熊害
物見櫓の番は、夢心地醒めぬ山立に任せて、次郎は山道を巡視していた。
ここらはブナ林。つい寸刻前まで青天だ
ったが、知らぬ間に沫雪ちらつき始めると、すぐに皿ひっくり返したように降り増さる。木〻にも積もり、枝垂れる。
「降りみ降らずみ、まこと忌〻しき山天気よ」
急な寒さにわななく次郎。五体を留めておくと余計冷え込むので、足早に進む。星羅の者が、どれほど入山しようが、俺には関係無い。寧ろ、古木に生える寒茸の方が、よほど大切と言える。
しばし歩くと、川のせせらぎが聞こえた。次郎は、その河岸に向かった。日〻山立らと過ごす中、頭中で山の絵図を描いている。ことに一人で山道を歩く時は好都合。
「ふむ。ここに川が流れておるのは初めて見た。覚えておこう」
水底や水流を見んため足をつける。あまりの冷たさに感覚が麻痺した。いづれ山立どもを巻くためであるが、鼻の利く犬が厄介だからだ。水中だと、臭いも紛れる。
「む?」
地形を見定めていると、不意に酒気が鼻を刺す。こはいかにと跡尋ねると、浅瀬に空の酒樽が打ち捨てられている。
「なんぞこは? 彼奴等が儀式でも行ったか?」
確かに山立は、あちこちの山姫像に、神酒を供える。さあれど、山を汚さぬよう塵塚を放置するわけがない。よう見れば、見慣れぬ針葉樹の丸太に、太綱が括り付けられた運搬具、また軍粮の食い散らかしもある。どう見ても狩獵撈具ではない。
「こは星羅の者による狼藉か? こんな所で……?」
奇怪な物の具など、具に改めていると――
「坊様! そは何ぞ? 山を汚してはいげねよ!」
「シカリ、シカリ!」
「なんぞ? 騒々しい」
山家の中に、獵師の一人が入ってきた。
「丙卅一点で、あん坊様が不審をなしましたぜ。山具足にあらじ、縄やら酒樽やらを拵えていたようで。やっぱ安東の細作でねが?」
「そこの行事は……是則であったな……む? 奴め来おったな? 臭ぇのでわかるぞ」
アマブタも毛皮も脱がずに、大柄の山男が、囲炉裏にドタドタ駆けてきた。
「員季、員季! あの細作、とうとうやりやがった。陸奥六軍の暗号残欠があったど」
「小僧が燃やし損したとでも?」
「そうよ。次郎とは偽名で、細作名は――フジコ……フジカウと書かれてあった」
「されども、あの西声と雪山も知らぬ態は、いかに申す?」
「よく出来た物真似であろ」
焚き火を隔てた員季と隣のマタギは、訝しげな顔になる。あの小僧のどこが物真似であろうか? 全く、思い込んだら我を曲げない頑迷さよ。
「おめえは、人を疑って止まぬ悪癖をどうにかしろ。マタギで、あの小僧を細作だと思ってるのは、もうおめえのみぞ」
「まことや、是則のみだ」
「だまれい! 彼奴が細作なのは明らかよ! あん縄や丸太で、工作していたに違いねぇ!」
「血が上ってやがる……オメエは今宵も夜警に出て、雪で頭を冷やせ」
是則は、放たれた矢の如く、止める|員季を聞かずに出ていった。
「大丈夫ですかねえ? あは坊様を半殺しにする勢いですぜ? また僻事から不具にでもしちまったら、たまったもんじゃねえ」
「……」
員季は、あぐらかいている片足をさすったが、何も言うことなく是則の背を見送った。
「さればこそフジカフ!」
「……?」
是則が、大音声上げる。かの川岸で、不審を改めている山立らの側にいた次郎は、最初あの醜男が腹悪く、誰に物を言っているのかわからなかった。どうやら俺に向かひてと心得た。
「なんぞそは?」
「白〻しき空言は十分。こは、他ならぬおめえの細作名であろ! この陸奥紙残欠に書かれてあるではないか!」
「なにを。そもそも、そが人の名なのかも定かではない」
「黙れ! その運搬具で何を川に流したか白状せ!」
「そは野僧こそ聞かまほし」
「なにがなんでもしらを切るとな? わしの腹がゐぬは、飯を食ひ散らかして山を汚したことよ、これはいかに?」
「全く話の通じぬ薄馬鹿よ。野僧がいかにこれら運搬具足や軍粮を拵えたか? お主ら山立に命拾われた後、一日たりとも横目をつけられなかった日はなかろう?」
周りの山立らも次郎に同情していた。初めこそ工作の料と訝しんだが、巡回路近傍で、次郎一人がこれらを拵え得るわけがない。
「ええい、堪忍耐えぬわ! 素直に白状すれば、生きて将軍様に差し出そうと思っとったが、今すぐ鹿の肉たらん!」
「こはいかに」
事に触れて俺を細作と決めつける是則に、何を申しても無駄よ。
敵愾心に満ちた醜男は、山刀を抜いた。こはいかん、死人が出ると、他の山立らは恐れ慄いた。
「死ねや!」
袈裟斬り仕掛ける是則に、次郎は片足滑らかして避ける。この醜男は滅多矢鱈切り掛かれど、次郎にとっては事もない。横様に振られたときは、是則の肩を足場にして、背後に跳び退く。
