熊
次郎は、里家の柱に縄で括りつけられている。住人と山立らは、囲炉裏を囲んでいる。
「寒か寒か、今日ん夕飯も冷た芋煮か」
「全く恨めしい。星羅どもは、我慢できず、飯を炊ぎ始めおった。あはイタズを招くようなものぞ」
閉じた戸や蔀より、えも言われぬ姫飯の香りが入ってくる。なぜゆえ、山の人が念じて、余所者が好勝手しているのか。
「はっ、むしろ熊にやられてしまえ」
「痴者。熊が来れば、俺らとてただではすまぬ」
心疾しう、碗の芋煮を啜る人〻。
「ときに、是則はいづらに?」
「跡見だべ。隣里で、真新しいのが見っかったそうな」
話の輪に入らない次郎は、沈黙を貫くが、手首を上手に動かして、背に結われた荒縄を緩ませる。
「ハックショイ! おお、くさめくさめ……」
思わず嚔りて鼻水すすると、里人や山立は、囚人のごと括り付けられている小僧を思い出した。不憫に思った一人が、匂いが漏れぬよう温めた木の実酒を差し出した。
「ほれ坊様、飲みたまへ。体が温まる」
「いや、酒はちと……」
「こは弱くて酔わねえよ。今夜は冷え込むべ。ささ、一杯だけ」
「むぅ」
里人に徳利を差し出され、次郎が口をつけた途端、陣鉦が鳴った。一同に緊張が走る。あの乱打は急を要するに違いない。
「なんぞあは?」
「星羅の陣所より聞こえる」
山立二人は、飛び出して行く。残された里人らは右往左往するばかり。
「今すぐ人を集めて、蔵に籠れ。内より戸を固く閉じて、野僧が挨拶するまで、決して外に出るな」
「し、しかし坊様は……」
「我が身はなんとかするから、早や早や急げ!」
里人らも、一目散に駆け出した。我が身はと言ったものの、柱の後ろ様に両手を縛られておること固く、容易に解き放くこと能わず。
「あのをろか者め、きつう縛りおって……!」
独りごちて、是則を罵った。いつの間にか、陣鉦の乱打は止んでいた。しかし、揺すり満つ人〻の声や叫びは、増すばかり。
そこへ星羅の兵卒が駆け込んだ。閂すら無いので、二人がかりで押し止める。時を置かず、およそ人にあらぬ低い唸り声と共に地が揺れる。
戸は開くどころか、土壁ごと毀たれ、大なる全體黑色が押し入った。
「あれなる獣が熊か! 絵巻で見たのとは異なる!」
武者の一人は逃げ惑えど、足疾き大熊は、事もなく掴裂て喰ふ。こはいかに? 佰貫近うあれど、あの足捌き。喚き散らす別の武者の前に立ち上がると、拾一余尺もあるではないか! そのまま殴ると、武者の頸上は、豆腐のごと砕けた。
熊は尸となった武者に喰らいつき、頭を振って肉を挽き裂くものの、食いつきは悪い。寧ろ、先ほどまで人〻が食っておった芋煮を食い散らかし、木の実酒を舐める。
『人よりも人が食うものを好んでおる……』
次郎は息を潜めて見守る。そう言えば、先日の星羅の陣がやられた時も、軍粮がひどく食い荒らされていた。
ともかく、熊が気付かぬ内に、背の柱に縛られた荒縄を放かねば、俺の命も危うい。もう少しで手首が抜けそうなのだが……。
その時、床を嗅ぎ回っていた熊と次郎の目が合う。熊は唸り声を上げて、次郎に突進する。
「いかん!」
咄嗟に消陰の印を結んだ。家内に眩いばかりの光が満ちる。手は結ばれて使う能わず、ゆえに足の指をもってしたのだ。
山にいる頃、仏に供える白玉を盗み食うた咎を受け、今のように柱に括り付けられた時、足指で印を結んで、法兄弟を驚かせていた。
熊は刹那の劇光に目を潰され、のたうち回る。その時、仏の加護にやあらん、次郎の手首の縄が解けた。偶然立て掛けてあった“こう鋤”を手に取った。手力込めて叩きつけるも、熊の毛甚だ深く皮も厚く、害すること得ず。
幻惑が消えると、熊の眥は高く擧がり次郎を捉える。まさに剛猛と言う他無い突進――當るべからず。
「いかがせん……避けの間際に一打くれてやりたいが、尺短ゆえ、迂闊に近寄れぬ」
あの爪牙にかかれば、あの世行きは一定よ。では逃げるか? 俺はできるが、そうなると此奴は、里人を殺し回るであろう。かと言って、立てば俺の倍はある背丈に、あの貫量に似合わぬ身のこなし。手の内なる“こう鋤”では心許なし、印を結ぶにしても、時間稼ぎにしか――
「そもそも、結ぶ暇すら無いか!」
こは勝ち目無し! と思うて、いかにすべきか迷っていたら――
「しやつめ、見つけたりっ!」
ここに、熊の足跡を辿ってきた是則が飛び込んできた。熊と相撲を取るかの如く、その肥勁な背に飛び乗り羽交にせんとす。身を捩って振り落とさんとする熊に、次郎は一撃の機会を見出そうとするが、あまりにも大なる体躯と長き手足で、先が読めず。
「すわっ!」
やがて、是則は振り解かれ、尻餅を突いている間に、二寸余の爪で、顔を刺されてしまった。
次郎は、差し違える覚悟でつと走りより顔の外邊に“こう鋤”を打ち入れたが、返って挫いてしまった。
熊に片目をぶっ刺され、大の字に打ち返る是則。夥しい失血で、手足も我が物と思えず、魂もうつつない。嗚呼、あれなる大熊に独り相手せんとは、なんたるをこよ。
かろうじて首を傾けると、なんと山姫が頭元に座していた。意識朧〻ながら、まこと微妙の見目形である。
「山姫様、申し訳ね。深江是則、山守なれど、“穴持たず”もフジカフも懲罰能わずして、貴女様の元へ参ります……」
息絶え絶え申し上げると、山姫は柔和な顔ながら、掌を上げて招き制した。
「何をおっしゃいますか。ワシは眼を彫られました。もはやマタギは無理です、憎しや憎し、穴持たず……フジカフ……穴持たず……フジカフ?」
熊がその太うたくましい腕を振り上げ、次郎を掻き殺さんとした刹那、振りおこした是則がつと寄り走り、熊の額を窺って、拳も通れ〳〵と山刀を突き入れる。ドス黒の血が迸ると、熊は絶叫し、土壁を突き破りて奔ったが、積雪に血の跡を残し、やがて力なく殪れた。
自らのと熊の血を浴びた是則は、肩で息をしつつ――
「不持孔、討ち取ったり!」
と大音声上げて、熊の上にまた殪れた。
底冷えの中、降りみ降らずみの雪が、俄に吹雪となり、疲れ極まった次郎の肌皮を激しう打つ。熊を害せば、山かならず荒る事あり、山の人これを熊荒といふ。




