お酢
久しぶりに投稿できます。
めざめよ、ぐうたら。汝の使命はまだ果たされてないぞよ。『いぎりす俗物誌』
嘗て『桃蓮蘂頂』という絵巻があった。諸説紛〻とするが、著者は漢朝末期の涼州武威郡の吏、 癸穆と擬されている。もとは丗三巻と伝えるが、後の節度使晏庚禧の叛乱により、原本は燒失してしまった。
模写の一部が残っており、奥書には、女體の深淵を極めたと認められる。その文言通り、ありとあらゆる體位で身を苛まれる女性裸圖と、“阿呀狂哭聲、身子酥麻而晕倒了”など、徐龕儖の能筆を擬した詞書きが全巻に貫かれていた。
自国は勿論、越南、波斯、花剌子模、埃及、大秦まで、さらに北羅、刄狗金伊、亜厥、愞婭など、不詳の小国や民族の性事情まで網羅していたという。
そして単に女體と性技に留まらず、恋愛から結婚に至るまでの風俗、性器の截斷圖まで精細に描き、古来より学術的価値の高い資料であった。
密貿易で舶来したと思われるが、ある男がその一部を所蔵しており、無聊を慰めるために抄訳した。そうなると次は実演となるわけで、身近な女どもに手を出したのである。もとより容儀閑雅、且つ諸芸に長じる故、靡かぬはこの世で一人と評された男。紐解かれた女は皆一様に――
「紫雲たなびき、異香満ち、音楽聞え、仏菩薩が迎えに来た」
と申して、その心地よさが忘れられず艶書を送るのである。或る女など、男がはや下紐結わぬよう、鶏を全て殺してしまった。
今、或る里娘がその男の性技を受けている。絵巻から引用すると“一咄亦一咄”、身を捩りつつ極楽浄土に昇り、事了ると男に身を委ねる。
「ちっ……やっと終わったか。うるさくて寝られねぇよ」
襤褸の几帳隔てて、随身が独りごち、肌掛けを頭から被る。彼の方よりサラサラと衣擦れが聞こえ、ややあって主人が呼ぶ。
「氷魚や氷魚、起きているか? 火が失せてしまった。熊膏を持て参れ」
「……」
“なんでアタイが?”と、随身は無きに為すと、男の呻き微かに聞こゆ。
「これ〳〵、己が褥にはや戻りください」
男は優しく里娘を押し起こして、送り出した。
その朝、男は椀の水で洗顔し、櫛で整髪し、布衣を着装する。
「皺や解れはあるか? 後ろに撓は?」
「へえ〳〵いつ拝見しても、矢太郎様はみめ形優れております」
随身はまともに取り合わず。女性と競い合うように鏡を覗く男だが、旅先にかかる物はない。執拗に頭つきを聞かれ、随身は呆れた。
やがて女童に迎えられ、居間に通されると、里長が朝餉を供える。
「お手配、まことにありがとうございます」
男は慇懃に頭を下げて、随身もこれに続く。
「鄙ん飯なぞ、お口に合うとは思えませぬが……」
声うち訛る接伴の憂ひを余所に――
「この酢は、まこと美味であります。よく菜の味わいを整えて。都でも食べとう存じます」
いゝ気なモンだぜ、と顔には出さなかった随身。鄙方の食は、己が舌に合わず。生臭を消す酢は強すぎるゆえ、一口で眉根を寄せた。
「都のお人ゆえ、どれほどでお出しすればよいかわからず。もう少し、弱めれば――」
「ときに、お孫さんはいかがなされた?」
飯は用意されていたが、其の人はいなかった。夜に矢太郎が抱いた里娘である。
「恥ぢているのか、いくら呼んでも籠り居て出てきませぬ。『只今』と応えるばかりで……」
と決まりが悪そうな顔をする里長。
昼頃、この男の望む所叶って、酢作りを見た。遥かに望む奥羽山脈は青〻とし、貴重な清流を酢の料としている。三人の前には、黒塗りの大きな亀ヶ岡壺が整然と並ぶ。
「これは壮観な」
「壺畑と申します」
汗ばむ里長の酢語りを聴きながら、身近の壺を触ると、人の肌ほど温かい。
「先に仕込んでいたものは、数年にかけて発酵いたします」
「ははあ、どうりで〳〵」
都のは“経旬為醞、並限四度”であり、作り方から違う。そして、仮に都でこのやり方を真似ても、同じ風味は出せまい。
「やはり道に迷うのも、悪くない」
