政略結婚のハズが門前払いをされまして
「旦那様からは何も伺っておりません、お引取りください」
そう言われるなり、キャスリンの目の前でバタンと玄関扉は閉じられた。
――えっと……?
政略結婚だと思っていたのは私だけ……なのかしら? 門前払いって……?
疑問は色々と尽きないけれど、取り敢えず……。
「帰って良いかしら、国に……?」
「それは勘弁してください」
ちらりと横を見ながら聞いてみる。けれど即、眉間に皺を寄せるダルトリー侯爵に諌められた。
外交官だけあって、非友好的な態度を取られても、直情的にならない理性を持ち合わせている。
大変スバラシイ。
……私は付き合って足並みを揃えたいとは思えないけれど。
「玄関扉の前で立っていても埒が明かないので、取り敢えず移動しましょうか」
そう言われて馬車に乗ると、王都の中心街に進んでいく。
――このまま郊外に出てくれて構わないのに。
キャスリンが感情の赴くままに行動しても、今なら誰も咎めないのではないだろうかと思ってしまう。
ちなみにキャスリンたちの後ろに控えている侍女のエルデは怒り心頭で、馬車に戻った今もこめかみに青筋を立てたままだ。
「デラフェンテ公爵は一体どういうおつもりかしら?」
キャスリンが政略結婚の相手宅に到着した直後の出来事は、花嫁一行を驚かせるに充分だった。たとえ母国であるレイエ王国が、この国――ガスディエン王国の民から小国と侮られている事実があり、実際に国土の大きさも国力も大人と子供くらいの差があるとはいえ、国からの要請で迎える他国出身の花嫁を門前払いするのは、非常識極まりない行為なのだ。
「取り敢えず国として押さえている宿に案内しますから、そこで待機していただきたい」
渋面のままのダルトリー侯爵は、不快な出来事もポーカーフェイスで流せる外交官だが、関係者しかいない馬車の中なのを良いことに、取り繕うのを止めて、直近の問題である今晩の宿に関しての説明を口にした。
「キャスリン殿がお一人ではないとはいえ、男の一人暮らしに招き入れる訳にはいきませんからね。それに急なことにも対応できるように、常に押さえている宿は貴族が泊まれるように行き届いていますから、我が家より寛げると思いますよ」
「宿に泊まるのは構いませんけれど、先ほどの雰囲気からすると、待ったところで屋敷に迎え入れられるとは思いません。しばらくこの国に滞在した後、結婚せずに帰国することになりそうですわ」
腹芸の必要ない相手だから思ったままを言葉にしたが、あながち間違ってはいない確信があった。
――さきほどの状況が打開できない限り、私がこの国に滞在する意味はあるのかしら?
キャスリンは国から請われて、何年も前に整った婚約を白紙に戻した。
そうまでして隣国であるガスディエンの地に来たのだ。正直言って帰れるものなら帰国したいし、この婚姻を解消して、元の婚約者と結婚したいと思っている。
「だとしても体裁が重要なのですよ。こちら側が最大限に譲歩し、誠意を見せたという」
「体裁、要は建前ということですね?」
「そう、建前ですよ」
生徒を教える先生のような言葉に、キャスリンは小さく溜息をついた。
「外交なんていうものは、いかに体裁を整えるかが重要になるんですよ。彼我の差が他国の目にどう映るかとかね」
悪戯っぽく笑うダルトリー侯爵は、いかにもお人好しそうな顔のまま腹黒さを滲ませる。
キャスリン=ミスト伯爵令嬢は人生初の塩対応に、怒りを通り越して呆れの境地に達した。
* * *
一ヵ月後――
「もう帰国されても良いのではないでしょうか」
キャスリンの手伝いをしながら、エルゼはプリプリと怒っていた。彼女はこの国に着いてから不機嫌な時がとても多い。本来はよく笑う朗らかな性格なのに。
