大入道
空は一面紫に深染めされ、雲も散りばめられる。晝でも夜でもない朧げな頃合いは、怪異が起こる。入り相の寺鐘が、とこからか物悲しく聞こえる。野には一面の薄が、影法師を“こち”と手招きする。
「なんと小癪な娘よ」
次郎は舌打ちした。野辺に出没する厄介を調伏すべしとの謂だった。てっきり猪か熊の類かと思っていたが、一際大なる影が闊歩しているので、よく見ると――
「あは……大入道にあらずや」
なぜゆえあの化け物が、このような辺地にあくがれ出るにやあらん? 黒〻とした陰影が、形定まらず揺らぎ、紅に妖しく光る目が、獲物を求めている。さてはあの白子、俺を見定むる気ござんなれ。ここで怖気て逃げ出せば、余所の方に通すまでないと考えておるのだろう。
しら杖を握る手に力が入る。奴は名前の他に何も知らない。博物記を学ぶ時は、よく居眠りをしていたものだが、今ほど座学を疎かにしたのを後悔した。
「⁉︎」
次郎と目が合うと、大入道はホロロロとうつろな鳴き声を放ち、駆け寄って来る。
手合わせとなる場合、次郎の学派では、『避ヲ専ラトスベシ』と教える。相手の力量を見定め、隙を見出し、壺を突くのである。
一丈ほどもある大入道は、形を扇子に変え、叩き潰さんとす。次郎は飛び退き、地を転んで気色を伺う。あの光る目が壺か? しかし今のしら杖では、心もたない。印を結ぶにしても、あやつに験力は、こけおどしに過ぎない。
あまりにスカを食らう大入道は、喚き散らすと、直黒の旋風に姿を変え、次郎に突っ込んで来る。これは如何に? 尋常の速さにあらず。巻き込まれれば、打ち物に千度切らるるより手負いを受けるぞ。
「……?」
ふと次郎は異を覚えた。あのように凄まじう転めくが、周りの薄は相変わらず手招きしておるではないか。それに大入道が通った跡すら、なぎ倒されておらぬ。こはもしかして……?
今一度、寄せて来る大入道。今は避けずに、一打入れると……まるで初めより何も居なかったとばかりに、それは消え失せた。
その代わり、ピラと一枚の紙が舞い落ちる。手にとって見ると、紅の薄様で作った形代であった。
『太郎どの、こは川に流したも』
あの白子が書いたのであろう跡は、つたなからず細う走り書かれていた。