ささら
影法師の次郎が、今一度余所殿に向かうと、門は開かれ、あの下仕へが立っていた。忌の字を書き付けた札も、とうに取り外してある。
「よう土にまろんでおりましたの」
「……」
「時を移さず贋とも覚えずは、そのものともなき法力よ」
この白子は見抜いていた。次郎は打ち物振るう腕白で、神仏を疑ひ、験力は足らず、法兄らに虚仮にさるることも多々あった。
「して、余所の方まで案内してくださいますか?」
「存疑にあらず……されど」
「されど何か? 次は鬼一口でも調伏して参れとでも?」
「そもじは、いとよう香りますな」
そこで言葉を止めると、白子は襅の裾を鼻に当てた。
「……」
湯殿の次郎は、どこか落ち着かない。豊前の霊山を出て、幾度風呂に入ったか? 女房の御前に上るのもあるが、今は穢らひを落とす呪術的な行為だろう。束ねられた草が浴槽に浮かび、得も知らぬ香が漂う。されど客人ではなく、次郎が薪から割らされた。いわんや湯巻の白子が、そばに控えているわけもない。
それにしても、湯殿では用心が先立つ。裸で寸鉄もおびていない。ここでの謀殺沙汰はよくある事だ。襲われるなら、ここを置いて他にない。
「まあ、あの女童が切りこんでくるとは思えぬ」
桶の湯を圓頂から被ると、今の今まで張りつめていた気が緩む。凝り固まった肉を揉みほぐす。ろくな合間も草履を脱げなかったので、足がすこぶる痛い。されど此度の旅は、まこと良き修行となった。師や法兄の道連れで九国を旅したことはあったが、一人で上洛したのは初めてだ。都の見聞も多く書き認めた。帰山の折には皆の知識となろう。山の用事半ばに、勝手に飛び出して来た咎めは避けられぬであろうが……。
「これっ! 太郎どのっ! いつまで湯浴みしておる、のぼせたのではなかろうな!?」
「!?」
聞けば、土壁の横木に掲げた般若の面から、あの白子の声がした。
白丁装束を着た次郎が、白子に続いて渡殿を通る。ふと横を見ると、衣替えした几帳なんども傷んでおらず、微風に揺らいでいた。白い禿はさっぱりとし、褻の襅を着る女童は、やおら歩く。
「清うなり申したな」
「お陰様です。次は禊ぎとやらを致すのですか? 野僧は先日、人の跡問いまして――」
「ほ。既に撫物で落としたであろ。あは桂にでも流したか?」
南庭の前栽はいとよう形作り、とりわけ紅葉の木が照り映える。遣水が注ぐ小さな南池から、鷺が飛び立つ。西より本殿に至ると、簀子に円座が敷かれており――
「しばしここで」
白子がチラと向き、手で示すと、去っていった。
「むう……たたが面会程度で、なぜゆえ時を要するか?」
四分はとうに過ぎしに、次郎は足を崩していた。あの紅葉の木の影も変わっている。
「こほん」
らうたげな咳が立てられたので、次郎がそちらを向くと、先の白子は袙に姿変え、果物の坏を持ちつつ、廂の奥より突い居る。次郎は、思わず姿勢を正した。坏を次郎の前に下ろすと――
「今より、ささら様が出られます。一つ、御顔の程は見てはなりませぬ」
と言い付けた。既に簾内より椿の空薫り、馥しう匂ひ出でいたが、母屋の奥から、そよそよと衣擦れの音がして陰陽家が現れた。
『なんと、上﨟めかして盛装しておる』
これが礼儀なのか定かでないが、そのような晴れ着を見まほしう思ったことはなきに、と次郎は緊張した。
それにしても、ここ濡れ縁は真晝というのに、物隔た母屋は夜の様相を呈していた。館そのものが風水だ何だと、雁字搦めに縛られているからだろう。余所の方の御顔は、御簾の奥、暗い上に扇で鼻口を差し隠していた。
「豊前が第一の霊山、彦に年頃に遊び慣ております、影法師の次郎に候。上洛の折、余所の方へ申し上げる条ありて、唐突な推参お許しください」
「この者が、せちに言うことなれば、案内したのでございます」