母国から持ち込んだ鉢植えに水を遣りながら侍女をいなすのは、王都郊外に屋敷を借りてからの日課になりつつある。
ダルトリー侯爵の手配で家を借りたのは、宿に移動して半月ほど経った頃だった。嫁入り道具が多く、宿では荷物を全て広げられないからと、早々に家を借りるようにしたのだ。
「取り敢えず一年は我慢してくれなんて、ダルトリー侯爵もあんまりです」
エルゼの矛先は礼儀知らずのガスディエン王国だけではなく、主人に無理強いする自国の外交官にまで及ぶ。
「あまり怒らないの。悪いと思っているからこそ、こうやって花を贈ってくださっているじゃないの」
キャスリンの手元には白く可愛らしい花をつけた鉢植えと、黄色の花をつけた鉢植えがあった。田舎の領地に育ち、花を育てるのが趣味だと知っているダルトリー侯爵が、気を利かせてこの国の花をいくつも贈ってくれたのだ。それも母国から持ち込んだ鉢が花を付けるのが数ヶ月先だから、それまでの間、花が無いのは寂しいだろうと気を利かせて。
「そうですけど……、お嬢様は良い様に扱われて悔しくないんですか?」
「腹が立たないと言えば嘘になるけれど、外交なんてこういうものだもの。私との結婚がなくなって困るのは、私でもレイエ王国でもなくてガスディエン王国よ。だから放っておけば良いのよ」
キャスリンたちの母国はこの国の三分の一ほどの国土しか持たない上、山が多くて麦の栽培に適した土地が少ない。だけど珍しい果実や花など、他国には無い特産品がある。逆にガスディエン王国は広大な穀倉地帯を有するものの、国境を接する別の隣国も同様であり、国として必ずしも取引しなくてはいけないという状況にはない。国境を接しているから、友好関係を保っていた方が面倒が少ないというだけだ。
「デラフェンテ公爵家は何て言ってきてるんでしょう?」
「お返事が無いそうよ。困った方々よね、お約束を守らないなんて」
キャスリンは少し遠い目になる。
――何を考えているのかしら?
……そもそも何か考えていたら、国同士の均衡の上に成り立つ婚姻をぞんざいにしていないわね。
未だ契約は破棄はされていないとはいえ、蔑ろにされ虚仮にされたのだから、全く何もなかったかのようには出来ない。何らかの代償は支払わされるだろう。花婿の懐が痛むことになっても、レイエ王国が後ろ盾に付いているキャスリンが困ることにはならない。
――せいぜい、困れば良いのだわ。
いたずらに状況を悪くした当事者が、代償を支払うのは当然なのだ。
三ヵ月後――
相変わらずキャスリンは郊外の屋敷に暮らしていた。
国から持ち込んだ鉢植えは、どれも鮮やかな赤の蕾をつけている。偽百合だとか毒百合と呼ばれる、鮮やかな赤い色をした百合に似た花だ。
――スカーレットベルという立派な名前があるのに、偽物扱いされるなんて酷い話だわ。
百合に似ている形と香りだが、艶やかな色から清楚さは欠片もなく、その所為で偽物扱いされている不遇な花なのだ。
たっぷりと水をかけると、心なしか花が嬉しそうだ。水遣りの次は花の処理が待っている。綻びかけた蕾の中にそっとピンセットと小さめのハサミを差し入れた。
百合と同様、花粉が服に付着すると落ちない。しかも百合と違って有毒だ。強くはないからほんの少量でどうこうなることはなく、神経質になる必要はないけれど、薬としても使えるものだから、できる限り花粉を落としたくない。
切り取った雄しべを薬包に使われる紙の上にそっと置く。すべての花から切りとれば、残ったのはただ紅く綺麗なだけの花だ。
「エルゼ、花をダルトリー侯爵に届けてくれないかしら?」
「判りました。国を思い出して懐かしく思うでしょうね」
