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かげほうし  作者: 海堂ユンイッヒ
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旅立ち

 空はいみじう鈍色(にびいろ)の都。人も牛も馬も、大路小路(おおじこうじ)(せわ)しなく行き交う。寒風が吹き散らし、袖や(えり)に飛び込むと、人々は身に()みて顔を(しか)める。

 次郎は装束を調じて頂いた。黒墨の袈裟の下には、綿を多分に入れた紙子(かみこ)を着込んでいる。脚には脛巾(ははぎ)を巻きつけ保護する。九国から履いていた草鞋(わらじ)の底は、擦り減っていたので、これも新調した。雨や雪除けの()笠は浅く被り、手には木太刀(きだち)を持っている。もちろん、なにくれと詰め込んだ(おい)を背負っている。

片時(へんじ)も早う発向せよ』

 坊条はそう催促したが、ささらが許さず、旅立ちに吉とする日と時刻を、かんがへて頂いた。そのささらは門前まで見送って頂き、もなかは今も次郎の隣を歩いている。二人の間に言葉はない。

『なでふこの小僧は、敢へて暗剣殺方(あんけんさっぽう)へ行かん?』

 反芻(はんすう)しても、もなかには得心いかなかった。ささら様に太郎どのを引き留めたべと進言さえした。されど、女主人は被りを振るのみ。

『そは巡る星〻を留めるに等しいこと。わたくしらは、旅人(たびと)路難(ろなん)を逃れるため、祈ることしかできません』

 チラと隣の小坊主を見る。益〻剣難が(あらわ)れているではないか。遠き地の(まつりごと)は知らねど、東北は今一度兵刃(へいじん)の気運(みなぎ)り、仏理が枯竭(こかつ)せんとしている。(しょう)ら陰陽の者が推条(すいじょう)するまでもない、耳聡い京者でも危うしとわかるだろう。はてなんの書物だったか。“さても虎をば猛虎とて、たけき獸とす。されば暦の註に、十一月の節に入りて、武始交と書けるをば、とらはじめてつるむと讀む。武は虎、交は合と尺せり。武と云字を即ち虎と読むにて、つるむ其心を知る(べし)。是れ暦道の口傳(くでん)にて、(すこぶ)る讀難き事に申めり”……だったか?

「そもじが越えんとする関、来る(なか)れと読めんのか?」

「……」

 もなかにとって精一杯の願いであったが、次郎は何も答えない。この小僧にとっては、寺の、いや四散した全学派の宿願の足掛かりとなる。影法師と堕ちて以来、人非人(にんぴにん)と忌嫌われ、八苦地獄を舐めさせられた。殿上人(てんじょうびと)である坊条殿に奉公し、我ら影法師がかかる朝敵にあらじと示すのは当然である。

「ささら様の呪術で、無事に――」

「おこ者。いくらあの方の通とて、所詮は人の業。凶神おわす方を踏み破るとて分限がある」

 忌言葉ゆえ“斬らるるぞ”とは口に出せなかったが、次郎には百も承知であった。はぁ、もなかは小さくため息をつく。

「そもじに連れ込まれたのを、謝られることなく行くとはの」

「貴女の寝顔なんど見て、如何(いかが)せ――あいたっ!」

「ほっ」

 最後まで小憎たらしい女童よ。何度足を踏まれ、尻を蹴られたか。しかし、当分これと戯れることないと思うと悲しくなる。いや、ひょっとして、この冷やきツラを拝むのも今日限りかもしれん。気づけば、京の端近くまで来ていた。人通りや家なども少ない。

(しょう)は、ここいらで引き返しまする」

「今まで、お世話になり申した」

 笠を取って一礼する次郎。その目つき悪い顔をしげしげと見守るもなか。

「ほ、忘れておったわ。これを――」

 裾から取り出したのは、一枚の護符だった。折り畳まれて、一点だけ蝋付してある。

「今よりその鰹木で打()う機会も多かろうて。予定より早く仏に会わぬよう、相手に示しなされ」

 次郎が受け取ると、それはひんやりとしていた。外の寒さではない、もなかの神通力が注ぎ込まれている。

「ありがとうございまする」

「次、余所殿(よそどの)に寄られる折には、行水でもなされよ」

 そう言うと、もなかは元来た道を帰り始めた。

「そもじは臭くてかなわぬ」

 別れの挨拶が背中越しでこれかと、次郎は失笑した。名残惜しさの欠片すら持ち合わせぬとは、氷の使い手に恥じぬ(つべ)たましき様よ。

 笈の紐革の具合を正すため軽く跳ぶと、目の前に続く道を一歩一歩進み始めた。今の今まで忘れていた孤独が忍び寄る。先行き定かならぬ不安も押し寄せる。大丈夫、俺には反閇(へんばい)とこの木太刀がある、そう次郎は気を強く持った。

 ふと次郎の目の前にピラと何かが舞い降り、それが掌に落ちると冷たさを覚えた。空を仰ぐと、曇天の隙間から、雪が薄らかに降り始めたのだった。

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