一段上の廂に正座する白子が、ささらが物言う前に口入した。
「謹む程にものしたまへりける、かしこまりつつ、かくおはしましたる喜びを、またなきことと存じます」
か細く、儚げな声だった。都の中心を避け、草木に囲まれた館を誂えただけはありそうだ。
「さて此度は、余所の方の取り分けております、我が法兄たる法円の条にございます。年ごろ便り交わすように見受けられましたが、年も返りぬる頃、太宰府に鵺が出まして、調ぜんとした所、返って深手を負い、今も生死の相を上下しております」
悲報到来と言う他ない。ささらは急に胸が詰まり、返す言葉もなかった。まめに御消息を下さり、濃き墨で直な文字は、あの方らしい誠実さを仄々と思わせた。怪しく悲しく気掛かりであったが、まさかこのようなこととは……。ややあって――
「御消息も絶えて久しくなれば、何となりぬる事やらむと、心ぐるしう思っておりました。法円どのがしばし夢枕に顕れ、憂の目見で消え失せにけるは、かかる事と」
ささらは涙のこぼれるを、さらぬ態にもてなして、気丈に返した。燭台の紙燭が、おぼろげに母屋を灯すので、次郎には見えなかったが、震える声は隠しきれなかった。
「余所の方との御仲、知らぬこともなけれども、我ら野僧とて法師の末端、これはとありなど詳にするはあさましと、奉らず謹んでおりました」
「わざわざの訪物し、有り難く存じる所……」
袖を目に当てる所作を見た次郎は、こは胸いっぱいになっておられる、今は罷り出づる頃よ、と思って暇申し上げようとしたところ――
「太郎さん、御戒名は?」
「は? 野僧は頂いておりませぬ。法兄が復せらるるまで、影法師とはなりましたが、まだ仮印可の身。都へ一人参ったのもそのためであります」
「いつまでのご逗留に?」
「はて。野僧は、太宰府から運上の警護を任され、京倉へ障りなく入れましたが、その代を頂いておりませぬ故、それまでは在京致します」
「臥所はいずらへ?」
「空の旅寝であります」
そこで、ささらは少し黙して、顔を白子の方に向けた。
「もなか。西の対を、みなかき払いなさい」
「すわっ? この小僧を入れろとおっしゃいますか!?」
今の今まで、聞かぬ体としていた白子が驚いた。小僧などと侮づるが、汝は俺より年下の女童であろうに、と次郎は不満だった。
「いづれの下種男ならいざ知らず、こは霊山で励む清行の法師。案ずるに及びません」
「いや案するに及びまする」
「されど、築地の崩れ見て草を抜き、遣水に詰まりたる落ち葉をかき払い、長櫃持つのも、女手では心許なく覚えます」
もなかは押し黙った。けだし館や女主人の業、つまり荷持ちや飯炊きなど、散々にこき使ってやれば良いではないか。
「さあらば」
「太郎さん、よろしうございますか?」
「は、こは願ってもなきこと。さあらば、いざ」
次郎は、頭を下げ罷り出ようとした。
「太郎さん」
「は?」
「御前の供へは、遠慮なく召し上がりください」
見れば、もながが持ってきた坏の上には柑子、甘栗、葡萄葛、結果、掻い餅などの果物や菓子が載っていた。
これが山であれば、他の法兄法弟を蹴散らしてでも、それこそ餓鬼のごと口に入れたであろう。されども、ここは女房の御前。さもしい姿を見せてはならぬと諫めた。それに、甘物に並ならぬ眼を注いでいた人が別にいた。
「こは、もなかさんが召し上がり下さい」
今まで背筋を伸ばして、涼しげな顔をしていたもなかは、にわか外の紅葉かと見間違えるほど紅く染まった。
西の対は、沙弥でもある自分には過差と辞退し、雑舎の一区切りを、僧坊として与えてもらった。
「あ痛、何をいたすか!?」
もなかの去り際、後ろを晒していた次郎は尻を蹴られてしまった。
「ほ。女性を恥ずかしめるとは、まこと徳の高い法師よの、そもじは。今よりこき使ってやるので、とう〳〵その笈を降ろして参れ」