スカーレットベルはレイエ王国でしか栽培されていない。この国の人たちが見れば、ただの珍しい色の百合にしか見えないけれど、同郷の人たちには母国を思い出させる懐かしい花なのだ。
――侯爵なら花を愛でるだけではなく、有効に使ってくれるわ。
ガスディエン王国に無い花を見れば、花嫁の存在を思い出すかもしれない。
何時まで我慢をさせる心算なのだと圧力を掛けられれば良し、そうでなくともキャスリンの存在を示すだけでも意味があった。
だから家に飾る数本を取り置いて、残り全てをダルトリー侯爵に贈るように指示を出したのである。
「侯爵はお喜びでした!」
エルゼは帰宅するなり、満面の笑みで報告してきた。
「お礼にとレイエ王国のお菓子をたくさんいただきました」
「まあ! では皆でいただきましょうか」
主人の貰い物を使用人に分け与えるのはあまりない事だけれど、郷里が懐かしいのに主従は関係ない。特に不遇を囲い苦労しているのは、直接ガスディエン王国の民と接する使用人たちだった。
* * *
――十二ヵ月後
スカーレットベルの球根を掘り返す時期がきた。キャスリンがガスディエン王国に来てもう少しで一年になる。
このままでは結婚はないだろうと、少し前から荷物を国に送り返したり処分したりと、身の回りを整理し始めた。政略が絡むから大手を振っての行動ではないものの、特に秘匿していない。
「ようやく帰れますね」
「そうね、もうガスディエン王国は充分堪能したかしら。二度と来たくないわ」
侍女の言葉にキャスリンも苦笑しながら同意する。
小国出身と侮るのはデラフェンテ公爵家だけではなかった。平民たちも同様で、買い物をすればガスティエン人の数倍の値段をふっかけられ、しかも嫌々売ってやるという態度を隠しもしない。
あまりに不愉快過ぎて、食料や日々使う消耗品などはダルトリー侯爵にお願いして、できる限り母国から届いたものを手に入れるようになった。以来この国で入手したのは、故郷にはない花を数株だけだった。
――ようやく帰れるわ。それにしても、この国は何をしたかったのかしらね。
良い思い出が一つも無いほど酷い国だった。
――もう二度と来たいなんて思わないわ、きっと。
小さな溜息をついた後、気持ちを切り替えて鏡を見る。映ったのは疲れているものの晴れ晴れとした顔をした自分だった。
「ではこの国ですべき最後の仕事をしてくるわ」
エルゼに伝えると同時に自然と笑みが零れた。
「――面を上げよ」
かなりたっぷりと時間を空けた後、頭上から声がかかる。
ガスディエン王国に来る前に母国で国王陛下に謁見したときは、もっとずっと早かった。「迷惑をかけるが、国のために頼む」とたかが伯爵令嬢に過ぎないキャスリンに頭を下げる器の大きさを見せられては、否と言えなくなってしまった。
――なのにこの国ときたら。
中腰だから腰も膝も負担が大きいけれど、レイエ王国を侮っているから、嫌がらせのような行いをチクチクとしてくるのだ。既に身をもって知っているから、こんなものかとしか思わないけれど、腹が立たない訳ではない。
むしろ国王がこんなだから、夫になる筈だったデラフェンテ公爵はキャスリンと顔を合わすこともなく、使用人を使って門前払いしたのだろう。
でも今日で終わると思えば、我慢はできる。
「して成果は?」
「こちらにございます」
ダルトリー侯爵が蓋の無い箱に入れた薬包を差し出す。魔力風邪の特効薬であり、キャスリンが嫁入り道具として持ち込んだ八株のスカーレットベルの球根から作ったものだ。一株当たり八十から百包ほど作られるとはいえ、熱が引くまでの七日から十日の間は一日三回服用する必要がある。ぎっしり詰まった薬は大量にあるように見えて、実のところ四十人分にも満たなかった。
魔力風邪は普通の風邪に似た症状の病気だ。高熱が数日続くため熱で命を落とすこともある。