里へ戻る道すがら、矢太郎は満足げに言った。全国から特産品は入ってくるものの、この美酢は初めて口にした。旅の目的にあらねど、辺地の知らぬ物を知るは、なんとをかしきことか。
「からさけの――」
と旅の日記代わりに、歌を考え込む男。そこに恥ずかしがりのホトトギスが鳴く。
ふと横を見れば、里人らが野良に出て、横一行となり腰を曲げている。さあれと、田植ゑ唄も聞こえず、その顔は一様に暗い。こはいかに? あれなる美酢はその苗から為るに、人〻の気があの酸味を出だしておるとでも言うのか? そして先程の壺に、それ〴〵女子の名が刻まれておったのも気掛かりだ。持ち主というわけでもあるまいし。
「やよ里長! そげなとこさ! 雨が、雨が降っただ!」
そこへ鄙びたる調子打上げて、里人が足着かぬほど走り来る。それを聞いた里長は血の気が引いた。
「なんとっ! して、どこさ降っただ?」
「……」
沈痛の態を見せる里人から察したのか、その老人は男と随身を捨て置き、駆け出した。既に里人がわゝしうなる中、里長が掻き分け〳〵するに、こは奇怪な、夏晴れというに、己が家にのみ降っているではないか。里長は、目も眩みて口だに利けずその場に座り込んだ。雨は天日に反射し、小さな虹を作った。
日没後、居間に胡座をかく人〻。外からは蛙の鳴きが入り、里長の孫娘とその妹は襤褸の几帳隔てて、啜り泣く。そして家屋には、祝儀を持った里人が来と来。酢の見学で見た無名の亀ヶ岡壺も置かれた……。
客人の矢太郎と氷魚の前には膳が据えられているが、とても箸を取る気にはなれず。沈黙を破り、里長に問う。
「げに憂きお答になりますが、事故を」
「……この地は神代より旱うち続いて五穀なりません。と申しますのも、土着神たる雨返様が、寝起くと雨を奪うのです。それを頂く見返りに、里から少女子を嫁がせるのが習はしとなっております。げに無残なりとて、年寄りが行きましたが、既娘はお気に召さないようで、食われども雨は貰えません。男では返って怒りを買い、次の年まで雨を取り上げられる始末であります」
「人身御供か……世にけしからず」
孫娘が泣く由申しければ、男は独事言い、眉間に皺寄せた。
「晴れなれど、我が家にのみ雨が降るのをご覧になったでしょう。あれこそ、今年はその家から嫁を貰うという、告げ遣り雨なのです。わたくしの孫は、既に松風と名を頂き、雨が降る前に胆沢公へ奉公に出す胸でしたが、なんとも口惜しいことになりました……」
「宜」
だから昨晩、あれなる女子は、心中に秘めて抱いてくださいましと、僕に懇願したのか。さあらばいかがせん、と几帳の方をチラと見遣る。
下心地適って、今や生娘ではない松風が駄目なら、あどなき女童の日向を差し出す他為べき方ない。孫娘二人は相抱き合い、泣き声は増すばかり。松風は贄を妹に押し付けたとし、幼き妹はにわかの嫁がねとなり、はしなくも事悪くなったのである。
やがて目を泣き腫らした二人が出てきて、祖父の前に出た。うち赤みたる目を伏し、並べた袖かき合衣して、震える細声で言う。
「今までお世話になりました。この上には、女同胞で雨返様に嫁ぎ、雨を頂きます」
「それはいけない」
里長が絶句する中、気の毒な娘たちを哀れんで見ていた矢太郎がピシャリと言い切った。
「余所人の分限で、げに差し出がましいのをお許しください。僕には、雨返様とやらがいかなる神か存じませぬ。ただ、魃や蝗の類に、相構えて多く得させてはなりません。以往、二人の女子の名を彫る事になりましょう」
「では、どうすれば……」
老人と孫娘二人は抱き合い、降る涙すら一つとなる。矢太郎は氷魚をさと見遣る。
「ア、アタイは御免蒙るぜ! ていうか、そもそも里の者じゃねーし!」
「和御前の肉は筋張って、とても食えたものではないか……」
