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かげほうし  作者: 海堂ユンイッヒ
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もず

「南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀……」

 次郎は黒木のずゞを押し揉み、古い板床にすゑ奉った持仏に礼拝(らいはい)する。後ろで、()る男も続いて手を作る。二人の傍には、白装束を着た老女が、安らかに眠っていた。死臭は名香によって覆い被されている。やがて次郎が読経を終え、男の方に振り向く。

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 男は喜び泣く。次郎は持経を折り畳み、持仏を絹に包んで、(おい)に仕舞う。

「これで母も来む世の慰めになるでしょう」

 次郎が余所殿(よそどの)から市中へ帰っていると、この男に呼び止められた。死人が出ると、庶民は回遊中の僧に読経を請うのはよくあることだった。

「これは、わすかばかりですが」

 二つの掌で、巾着が差し出された。しかし、次郎は受け取る気になれない。正面は柱の数で三間、月も見えそうな切妻造、隙間風吹き荒ぶ板壁、そしてこの母親を見るとそう感じた。

「これより荼毘(だび)に付すなど用入りでしょう」

 男の指を取り、巾着を握らせて押し返した。本当はこの銭で、雉か鴨の(きたい)でも食いたかったのだが。次郎の慈悲に、こは權現の御(たす)けと、男は泣いて喜んだ。その時だった。

「おじゃまするよ」

 ゼイゼイと息を切らしながら、女が土間に入ってきた。酷く身が肥え、(しゝ)余っており、(まかたち)の女が肩を貸して歩くのがやっとである。男は気色を一変させて、顔面蒼白になった。

「金は工面できたかい? そのざまだと、まだみたいだねぇ」

 女は、目の前に額ずいてわななく男を蔑んだ。次郎に渡そうとした巾着を、今度はこの女に差し出す。稗がそれを受け取り、顎が首に埋もれている女主人に手渡す。銭がいかほど入っておるのか、その重さでわかったのだろう。

「これじゃ、間銭(あいせん)も払えないじゃないか」

「申し訳ありませぬ、まことに申し訳ありませぬ……」

「お前さんが出違わないのは大したもんだ。けど、土下座にはもう飽きた。いい加減に、券を寄越しな。そうすれば、貸金は全てちゃらだ」

「そ、それだけはご勘弁を」

「だったら、さっさと用意せんか! 次は若いモンを引き連れて、差し押さえの黒木はおろか、この家ごと(こぼ)ちまうよ!」

 低く濁った大声が、家中に響く。余りの怒りに咳き込み、横の稗が、瓢箪(ひさご)の水を女主人の口に含ませた。

 次郎はコトリと音も立てず、まるで間際になき態。あの男は、肝を身に添わせず慄いている。今まで何度も、野分(のわき)が去るまで、あのように物言わず伏していたのだろう。この高利貸しが男だったら、首を地に着け手を擦る男を、散々に痛めつけていたに違いない。だが女で、しかもあの体ではろくに動けぬと見ゆる。しばしの沈黙後、稗が、女主人に耳打ちする。

「……ん。そうだね、こんな所で油売っているわけにはいかない。いいかい、約の日までに、きっちり用意しておくんだよ!」

 そう言うと、苦労しながら戸口から去った。

「あは借上(かしあげ)ですか?」

「醜態を晒し、お恥ずかしい限り。召し物の色から、もずと呼ばれています。元は遊び女でしたが、昨今七条わたりに高利貸しをはじめとして、あくどい商売で幅を利かせております。私はそのようなものに手を出したくなかったのですが、母の命にはかえようもなく……」

 次郎は眠る老母を見た。医師(くすし)を呼ぶために借りたのだろう。

「券とは?」

「母は大原女で、薪を頭に乗せ京中に(ひさ)いでおりました。その近傍に黒木を採る外山があって、それを他の女と共有する土地券でございます」

「なるほど、話が読めました。その利権文書を、もずとやらに渡したら最後、一晩で禿山になる。そういうことですか?」

「大原女はもちろん、生木を蒸し焼きにしている私どもも行き場を失います。黒木を独占しようものなら、代を法外に吊り上げるのは一定です。私の命に代えてでも、券は渡せませぬ」

 借金を催促をされても、決して(ともがら)を売るまいという気骨に、次郎は心を打たれた。しかし次郎には術なし、せめて母を弔うことぐらいだった。


 西の化野(あだしの)。美しき夕日が老女を運ぶ一行を影にする。次郎が念仏を唱えながら先導し、黒木の息子が筵に包んだ母を背負う。それに続くのは、近所の者と大原女たち。

 誰も彼も沈黙を守り、ただ落涙する他ない。最後に老女の顔を見ると、夕陽のおかげで土色だった顔が、生きているように照り映えている。

「今一度、生きている姿を見ばや」

 その願いが仏に届いた心地して、息子や大原女たちは喜んだ。頂いて来た黒木を焚べ、炎と共に見送る。風もないので、煙は(はるか)に天上り、やがて雲と交わる。

「卒塔婆のようだ」

 見知らぬ人の兎角のことであったが、次郎は夕べの煙にみほれていた。ちょうど日の入る頃合いで、その入る所は西方浄土である。

「いつか私も母に追いついて、物思わずに過ごしたい」

 そう黒木の息子は夕陽に向かって拝んでいた。

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