しかし厄介なのは命を奪うほどの熱ではない。深刻なのは後遺症だ。感染するとほぼ確実に魔力量が減る。特に子供で傾向が著しく、女子で元の三割減ほど、男子では七から八割ほど。感染力が高く、罹患すると確実に魔力低下を起こす。大人も感染し魔力量の低下が見られるが、感染力は子供ほどではない上に高熱は出ることが稀なため、さほど怖い病気ではない。魔力量の低下も見られるが後遺症の頻度が低く、魔力量低下が起きても一割も減少しなかった。
魔力量の豊富さが貴族のステータスであり、同じような魔力量ではなければ子供ができづらいとあって、どこの国でも深刻な社会問題化したが、いち早く薬を開発して広めたレイエ王国では、既に危機から脱して数年が経過していた。
特効薬は罹患直後から服用すれば、微熱程度の発熱だけで回復する。症状が軽いせいなのか後遺症も滅多に出ない。魔力量の低下が起きないのだ。ただの風邪にも有効な薬だったから、症状が出たら取り敢えず服用させる。
一年前にキャスリンとデラフェンテ公爵との婚約が整ったのも、この魔力風邪対策が理由だった。薬を作るため必要な知識を持つ者と、薬の元となる植物を要求されたのだ。そのためスカーレットベルの一大生息地を領地に持つミスト伯爵家の令嬢であり、栽培と薬の製造スキルを持つキャスリンが選ばれた。犠牲者は一人で良いだろうという判断も働いて。
相手は王弟である公爵。高位貴族とはいえ田舎娘と王族という身分差を超えた国際結婚は、二国間の結びつきを強くする筈だった。
「足りぬな」
「と仰せられましても、今の住居と状況ではこれ以上の増産は無理でございます」
ダルトリー侯爵の言葉は事実だ。
パン一つリンゴ一つ手に入れるのに苦労する状況で、余裕のある暮らしは難しく、大量の花の栽培まで気持ち的に余裕はない。
――本当だったら、機を見て追加の鉢を持ってきてもらう筈だったのよ。人手だって、わたくし一人では無理な分を任せられる人数を実家から送ってもらう筈だったのに。
台無しにしたのは、嫁入り先だったデラフェンテ公爵であり、容認したガスディエン国王だ。
「足らぬと申しておる!」
「生活に支障を来す状況で、これ以上を望まれても無理でございます」
望む返答を得られなかった国王が怒りを露わに声を荒げたが、一刀両断したダルトリー侯爵は涼しい顔だ。
「一年もの間、デラフェンテ公爵家からはレイエ人の嫁なんか要らぬと門前払いが続き、城下で屋敷を構えることもできず、城壁の外で貴族の令嬢が暮らしていたのです。どれほど心労が溜まるとお思いか」
実際には転移魔法陣を使って実家と物資や人員のやり取りをしていたから、さほどではなかったとキャスリンは思う。
空気を読んで言わないが。
町に行くと腹が立つ思いしかしないので、滅多に城壁の中に立ち入らなかった。食料の調達などは最低限だけで、それもダルトリー侯爵が手配してくれたお陰で、キャスリンやエルデを始めとする使用人たちも怒りは長く続かなかった。レイエ王国側の行動は秘匿されていたから、食料や日用品を母国から輸入しているのは、ガスディエン側に情報は漏れていないだろうが。
城壁の外に屋敷を構えたのは、結果的に良い方向に動いた。夜陰に紛れれば人の出入りが判らないのだから。
とはいえ都を取り囲むように張り巡らせた城壁は、盗賊や狼の群れなどから人々を守るものであり、その外に住むというのは庇護から外れた意味がある。キャスリンはガスティエン王国において、国王からも婚約者からも守られていない、守られる価値のない人物だと、内外に知らしめられたのだ。
「ではデラフェンテ公爵家に受け入れてやろうではないか」
「使用人如きが伯爵令嬢であり未来の奥方に水を掛けるような狼藉を働く家で、心穏やかに暮らせると?」
