射した光のなかに
私と隆也の
「今」と「少しだけ先」の姿が
淡く浮かび上がる
ふりをしながら
ほんの一瞬
窓の外の空と
隣の席の横顔を重ねてしまう瞬間
それは
ノートの余白に書ききれなくなった感情が
世界そのものににじみ出していく
序章なのかもしれない
ページの上の物語と
窓の外の光の物語が
ゆっくりと重なり合っていく
その瞬間を
どうかこれからも
隆也
私、大隅綾音の
「心の季節」
とともに見届けて……




