反閇
「惧れながら、お二人に申し上げることがあります」
坊条の御殿から帰ると、次郎はささらともなかに呼びかけた。二人が母屋と廂に腰を下ろす前に、次郎はあえて簀子に正座する。
「或る方より御用命給わり、野僧は下向することになり申した」
こう切り出す次郎に、女性二人はわずかに驚いて目を合わせる。頓にかく言うはいかに? そう思ったが、口には出さない。次郎も、唐突な申し様、いかに思し召すかと緊張した面持ちである。しばしのしじまが差し入るが、ひいよひいよと鳥に破られた。良あってから、ささらは『争で?』すら言わず、ただ――
「そうですか……わかりました」
とだけ返した。次郎重ねて申しけるは、
「按ずれば、今は遠き空の下、彦より遠路はる〴〵都目指して登り候。道中、日はもちろん雨風にも晒されずに非ず、足の草臥れも極まり、野盗に恐れ慄き、口に入るは餉ばかり。夜は石に枕し、星を眺めつつ国を懐かしみ、未だ見ぬ都に思いを馳せ候。京に到れば、左右もわからず、饑き日〻を過ごし、秋風が身を苛み、田舎法師と人に軽め侮らる。されどささら様、もなか様は寛大にも野僧に門開き、同宿をもお許し頂き候。日に三度米飯を三膳づつ頂いて、屋根下で寝るは、これを極楽浄土と申さずして何と申しましょう? これも偏に観音の慈眼によるもの。日数ふれば冬深まり、京の人々にも縁が結ぼれ、改めて驚く次第であります。この世の縁とは、一本の木蔭に休み合わせたり、同じ川の水を掬って互いに飲みあったりするような、僅かの縁であっても、別れとなれば悲しいもの。況や、肝煎って頂いたお二人との別れが、何條悲しからずや? さりながら、我ら影法師は元より雲水の徒。たとひ朝敵と蒙られても、日の本を順礼し、霊験の所〻に行脚しつつ、人〻を救済するのが修行であります。ここに居心地良く留まれば、山の法兄らに『懈怠の男よ』と笑われましょう。今一度、申し上げます。我が暇をお許しくだされ、あなかしこ」
と居住まいを正して、頭を下げた。静謐な空気を響かせ、淀みない次郎の長台詞は、あたかも読経であった。目を瞑り、黙して傾聴したささらは、片時の沈黙の後――
「いづ方へ行かれますか?」
とポツリ問うた。
「勿来の関を越えます」
されはよ、今の太郎さんに剣難の兆しが見えるわけです。わたくしはさらなり、そこなるもなかも、きっと観ているでしょう。
「もなか、今宵反閇を踏みます」
「……さうけ給候ぬ」
へんばい? 何ぞやそは? 次郎が怪しむと、もなかがさらりと補足する。
「法師どのには、禹歩と申した方がわかりやすいか?」
「うほぉ?」
一層わけがわからぬ次郎に、もなかは頭を抱えて振る。今まで生真面目な空気であったが、素っ頓狂の声を上げたので、滑稽感すら生じた。ささらまでくすりと咲み溢れる。
「悪き方角を踏み破る方術です」
風呂でさん〴〵清められ、浄衣を着て一人正座をする次郎。あの女性二人は、装束改に時を費やしておるのであろう。
「うう、湯冷めするぞこは……」
燈樓を燃やす対の屋を、反閇局としている。そこに水、米、大豆、胡麻、栗、麥を折櫃から取り出し、土碗に五升入れた。また酒海に酒を五升、明蜜の代わりとして、土瓶に五升入れた生牛乳を認めた。これらを載せた高机の八本足には、齋郎を模した比度加太が三枚貼ってある。
「あは散供として、うち撒かれるのであろうな……」
次郎は考えた。なにもこのような儀式をして頂かなくてもと、口から出そうであったが、無下に断るわけもいかなかった。
『よいか? ささら様が先に行かれるので、その後で足の運びをよう見ながら進まれよ。左右の足跡をなぞるように踏め』
もなかさんは、左様に言っておった。
『あいや 、そもじが振り回しておる鰹木はいずこにやある?』
そして、次郎が勝手に使っていた木太刀のを召し取って行った。
奥よりさやさやと衣摺れの音がすると、引きつくろはれたる襅のもなかとささらが現れた。前のもなかは、香炉から煙を靡かせつつ、巫女鈴を鳴らす。後のささらは、次郎の鰹木に幣紙を添えて持っていた。もなかが脇に逸れる。
「た……次郎どの、ささら様に繋ぎ行きたまへ」
ささらの後ろに立つ次郎。ここまで近う寄ったためしはなく、畏れ多い心地だ。その頭つきは映えてをかしく見え、一尺ばかり床に余り、髪油の椿香が馨しい。
「皋、敢えて告ぐ!」
ささらが神呪を謞ぶ。
「其の行に咎母かれ。先に豊前は彦山、西號寺の仮印可僧、次郎の為に道を除わん!」
声こそ上げなかったが、真後ろに立つ次郎は大いに驚いた。“嫋やかな大河が、刹那激流と為す”。霊感無き唯人には、そう説くべきだろうか。これなん神仙の威よ! ささらの身体より激つ霊圧を、一身に受ける次郎。もなかでさえ計りなし、況やその師は、正に底知れぬ! その神通力が感応したのか、対の屋に烈風が吹き荒ぶ。散供の品々が飛び始めてた。
ささらは次郎の鰹木を構えつつ、片膝を高らかに上げた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!」
このように九字を唱ながら(もなかも喚き叫びつつ鈴を鳴らし、九字を切っている)、かなり大股で左右の足を踏み運ぶ。次郎も見様見真似で、ささらと同じ歩行をする。次郎は知りもしなかったが、床に北斗七星を象る足跡をつけ、踏み固めていく。
その歩み終わる点に、もなかが立っており、土を盛った土器を床に置く。ささらが、土を取って錦の守袋に入れる。
「天神地祇、相感応して其欲する所必成就なすべきなり、あなかしこ」
ここで荒れ狂う風ははたと止んだ。ささらは、次郎の方を向き直り――
「この土が辟邪の呪具となります。これを今日より懐に入れ、肌身離さず持ち歩きなさい。いいですか? 片時も手放してはなりませんよ?」
「は」
そう言うと、ささらはもなかと共に対の屋を退出した。正直、次郎はこのような儀式に懐疑的であったが、かかる奇特の通おはしけば、霊験灼然は一定よと、頼もしく感じた。
「さてと……打ち撒かれた米やなにやを、払いましょうぞ」
見渡せば、乱痴気騒ぎもかくやと思わせるほど、酷い有様であった。