「つべこべ言うな! 今の生活を保障してやるから、薬を持ってまいれ!」
焦れた国王の一喝も、やはりダルトリー侯爵には効果がなかった。
そもそも「今」の生活の保障というのは、庇護されず蔑ろにするという意味であるのだが、ガスティエン王国側の参加者は、誰も気づいていない。「小娘如きが」という吐き捨てるような呟きがあちらこちらから零される。
――ここにきて、まだこの体たらくなんてね。
外交にも政治にも疎いキャスリンですら、今の状況がガスティエン王国にとって良くない、むしろ非常に旗色が悪いのに気付いている。
「約束を違える国に、こちらだけが従う理由はございません。お約束いただいた花嫁を大切に、苦労などさせないという約束も、食料支援もまったくいただけなかったですからね」
真っ向からの反抗は、敵対と取られてもおかしくないものだった。ザワリと周囲に動揺が広がり、騎士たちが腰の剣に手を掛ける。
国王は激昂し、感情の赴くまま実力行使に出るかとキャスリンは思ったが、そうはならず近くに控えていた貴族に目配せをするだけだった。
――流石に考えなし過ぎて手を付けられないほどではないのね。
多少の粗暴さはあるかもしれないが、腐っても大国を統べる王なのだろう。
「では我が家に受け入れましょう。田舎臭いとはいえ手を出せる程度には整った顔立ちだ」
譲歩してこれかと、呆れんばかりの提案をしたのは、玉座にほど近い場所に立つ貴族だった。
状況的にコレが花婿になる筈だった男なのね、という感想を持ったが、それ以上は何の感情も湧かない。
それなりに容姿は整っているが、軽薄そうな表情と雰囲気が台無しにしている。今の物言いからして頭も良くなさそうだ。
「デラフェンテ公爵、言葉が過ぎますよ」
ダルトリー侯爵が外交官らしいポーカーフェイスのまま窘める。キャスリンは黙って聞いているが「何を言ってるのだろう、この男は莫迦なのか」と呆れ果てていた。
「大切な薬師を性処理道具扱いとは……」
呆れの言葉を区切るとこちらに目配せしてきた。キャスリンは少しだけ開いていた二人の間を詰め、腕を組めるほど近づいた。
「両国の条約を破棄させていただきます。食料問題はレストヴァ王国との間で解決しましたよ。では御前失礼!」
言い捨てるのと同時にダルトリー侯爵が魔法陣を展開させた。
次の瞬間には二人ともキャスリンの仮住まいだった郊外の家に跳んでいた。続いて休むことなくレイエ王国の国境手前までの転移。
「キャスっ!」
懐かしい声を聞いた直後、キャスリンの視界は暗転した。転移防止の結界を強引に破った力尽くの転移魔法は、身体に負荷が掛かりすぎる。王宮から屋敷まで二つの結界を越え、更に国境を守る結界も越えて、限界まで体力を消耗したのだった。
* * *
「――キャス!」
緩やかに意識が浮上するのと同時に、声が降ってきた。
「ふぇり、く、す………………?」
優しい記憶の中の、最愛の人の声。
「お帰り、キャス」
声の主をはっきり認識するのと同時に、一気に覚醒する。
「フェリクス! 会いたかったわ!!」
寝着なのも構わず、元婚約者に抱き着いた。
「苦労したんだって、ダルトリー侯爵やエルデから聞いたよ、お疲れ様」
「頑張ったわ! だって、帰国出来たら婚姻の許可が下りるって聞いたもの!」
デラフェンテ公爵の所業が変わらぬことをレイエ王国側が悟った時点で、帰国は一年後、スカーレットベルの球根から薬を作り終わったらと決まった。
同時に慰労の意味を込めて、国王が媒酌人となってキャスリンと、元婚約者のフェリクス――グリーンフィールド侯爵家の次男との婚姻が結ばれること、両家に隣接する王領地と爵位の下賜も同時に決まった。爵位は伯爵と叙爵にしては破格の待遇なのは今後を考えたからだった。身分を盾に無体な要求をつきつけられないようにという意味合いが強い。大陸中に有用性を知らしめた魔力風邪の特効薬は重要な資源なのだ。どれほど大切に保護しても、やり過ぎにはならないほどの最重要案件だった。
