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かげほうし  作者: 海堂ユンイッヒ
31/45

 次郎は、里家の柱に縄で括りつけられている。住人と山立らは、囲炉裏を囲んでいる。

「寒か寒か、今日ん夕飯(ばんげ)も冷た芋煮(えもこ)か」

「全く恨めしい。星羅どもは、我慢できず、飯を(かし)ぎ始めおった。あはイタズ()を招くようなものぞ」

 閉じた戸や蔀より、えも言われぬ姫飯の香りが入ってくる。なぜゆえ、山の人が念じて、余所者が好勝手しているのか。

「はっ、むしろ熊にやられてしまえ」

(をこ)者。熊が来れば、俺らとてただではすまぬ」

 心(やま)しう、碗の芋煮を啜る人〻。

「ときに、是則(これのり)はいづらに?」

「跡見だべ。隣里で、真新しいのが見っかったそうな」

 話の輪に入らない次郎は、沈黙を貫くが、手首を上手に動かして、背に結われた荒縄を緩ませる。

「ハックショイ! おお、くさめくさめ……」

 思わず(はなひ)りて鼻水すすると、里人や山立は、囚人のごと括り付けられている小僧を思い出した。不憫に思った一人が、匂いが漏れぬよう温めた木の実酒を差し出した。

「ほれ坊様(ぼさま)、飲みたまへ。体が温まる」

「いや、酒はちと……」

「こは弱くて酔わねえよ。今夜は冷え込むべ。ささ、一杯だけ」

「むぅ」

 里人に徳利を差し出され、次郎が口をつけた途端、陣鉦が鳴った。一同に緊張が走る。あの乱打は急を要するに違いない。

「なんぞあは?」

「星羅の陣所より聞こえる」

 山立二人は、飛び出して行く。残された里人らは右往左往するばかり。

「今すぐ人を集めて、蔵に籠れ。内より戸を固く閉じて、野僧が挨拶するまで、決して外に出るな」

「し、しかし坊様(ぼさま)は……」

「我が身はなんとかするから、早や早や急げ!」

 里人らも、一目散に駆け出した。我が身はと言ったものの、柱の後ろ様に両手を縛られておること固く、容易に解き()くこと能わず。

「あのをろか者め、きつう縛りおって……!」

 独りごちて、是則(これのり)を罵った。いつの間にか、陣鉦の乱打は止んでいた。しかし、揺すり満つ人〻の声や叫びは、増すばかり。

 そこへ星羅の兵卒が駆け込んだ。(かんぬき)すら無いので、二人がかりで押し止める。時を置かず、およそ人にあらぬ低い唸り声と共に地が揺れる。

 戸は開くどころか、土壁ごと毀たれ、大なる全體黑色が押し入った。

「あれなる獣が熊か! 絵巻で見たのとは異なる!」

 武者の一人は逃げ惑えど、足疾き大熊は、事もなく掴裂て喰ふ。こはいかに? 佰貫近うあれど、あの足捌き。喚き散らす別の武者の前に立ち上がると、拾一余尺もあるではないか! そのまま殴ると、武者の頸上は、豆腐のごと砕けた。

 熊は尸となった武者に喰らいつき、頭を振って肉を挽き裂くものの、食いつきは悪い。寧ろ、先ほどまで人〻が食っておった芋煮(えもこ)を食い散らかし、木の実酒を舐める。

『人よりも人が食うものを好んでおる……』

 次郎は息を潜めて見守る。そう言えば、先日の星羅の陣がやられた時も、軍粮(ぐんろう)がひどく食い荒らされていた。

 ともかく、熊が気付かぬ内に、背の柱に縛られた荒縄を()かねば、俺の命も危うい。もう少しで手首が抜けそうなのだが……。

 その時、床を嗅ぎ回っていた熊と次郎の目が合う。熊は唸り声を上げて、次郎に突進する。

「いかん!」

 咄嗟に消陰の印を結んだ。家内に眩いばかりの光が満ちる。手は結ばれて使う能わず、ゆえに足の指をもってしたのだ。

 山にいる頃、仏に供える白玉を盗み食うた咎を受け、今のように柱に括り付けられた時、足指で印を結んで、法兄弟を驚かせていた。

 熊は刹那の劇光に目を潰され、のたうち回る。その時、仏の加護にやあらん、次郎の手首の縄が解けた。偶然立て掛けてあった“こう鋤”を手に取った。手力込めて叩きつけるも、熊の毛甚だ深く皮も厚く、害すること得ず。

 幻惑が消えると、熊の(めじり)は高く()がり次郎を捉える。まさに剛猛と言う他無い突進――(あた)るべからず。

「いかがせん……避けの間際に一打くれてやりたいが、尺短ゆえ、迂闊に近寄れぬ」

 あの爪牙にかかれば、あの世行きは一定よ。では逃げるか? 俺はできるが、そうなると此奴は、里人を殺し回るであろう。かと言って、立てば俺の倍はある背丈に、あの貫量に似合わぬ身のこなし。手の内なる“こう鋤”では心許なし、印を結ぶにしても、時間稼ぎにしか――

「そもそも、結ぶ暇すら無いか!」

 こは勝ち目無し! と思うて、いかにすべきか迷っていたら――

「しやつめ、見つけたりっ!」

 ここに、熊の足跡を辿ってきた是則(これのり)が飛び込んできた。熊と相撲を取るかの如く、その肥勁(ひけい)な背に飛び乗り羽交にせんとす。身を捩って振り落とさんとする熊に、次郎は一撃の機会を見出そうとするが、あまりにも大なる体躯と長き手足で、先が読めず。

「すわっ!」

 やがて、是則(これのり)は振り解かれ、尻餅を突いている間に、二寸余の爪で、顔を刺されてしまった。

 次郎は、差し違える覚悟でつと走りより顔の外邊(がいへん)に“こう鋤”を打ち入れたが、返って挫いてしまった。

 熊に片目をぶっ刺され、大の字に打ち返る是則(これのり)(おびただ)しい失血で、手足も我が物と思えず、魂もうつつない。嗚呼、あれなる大熊に独り相手せんとは、なんたるをこよ。

 かろうじて首を傾けると、なんと山姫が頭元に座していた。意識朧〻(ろう〳〵)ながら、まこと微妙(みみょう)の見目形である。

「山姫様、申し訳ね。深江是則(これのり)、山守なれど、“穴持たず”もフジカフも懲罰能わずして、貴女様の元へ参ります……」

 息絶え絶え申し上げると、山姫は柔和な顔ながら、掌を上げて招き制した。

「何をおっしゃいますか。ワシは眼を()られました。もはやマタギは無理です、憎しや憎し、穴持たず……フジカフ……穴持たず……フジカフ?」

 熊がその太うたくましい腕を振り上げ、次郎を掻き殺さんとした刹那、振りおこした是則(これのり)がつと寄り走り、熊の額を窺って、拳も通れ〳〵と山刀を突き入れる。ドス黒の血が迸ると、熊は絶叫し、土壁を突き破りて(はし)ったが、積雪に血の跡を残し、やがて力なく(たお)れた。

 自らのと熊の血を浴びた是則(これのり)は、肩で息をしつつ――

不持孔(穴持たず)、討ち取ったり!」

 と大音声上げて、熊の上にまた殪れた。

 底冷えの中、降りみ降らずみの雪が、俄に吹雪となり、疲れ極まった次郎の肌皮を激しう打つ。熊を害せば、山かならず荒る事あり、山の人これを熊荒といふ。

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