歌
宛も函谷の如く、西には高山が隣り、東には長途を望む。南北には同い峯嶺が連なる。空は濁り、晴れ間も見ぬ程降っている。
ここ衣川の北柵は、官軍が無血占拠した。安大夫の居館は燒失したが、政庁や兵舎などはそのままである。
領首が討たれ、その本営も失った陸奥六軍は、いよ〳〵再起能わずとし、残らず厨川の柵へ北げた。寡なる将軍の計略が、功を奏したのである。
次郎は武器廠にいた。官軍の弓師や塗師などが、弦巻や漆など接収する中、具足師の前で、挂甲一領を纏っている。ブカブカで全く身に合っていない。その男は呆れて言った。
「陣替えでもするつもりか?」
「いや、野僧は腹巻すら好みませぬ。ただ、この古式具足は、九国では既に見ないものでして、手足の具合や壺を知っておきたいのです」
と、肢体を動かす次郎。
「そは大鎧の雛形で、簡素で装飾も凝っておらぬ。ああ、そのように胴丸式に合わせるが、雑兵なんどは裲襠式でな」
「では脇や腹を突けばよろしいか?」
「左様。脇板や腹当の板をしておらぬなら」
「この蕨手刀は尺短で、野僧の背丈には合っております」
そして次郎は外へ出た。冷風一陣、鎧でさえ寒さ防げぬと身を縮めた。兵舎の前を通りかかると――
「あれに見えるは菊池宮殿ではないか?」
あの吏官は武蔵者を一行に立たせ、国の風俗歌を吟じさせている。横には別の役人もいて、聞書きしていた。
「どうした? 声が弱〻しく、上擦っておるではないか?」
「役人様……こは野良ついでに歌うモンでありまして、人様に聞かせるンじゃありません」
恥ずかしげな武蔵人が、白い息を吐きながら抗う。菊池宮は、次郎の異装に驚きつつも事訳を言う。
「いやはや、私は万葉の東歌に疎いのです。小僧様のご指摘で、つら〳〵考えると、この者たちから歌心を見出せないかと思いまして」
記録の役人は既に厭飽の態を隠さない。耳慣れぬ鶏声を難儀して書き取り、後で都の言葉にするのだから。当然、これら鶏らは仮名すら書けない。
「貴方もお聞きになりませんか? 地域ごとに、歌詞が異なることもありますが、どれも母や妻には敵わないという点は一致しており、大変興味深い」
「いや、野僧は雪掻きせねばなりませんので。しばし〳〵」
次郎は遠慮して立ち去った。あの武蔵者たちも、雪乱れ降る寒空の下、歌わされて傍迷惑であろうに。
「申し上げます。星羅より、小松の柵を抜き了んぬと報告あり。また大麻生野及び瀬原の柵も攻略半ば、鶴脛、鴨の二柵にも責めかかる整いが進行中であります」
庁舎で府務を熟す将軍一義は、口五と肯ず。令髙めが、頸こそ差し出したものの、肆に駒を進めおって……。去り迚も、坂東の勇者らは、賊徒に押付を見せるを思わず、故郷を再び見ず斃れ亡びた者多し。恨むらくは、我が長男仁義さへも……。
「橇と牛に当たりては如何?」
「雪橇の目処は立ましたが、牛の方はどうも……。終戦を見据えた百姓どもが手放したくないようで」
「徴発にあらじ。借り上げの態で、亟やかに蒐めよ。更に拒めば、吏を立てて借用証文を出し、請人は一義とせよ。代は物品で支払い、用度料、損料も我が立てい」
外を見遣ると夜半。今も雪すさまじく降り、土なんどは凍りたる様である。
「今日は芋煮か……」
兵舎にて、坂東の士卒らと群居する次郎。こんな寒夜には、熱〻の汁を啜るに限る。まあ東国の塩辛い味噌には、未だ慣れないが……。或る男は、熱燗を容れて暖をとる。
「おお、さむ〴〵。もっと焚べろや」
「聞いたか? ここは、ほんの腰掛けらしい。すぐに北征となるぞ。橇に舂米が積まれておる」
「いやさ肝心の牛がおらんがの」
「御大将は何をお考えなのやら。戦は北山の俘囚長に任せればよかろうて。我らには他人事よ。物見は半刻もせず帰ってくるし、夜警は安寝しておる」
「をこ者。だから将軍は、軍功を立てさせるために進むのであろうて」
「しかし、人も少のうて、いかに立てれば良いかの」
寒風が兵舎の中にまで、飛び込んで来る。明日から底冷えぞと、誰もが肌で感じた。
「ときに味噌坊。お主は、あの御方の一太刀を避けたと風聞したが、いかに?」
「ああ、危うく骸となるところだった」
次郎は頸の瘡蓋を見せつける。者どもは驚嘆の声を上げた。将軍は疑敷者を直に召し出し、自ら刎ねるからだ。
『彼の一太刀、此に戯れし而已』
後日一義はこう次郎に言ったが、侍大将には――
『あの小僧に目離つな』
と言いつけていた。もとより他所者の小僧で、しかも役人の腰巾着となると、良く見られるわけがない。しかし次郎は、これら武者どもと交わり、事にも精を尽くし、說教もした。何より武略ありというのが、無教養者らの心に響いた。
「弓は何人張りか?」
「いや、野僧は太刀はともかく、弓と馬はやらぬ身」
と次郎は答える。一見、唯の小僧であるが、あの逸話を聞いた後では、小兵ながら武威を馴染ませていた。
その折、別の武者の一人が兵舎に駆け込んで来た。しげく雪降る外を指差し――
「やよ人〻。あの役人がお出ましぞ!」
「なに? 東国の童歌までも聞き回っておる奴か。飯時の面倒はご免被るぞ。そら寝してやり過ごせ」
武者らは、皆一様に入り口に背いて横になる。すぐに書記を連れた菊池宮が戸を跨ぐ。
「挂甲殿……これは面妖な。寝よとの鐘も聞かずして、こぞって横になるとは」
独り黙〻と芋煮を啜る次郎に、菊池宮は問う。
「貴方の足音が、その鐘に聞こえたのでしょう」
「ふぅむ。今宵は殊に冷えるので、酒を温めて持って来たのに……」
人〻あやしと思って寝て聞けば、あの吏官は酒と言う。やがて、えも言われぬ香りが鼻をくすぐる。
「無理に起こすのも忍びない。ではこの酒は、別の兵舎に――」
「えいっ!」
と、酒癖の悪い男が痺れを切らして起き上がる。菊池宮はしたり顔で続ける。
「よし〳〵。ではこの酒樽は、お主独りで空に致せ。但し、歌ってもらうぞ」
「すわっ! それはあんまりであります役人様!」
他の武者もたまらず起きだす。次郎は、呆れること限りなかった。




