雪間
熊害の大事は、山に陣張る星羅氏の軍兵に広がった。どの一隊も、畜生なんぞにやられてはたまらぬと、急ぎ陣を閉じて、夜間の強行軍を進めた。
山立らは、山姫の加護に漏れると、夜の雪山の危険を説うたが、ことごとく無きにされた。遭難はまだ良い方で、或る隊列は丸ごと崖下に消えた。熊一疋で、山は混乱に陥りつつあった。
山家で、山立らが円居する。事態は急を要し、員季は隠居の長老まで担ぎ出していた。
「我が管区は、里人も武者もよう冷飯に耐えておる。さあれど、日に日にマタギへの不満を募らせておる」
「そは結構ぢゃないか。俺らの所は、軍兵が勝手に飯炊始めて、苛立つ住み人が押しかけた所だったわい」
「陣におとなしうしておるのはまだ良し。俺は山中で不審の煙を見たわ。山を汚す輩は、いっそのこと熊にやられてしまえ」
「はっ、どこぞのフジカフは、熊より厄介だがの」
当てつけに物申す是則に、人〻は呆れた。あれだけ完膚なきまでやられて、その口吻よ。寄り居る次郎は、頭を振った。
「ともかく山が不穏になっとるのを黙って見ているわけにはいかね。シカリ、今一度熊狩をお許しくだされ」
員季が上座の長老に頭を下げると、山立らから驚きの息が漏れた。老人は燃える焚き火を見ながら――
「はて、今年の熊頸は全て奉り、狩りの畢りを申し上げたと言うに、また殺めるとならば、山姫様は如何に思し召すことやら……」
と掠れ声でゆくり返した。
「さあれど、余所者の血で山は汚れ、山姫様もさぞ倦でおられます。“穴持たず”は、軍粮と酒欲しさに、また人を襲いますぞ」
「……」
員季は口強く、沈黙を貫く長老へさらに翻意を促す。
「シカリ、こは朝夕に迫る大事ですぞ。ひだるき熊は、次の食を待ってくれませぬ!」
「……討伐え避らずか」
負くる長老は、うなだれると若い衆に目配せし、そのまま山家を去った。
「是則。今すぐ府に、遅参を宥め請ふ申状を送れ」
「まことか? イタズも大事たが、将軍さまの召命を覆すほどか?」
「当の然よ。ワシらは坂東の人にはあらじ。どれだけ深くお仕えしようとも、禄も土地も出世も望めねぇ。畢生、この山と共に生きるのみよ」
是則は渋った。員季が言わんとすることはわかる。もし彼の大熊を仕留めたならば、大金が手に入ったも同然である。琥珀のある熊膽は、金と同価値であり、毛皮、肉、熊白など、余すとこなく売れる。マタギは無論、里人の生計が立つ。
「しかし……その膽を献上せよと命じられたら――」
「なに、オメエが隠し持ってる黑膽でも差し出せ。あは僞物ぞ。どうせ坂東者には真贋つかぬ」
「むぅ」
「もし飴膽、琥珀膽の上物が取れれば、山姫様に奉って、この無礼を許して頂けばよい」
翌日、員季は人を遣り、山立や里者を召し集めた。その頭数十余人。そして、熊狩の略儀を執り行う。
全ての男女は白装束となり、この寒さの中、川に浸って禊ぎを払う。そのまま広場まで連なり歩く。是則が恭しく前に出て、木彫りの山姫を据え奉った。人〻が二礼二拍すると、狩りの成就を祈願した祝詞を唱える。次郎には耳馴れぬ現地の古語だ。手荒な山男であるが、是則は人一倍信仰深く、最後まで合わせた掌を解かない。
幣付きの槍を、山立らの頭上に振ることで、怪我を被ることなく帰って来れるよう加護を受ける。
厳かに儀式が終わると、男たちは山具足を装ひ、犬を牽く。山家の外へ出ると、先程までの青空はどこへやら、厚い灰曇がすぐそこまで降りて、雪気も満ち満ちている。
「ほんなこつ山さ行くか? こらあ熊風吹くべ」
山立の一人が、天を仰ぎながら独りごちた。
風冴えて、雪は降り増さり、山肌は俄かに白妙を纏う。是則を先駆けとして、山男らは坂の強きを登る。獣道すらないゆえ、山刀で枯れ枝を分け進む。