「キャスの身を傷つけられるんじゃないかって、ハラハラして待っていた。無事で良かった」
フェリクスは目を潤ませながら背中に回した腕に力を籠める。
「もう何処にもいかないでくれ」
「大丈夫、国王陛下もお約束くださったわ。わたくしたちを引き離さないって。好きなだけ領地に籠っても、社交を疎かにしても許されるって許可くださったのよ」
きっと引き籠らずに貴族の義務を果たすことになるだろうけれど、でも一介の貴族令嬢に頭を下げて詫びる国王が、二人を悪いようにはしないだろうと信じられた。
「うん、準備があるから最短で半年後になるけど、大陸一の結婚式を挙げよう。その後は領地で夫婦水入らずだ」
後を継がない侯爵家の次男と伯爵家の当主では、結婚式の規模がまるで違うから、以前の結婚準備では足りない。何より式が一年以上も遅れたのだから、当日のドレスだって作り直しだ。
「世界で一番幸せな花嫁にするよ」
「ダメよ……二人で一番幸せな夫婦になるんだから、受け身ではいたくないわ」
他者を寄せ付けない甘い空気を出しまくりながら、二人だけの空間を形成する。
様子を見に来た侍女は気付かれないようにそっとドアを閉め、そして誰も近づかないように手配した。
――スカーレットベルが辺り一面を紅く染め上げる頃、新たに一組の夫婦が誕生した。
「ようやく、名実共に夫婦になれた」
キャスリンを愛おしそうに見つめるのは、花婿のフェリクス。
帰国と同時に同居していたとはいえ、書類上は婚約者同士だった。
後に王国一のおしどり夫婦と呼ばれる二人は、国をも隔てた別れと再会を果たし、一層愛を深めたのだった。
* * *
キャスリンが帰国した七年後――
魔力風邪の流行が始まる季節だった。レストヴァ王国とレイエ王国が手を組んでガスティエン王国に侵攻したのは。
二つの国とレイエ王国はいずれも国境を接する隣国であり両国ともに大国だ。少し前までは国力が拮抗しており、戦争になれば疲弊して第三国から侵攻されるとばかりに、お互い不干渉を貫いていた。
しかしレイエ王国との関係が破綻したガスティエン王国にだけ魔力風邪が猛威を奮い、特効薬が潤沢にあるレストヴァ王国では感染が抑え込まれていた。国力に差ができるのは当然の状況だった。
「これから、激動の時代が来るわね……」
「ほんの数年で落ち着くさ」
生後数か月の子供を腕に抱いたキャスリンは小さく溜息をつく。夫であるフェリクスの膝には四歳になる娘が座っている。
予想通りガスティエン王国では貴族の子供たちの殆どが、平民並みの魔力量になった。男子よりも女子の魔力風邪の罹患者の方が魔力の減少幅が小さいとはいえ、何度も感染し、その度に魔力減少していれば、碌に魔法を使えない成人になるのは誰の目にも明らかだった。
更に悪いことに子の魔力量は親と同程度になる。後天的に減少した魔力量が子にも引き継がれる。形質が変わるからだ。第二子、第三子と子を何度も生む間に、両親が魔力風邪に感染すると、下の子はより少ない魔力量になる。
状況は悪いままだったが、大国の傲慢さのまま突き進んだ結果が今回の戦争だ。レイエ王国との国交が断絶した結果、ガスティエン王国を経由しなければ行けない国にまで、魔力風邪の特効薬が届かない結果になり恨みも買っている。
「でも……レイエ人の統治をあの国の民が受け入れるとは思えないわ」
貴族の令嬢であるキャスリンにさえ、王都の民は上から目線で対応したのだ。
「受け入れられなくても、数を減らした彼らが反抗するのは難しいだろうね」