倩〳〵案ずるに、やはり日向が、行くしかないのか。年は十あるかないかのらうたげな少女が食わるるえ避らずとて、この非拠捨て置くべき事能わず。矢太郎、迷いに迷う旅路とて、かかる天命あるか……。
「里長どの。この奇習に人〻は同じておりますか?」
「さもさうず。祖先はいざ知らず、娘を奪われた親どもの心中をお察しください」
孫娘二人も無言で頷く。
「よろしい。ここは僕が預かりましょう。今より結納の催いを。氷魚と日向も行きなさい。松風、そなたには話がある」
夜も白む頃合い。月が雲間より仄めき、里から離れたブナの湿地に、蛙がギコギコと鳴き響む。大なる沼に、雨返がおわすと伝える。
蓙に、白衣を着た女子が座り啜り泣く。綿帽子を目深く被り、その顔は埋づもれる。数珠を押し揉み、鳴き声に混じって読経している。蓙には、竹玉、米、酒、熊肉等が供物とされ、弓と矢も置かれている。風もないのに、松の火が打ち消えた。
時刻も回さず、沼が泡立ち、いとよう肥えた醜蛙が歩み出ず。大なる口を開けると、蓙の女子を丸呑みにしてしまった。短い手足で引き返す途中、その大蛙は身を捩り苦しみ、たまらず窶していた矢太郎を胃ごと吐き出した。
「やれ〳〵。なか〳〵割れず、難儀したわ……」
胃液にまみれながら、懐に忍ばせていた土器の破片を捨てた。里の強酢が入っていたのだ。大蛙は、沼の濁水を掬い、手を擦って内臓を洗う。
未だ矢太郎を女と見るのだろうか、その大蛙は今一度、粘性の舌を出す。容づくり、女衣を着て、念押しに女の汗も浴びるため、松風とさん〴〵に交わっていたのだ。
「人を助けてこそ、神と言へ。人を害しては――や?」
破魔矢をつがえ、荒木弓を引き絞ると、ひしと鳴り丁と折れてしまった。
「さこそはあらむずれ。あいなき節弓かな」
「あぶねぇ!」
大蛙が矢太郎を押し圧さんとする所、ブナ林から辷るように走り出きた氷魚。そのまま、主従共に倒れ込む。矢太郎は、事無げに言った。
「何をしておる? 和御前を召した覚えは無い」
「烏滸者っ! 主人を見殺しにする随身がいるかよっ! 立てっ!」
跳ね起きた氷魚は、のそのそと歩み寄る大蛙に、苦無を投げるが、ギコギコと脹れて弾かれる。しからばとて、輕捷に大蛙の背に飛び乗り、小さ刀“早蕨”を振り立てんとするも、油と厚う柔膚よりすっぽ抜け、沼に落としてしまった。加えて、足元おぼつかなく、自らも沼に落ちた。
「……こは頼もしきお転婆よ」
矢太郎は、水飛沫を尻目に大蛙に向かう。
「あへん。では、今一度申し渡そう。人を助けてこそ神と言へ。人を害しては怪と言う」
そして、自ら蛙の口元へ飛び込み、手に持った破魔矢を舌に刺した。あら奇《くす》し、大岩のごとき蛙は唯の蛙に戻ってしまった。
「今より蛇に食われる恐れ抱きて生きのびよ」
矢太郎が破魔矢を抜き、手で遣らふと蛙は慌てて沼に飛び込んだ。
馬上の矢太郎と口取りの氷魚を、里人総出で見送る。馬には餞がたくさんぶら下がっている。
「お達者で!」
里長は、神殺しをしでかしたかと畏れ慄いたが、さもあらずと納得し、孫娘が逝かずにすむと知り涙を流した。その二人も言わずもがな。雨返の食欲を鎮めたと知れ渡り、里はにわかの祭りとなった。しかし矢太郎は、“長居は無用”とて、日が登った頃合いに出立を決めた。
「これで良かったのか?」
「何がだ?」
「娘は済われたが、旱はどうなるんだ? 蛙ごときが天を動かしていたとは思えねーんだが?」
「それは、僕にもわからぬ。仮に雨が降らぬ時は、あの者らの自助努力よ。山を切り開いてでも引すであろ」
氷魚が後ろを振り向くと、皆がいつまでも手を振っている。
「――ほととぎすなく うまあじの またかえるとて なごりのすかな」
今更ながらできた歌を、懐紙にさと書きつけるのである。
「さて次は音に聞く衣川を見ん」
矢太郎は振り返るとこなく、既にまだ見ぬ景色に想いを馳せる。路端にある苔むした蛙の石像もまた二人を見送るのであった。
続きはまたしばらくかかります。