「藪の深い、気ぃつけろ」
「弓は無理やろな」
「んだ。こん天気にゃ駄目だ」
吹き荒れる風では、矢道が狂い、舞い散る雪では、壺すら見えぬ。皆しだいに無口になる。深雪で脛まで埋まり、歩くだに困難になる。
「いかに坊様?」
或る山立が、次郎を振り返る。
「なんのこれしき」
雪重なる嶮岨な山路は、土地の者でなければ、はやくも足草臥れるのだが、辛抱強うついてくる。
山立らは、恐怖の色を見せていない。あれだけの数の武者を鏖にしたのたが、神経を尖らせて四方八方を目止む。
道中、犬がやたら吠えたてるので、いよいよ出るかと用心して進むと、掬の倒木に爪痕があった。
「蟻の巣でも暴こうとしたか?」
次郎にはようわからぬ爪痕を、まじまじと見る山立たち。
「こは足跡なり。とんでもねえ大きさだべ。十尺はあるでねが?」
「それも、行き帰り同じ足跡を踏んで、わしらを撒こうとしておる。この跡は輓近のものだべ」
素人の次郎には、山立の言う跡は、窪んだ雪の穴にしか見えない。
「よし。これより組み分けして、外〻に熊を探せや。かんじきの緒をしかと締め、用心して降れ。鹿鳴の里に参るのだぞ?」
員季が言うと、山男らは足元の紐を確かめた。雪は一層降り頻きるので、深みに嵌まらないようにするためだ。
「次郎、お主はワシとあれ」
その後、次郎は員季とひたすら山を登る。道中、雪間となり日光すら注いだ。おお、やっと吹雪終わったか、と思った途端、また吹雪く。雪山の天気ほど、読めぬものは無い。
目路は十余尺で遮れる程降り増さり、益〻雪が嵩張りつつある。これでは、熊を狩るどころか、寧ろ熊に狩られるのではないか。次郎は心細くなった。それでも、前を歩く細山立は、物言うことなく、ひたすら歩き続ける。
「やれ、野僧らはなにゆえ登っておるのだ?」
「相見える時、熊より下にいては、心許ないのからの」
「なるほど」
先導する員季は、振り返りもしない。ただ白い息が漏れてくるのを次郎は後ろから見た。槍を杖とし、ゆっくりと進む。
「しかし先より、穴の一つも見ておらぬではないか。熊という物は、冬籠りするのではないか?」
「この雪中に穴居しておるなら、どれだけ良いことか。秋に食を取れない熊は、冬が越せぬゆえ、籠るに籠れぬのだ。“穴持たず”となり、気が立ってまこと危険になる」
天気は、悪しき様相を保ち、雪の深みに足を取られるばかり。間違いなく、狩りをすべきではない。さあれど、横紙を破る員季に、山立の誰も異を唱えなかった。
片足を引っ張っりながら歩く後ろ姿から、ひた隠しにする焦りが感じられた。もし熊を見えたら、員季を見捨てて、この山を去るべし。次郎は密かに決めた。好都合なことに、今この山は混乱しつつあり、小僧一人に追手を差し向ける山立ではないだろう。
良あって、次郎はえもいえぬ人心を感じ取った。
「員季殿、あちらより神妙な気を感じるが、いかに?」
「イタズか?」
「いや、畜生の類ではない」
員季は少し頭を捻った後――
「ああ、あそこには石がある」
「石?」
二人して行くと、摩訶不思議な環状列石があった。石の柱が屹立し、放射線状に長石・丸石が敷かれている。そして、取り立て温かくもないのに、雪が溶け消えている。
「ワシらマタギは、“日時計石”と呼んでおる。長老曰く、上代――いや神代にも上る代物とかや」
次郎は、中央石柱を具に見ると、日本古来の神〻に、後代の諸仏尊、そして山立らか崇める山姫も彫られている。風化や欠損も激しいが、かすかに顔料跡が残る所もある。
やはり仏門の徒とあってか、熊狩の最中でもかような物には意に会すか……後ろで員季は呆れた。