「そう、……かもしれないわ」
夫の言葉は円満的な解決とは程遠いものだった。
栄養状態が良くなく、治癒魔法師に罹ることのできない平民の場合、魔力風邪の高熱で命を落とすのは珍しくない。そもそも体内魔力に影響が出る病気は治癒魔法が効きにくい。対するレイエ王国はレストヴァ王国から潤沢に麦やほかの作物が輸入され、順調に人を増やしている。土地を耕す農民が減り放棄された畑も、年々増え続けていたらしい。
今回の戦争の結果、レイエ王国はガスティエン王国の三分の一を手に入れた。土地の多くは報償として従軍した貴族に下賜される予定だ。残りの三分の二はレストヴァ王国が支配下に置き、終戦と同時に国が消滅している。
キャスリンの弟やフェリクスの弟は祝賀会が終わった後、下賜された領地に向かう。同じような境遇の、農民の次男や三男たちとその家族や恋人を連れて。
元々、その土地を支配していた領主たちは、後継となる子や孫が平民と変わらぬ魔力しか持たなくなった時点で、自分たちの時代の終焉を悟っているだろう。力を以て土地を追われなくても、自分たちの代で家が終わることも。
もし悟っていなかったとしても、新たな領主が来た時点で理解するしかない。彼らは土地を出ていくか、農民として生きていくかの二択を迫られるのだ。
本来、占領地を統治するのに、新たな領主に挿げ替えるのは聞かない話である。普通は貴族たちは新たな王を受け入れ恭順するだけだ。今回、余計な波風を立ててまで領主を挿げ替えるのは「魔力が少ない」の一言に尽きる。
「全てが落ち着いた頃、元のガスティエン人は残っているのかしら?」
「多分だけど、少数民族の一つとして点在して暮らすようになるんじゃないか。もっと先、この子達が大人になる頃は淘汰されているかもしれないね」
厳しい言葉だった。
しかし従軍した弟たちから聞いた話では、キャスリンがかの国で暮らしていた時と変わらず、尊大でレイエ王国を下に見る者ばかりだったというから、フェリクスの言葉通りだろうと思う。古くから住んでいた農民たちが新たに入植してくる農民たちと上手く行くとも思えないし、レイエ人貴族の領主を認めるとも思えない。
ほぅ……と溜息をついたときだった。部屋のドアがノックされ執事が手紙を持って入ってきた。
「……ガスティエンの元国王が亡くなったらしい。デラフェンテ公爵も」
手紙の内容は、因縁ある尊い身の死亡連絡だった。逆恨みからキャスリンを害そうとしているのでは、という噂を否定するとともに、その可能性ある人物の死を教えるために認められたのだろう。
「何があったのかしら?」
敗戦国の、王位を簒奪された元国王とはいえ、護衛はそれなりにいた筈だ。デラフェンテ公爵も臣籍に下ったとはいえ王弟なのだから、守られるべき人なのだ。
「夜陰に紛れて逃亡を図ったけど、押し寄せた暴徒に襲われたらしい。食べていけなくなった平民が相当数いるみたいだね。治安が相当悪くなっているようだよ」
「まあ……」
もう二度と顔を合わせたくないどころか、煩わされるのも名前を聞くのさえ嫌だったけれど、殺されてしまえとまでは思ってみなかった。意外な最後だったけれど、自分本位過ぎる人たちだったから自業自得なのだろう。
そう思うと、キャスリンは彼らを忘れることにした。妻であり母であるのだから心を配るのは家族だけで、自分を煩わせた相手ではないのだった。
新作をアップしました。10話程度の中編になります。
読んでいただけると嬉しいです。
『辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~』
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