「なんて人よ、あの坊様は……。是則の太刀捌きを、猫のように避けておる」
山立ちは、一様に見惚れた。
是則の体躯が勢いに乗ると、確かに恐ろしい。しかし山刀の振りかぶる向樣を見れば、容易く避け得る。
「細作の分際で、ちょこまかと憎たらしい奴かな! そこを動くな、一気に殺してやろう!」
是則は、走り込んで次郎の頸を定める。
『さて、いかがせん?』
返り討ちは流石に忍びないので、ちょいと打じてやろう。いや、それも世話をしてくれる山立らに申し訳がない。
次郎は大振りの山刀を軽くいなすと、是則の足を絡めて、その勢いのまま雪の上に転がした。
手放された山刀を奪い、その目の前に突き立てた。是則は、とんでもない相手だと心得た。小人と馬鹿にしていたが、仰ぐ次郎から、虎に睨まれる恐ろしさを感じた。
「相手を知らずして喧嘩を仕掛けるは、まこと鳴呼の事なり」
他より聳ろかなる員季が、驚き呆れたる様で来た。てっきり是則は殺される、慈悲で半殺しで済むと考えていたからだ。剰へ大事なく、雪に伏しているだけであった。
次郎と目が合うと、員季は軽く頷いて謝意を表した。流石の
「糞食め! おめえら、フジカフを囲んで殺しちまえ!」
自棄になった是則は罵るが、誰ができようか。皆人が束になってもかないっこない。
員季は短い顎髭をさすった。このまま是則を野放しにすれば、また次郎を襲う。そして、次こそ次郎は容赦しない。かと言って、是則を縛り上げれば、奴の怒りは天にも上り、ワシが切られる。
「シカリ《親方》! 大事だ大事!」
そこへ別の山立が、息を切って駆けて来た。
「イタズが出て、星羅の軍陣をやっちまった!」
「こは……」
熊害に遭った軍陣に急ぎ駆けつけると、次郎と山立らは物も言えなかった。
兵は悉く斃れ、流血は一面の沫雪を染めて上げている。陣幕は寒風に吹き流され、篝火は横倒しに焔を漏らし、雑多な具足は散亂していた。こは恐ろしなんども愚か也。
「火を消せ。山火事を起こすな人〻」
山立らは、急ぎ火に雪を被せた。生ある者の手当てをするが、いづれも我彼つかぬほどの深手を負っている。
「こやつも虫の息だべ。とてもたすけ助からね」
「難を逃れた者はおらぬのか? 熊の様相を聞きたい。里者でもよし」
員季は周囲の山立に尋ねた。
「陣長は誰そ?」
「はて、山縣某では?」
「彼奴と倅は難を逃れておったが。はて、どこさ行ったか?」
「あいや、こを見ろ!」
星羅の家人、山縣聡介は、長男の璵太郎と刺し違へていた。
「なんと……一族郎党をやられたのを恥じて自決したか。可惜命を散らしおって」
山立らは、親子の尸を囲んで合掌する。
事態を収めるのに忙殺され、人の死を嘆く暇もない。いや、山立らにとっては余所者ゆえ、涙さへ誘われないのかもしれない。
元はこやつらも武者ゆえ、手際よく尸を集めて埋葬した。頭を西に向けた亡骸に、次郎は雪仏を作る。予期せずして六字となり、仏に迎えられた人〻に、次郎は憐憫の情が湧く。
「挨拶をしただけの縁と思ったが、まさか俺が最期の見送りとなるとは……」
夜雲厚く、月も星も見えぬ今、盛土近くの篝火だけが皓〻と次郎の顔を照らす。茶碗と箸で鈴と鈴棒に見立て、声高に読経する。また松を法の灯火と見立て、雪仏に挿した。
「今はこれら人〻は業を終え、将に死出の闇路へ出んとす。冀ふ、その路を照らし、西方浄土へ導かんことを」
夜通で次郎の供養が続く中、山立らは近傍の里家に集まっていた。
「どれも頭か喉元を害されて即死であった。陣の足跡を見るに、相当な大熊に違いねぇ。フジカフが申しておったのは、たわ言ではなかったか」
「飯炊ぎ時を狙って、鏖にしたようだ。その後、イタズは兵糧や酒を喰ひ荒したか」
「武者どもは、具足を取り出す前にやられたようだな。獣とはいえ、者切と見える。奇怪なことなり。かような熊がおるなら、我らの目に触れないわけがなかろうて……」
「いづこより山に流れ着いたか知らねが、こは厄介ぞ。“穴持たず”に違いねぇ」
「他の星羅どもに、飯を炊ぐなと触れて回るか? 匂いで誘き寄せると、あの二の舞ぞ」
「んだ」
「だが、そを里にも強いるべき? 仮初の武者と違って、住み人にも飯炊ぐなは酷にあらずや。夜は寒いぞ」
「かと言って、武者には否、住み人には諾とすれば、人間で諍い起こること必定よ」
「ううむ、そは難儀。ただでさえあのフジカフが目障りなのに、イタズまで厄介を引き起こすとは……」
目の前の酒はなぜか不味くて、一向に進まない。耳ざとい里者は、戸口で聞きたて一層不安になった。