「しかし見ての通り、ここだけは雪はおろか雨すら降らぬ不思議さよ。それゆえか里人が泥みて、ここさ来るとなぜか心が晴れかすと言う」
「一寸、酒か腊か……何でも良いから供物はあるか?」
訝し気な員季は、濁り酒と焼米を奉った。次郎は、数珠おしすりながら印を結ぶ。寒さに震える口で五岳の祝詞を唱え、神仏を讃えた。
するとどうだ、十尺先も見えぬほど激しく振り乱れていた雪が、和らぐではないか。石柱の天からは、薄ら雪間も見える。これは、信心が通じて神仏の加護なのか、はたまた山天気の気まぐれなのか……。
「何をした?」
「結縁致した。我が山では、印可を受けると遊行僧となって、国〻を巡ると申したな。それは霊場・霊跡の神仏と縁を結ためである」
「では、この雪間は利益とでも?」
「然り。ほとんど消え失せておるが、ここに“曇霽レテ 愁モ霽レテ”と和歌らしき句がある。唯、この利生が止むのは早かろう。野僧が生道心でもあるが、石柱の痛みが酷すぎる」
おそらく、放射線状の石にも諸仏が彫られていたが、風化が激しく消え失せている。
次郎が起こした雪間は、山一帯に広がった。熊狩りに臨む山立、いつ襲われるかわからぬ星羅の武者と里者に、一抹の安堵をもたらした。
しかし、組別れて熊を探すといえども、そう都合よく見つかるわけかない。短い日は西山の端にかかろうとしていた。“熊見たり”と陣鉦聴くことなく、人〻は鹿鳴の里に帰りつつあった。
「すわっ!」
或る里家に入ろうとした途端、次郎の足首は紐に搦められ、そのまま逆さ吊りとなった。
「うはははっ! こはしたり!」
罠を仕掛けた是則が、手を叩いて喜んでいる。
「やっと捕まえたぞフジカフめ! 先日はやってくれおって! 山姫様や、是則、只今恥を雪ぎましたぞ!」
ひなびたる声囂う打上げて、醜き顔を緩ませる。員季は、またかという顔だったが、次郎を助ける素振りは見せない。
「やよ員季、まづフジカフの頸を切って、将軍さまへの遅参の詫びとしようぞ」
「全く……法師を獲物同様に搦め捕らえて打首にすとは、罰当たりな奴め。今すぐ縄を解け!」
「ならぬ! こやつが、熊狩りの最中に工作でも仕掛けると思うと、わしは気になって狩りに心血注げぬ!」
次郎は呆れてものも言えない。そして、天地のひっくり返った身では、流石の影法師でも危うい。山刀拔かれれば、仏の元に旅立つ時である。
「……将軍様への申状はしたためたか?」
「まさか。昨日今日でできるわけがなかろう」
「オメエは、ワシが筆の尻取らなきゃならん。さっさと書け」
「さあらば、只今こやつを切――」
「何を言ふぞ、痴の男め。もし、小僧に指一本でも触れたなら、金輪際取ってやらぬ」
「なぜゆえ、おめえはフジカフの味方をするのだ、解せぬ!」
「それは、細作ではないからだ」
鎮守府将軍に、自らの申状と名を拝見してもらうのを喜びとしていた是則に、これは効いた。非修非学の山男には、員季の手直しが無ければ、とても読めた物では無いからだ。
「ちょっ、いかに取り入ったか知らぬが、命拾いしたな」
悔しざまに雪を踏み固めて、是則は里家に帰って行った。
「こは愚か者の悪い癖ぞ。お主が奥羽の人にあらずは分明なれど、あの痴者には弁ふ能わず。一晩縄につけ。明日の朝には、ワシが是則を言いくるめて解かせよう。疑敷者として不便蒙るのは、得心いかぬ顔をしておるが、そうでもないぞ。縄がなければ、お主も一晩中夜警に駆り出されるからの。せいぜい、黙し寝過ごせ」
と耳語を打った。員季の顔を逆さに見る次郎は尋ねた。
「もし一晩待たずして、野僧の頸を欲すれば?」
「二度の慈悲は無い。奴を殺せ」




