退散調伏
狐狸妖怪を避ける提灯を、もなかは提げて進んでいた。すでに子の刻は過ぎたか、近傍に灯りは無く、雑木林から梟の鳴きが聞ゆるのみ。
『よいですか? 既に来世の者が、生霊とはなり得ません。怨霊は国をも脅かす危き者ですが、廃太子、流され公卿、寝取られ姫君、不運の高僧などで、下々ではありません。かようにして、物の怪を尋ねるのです』
もなかは、教示を思い返した。ささらが物の怪を調伏するのを間近で見、また後ろで見守られつつ、自らそうしたこともある。しかし独り事に臨むのは、今夜が初めてだった。
『そなたは、いづれ手足りとなります。心を砕いてはいけません、ゆめ』
方術が心ならず、気落ちした時も、ささらはそう慰めてくれた。幼少の頃は、読み書きすらできなかったが、陰陽の才ありと見込まれると、引き取られて、手取り足取り育てられた。その後、雑仕女相当で、大内裏にも出仕し、年中行事などで陰陽寮にも登った。将来ささらは、大學寮へ行けかしと勧めている。
「遠き空より、ご覧あれ」
もなかはそうひとりごつ。人通のない京極は、夜道が危ない。獣や物の怪が彷徨くからだ。女や子どもは言うに及ばす、大の男も然り。途中もなかは、ならず者の徒党に邂逅した。里長の申す引歌の手合だった。白子のもなかを見た途端、地を蹴って逃げ出す者もいた。館でよほど恐ろしい目に遭ったのだろう。聞けば、郎党の一人は未だ戻ってないと言う。
『皿や何やらが、雲みてぇに浮いて……』
手負いの者は、そう振り返った。ほ、悪党も楽な業ではないの。もなかは冷たき目で見下げた。片や価値もわからぬ像を盗めと申し付けられ、片や霊障に苛まれ、にっちもさっちもいかぬようだった。
やがて引歌の館に至った。質素でもなければ特に豪華でもない。植ゑた草木や雑草が際限無く広がっていたが、館も垣根も酷く荒れていない。もなかは門前に佇む。ふむ……今は怪しげな霊圧を覚えず。門をくぐり、まづは本殿の周囲を歩み歩りきて、物見する。
「気味の悪う所よ」
ひやりとした空気の中、ほのかに漂う腐敗臭に、袖で鼻を包む。尋ね行くと、厠に人が俯して、息絶えていた。欠けた壺の如く頭が割れ、乾いた血が地をどす黒く染め上げている。ならず者が申しておった、郎党の一人であろう。
「あな甚だし。物打ち付けられて、こへ逃げ込んだが、はかなくなったか……」
もなかは、仮初程の片合掌をした。よく見れば、提灯の光の外へ、血痕が続いている。それを辿ると、南面に戻って来た。土足のまま、木階を踏んだ跡がある。
「ほ。足半も拾わずとは、大童になって逃げ出したと見ゆる」
もなかは登り、提灯を高く掲げると、荒らされて無残な母屋が露わになった。作られた影が、光を厭う妖魔の如く形作る。床に皿や器の類が転がり、割れているのも多い。引歌どのは、陶器、磁器、青磁なんでも好み、贋作や安物も買う蒐集家と聞いた。妾には、美人像とやらを探し当てえぬかもしれぬな。
除霊とは、根比である。曰く付きの所に出かけても、『此度は、いかなる御用で?』と、やがて現れるわけはない。暗闇の中、もなかはぢっと待つ。物音、動物の鳴声、風の肌触り、影の揺らめき。晝には気にも留めない物事に、直人は正気を削られる。闇に呑まれる、妾らはかように申す。
いくばく時が過ぎただろう、もなかの背中越しに、何か常ならぬ霊圧を感じた。振り返ると、かろうじて人の形をした何かが、廂に沿って消えた。
「……いずこにやある……」
あの霊のさざめき言か、はたまた妾の空音か、さる言の葉を聞いた気がした。
『心強う持ちなさい』
ささら様は、よく仰っていた。恐怖心が芽生えると、それが木の根のように全身に張り巡らす。悪霊や怨霊など、殊更危険な物の怪は、人の恐怖を食とし、やう〳〵ものに引き入れんとする。
もなかは、余薫漂う霊木から削り出した木札を取り出した。晴明公のお彫りになったと伝える五芒星があり、これで物の怪と交信できる。
『おばんです』
『名は何と?』
『標を見せたべ』
木札を通して霊に呼びかけるが、返ってくるのは夜風にさざめく木〻の音だけ。根気強く申し続けるが、やがて自ら阿保のように覚え、一人面映ゆい心地ぞ致す。ささら様は、しつこく物問うて、まことに返へしがあったのを知っている。
「はて?」
床板に横たわる瓶子が、風に煽られ――いや、かような微風では転ぶわけがない。廂を進み、やがて塗籠の戸で止まった。
「くちゅん!」
もなかがそこに入ってみると、唐突な寒さに、迂闊にも嚔をしてしまった。落ち着いて、呪いを誦する。
「休息萬命、休息萬命」
この冷たさ……初冬にはあるべからず。まさに底冷え、氷室の中もかくやと思わせる。櫃がしどろに荒らされている。皿や器の類が入れられておるのか。ここに美人像ありや? ただ、迂闊に改めて霊の怒りを買いとうない。
「日比ここに潜まっておるか……されど――」
あまりにも櫃やら調度品やらが詰め込まれて、いざ事を行えそうない。そう思ったもなかは、塗籠を後にし、母屋に戻る。するとどうだ、先ほどまで転んでいた陶器などの所が変わっておるではないか。
『皿や何やらが、雲みてぇに浮いて……』
ならず者が左様に申した時、心当てに“屋鳴り”かと覚えたが、けだしそうであったな。
俄に提灯の火がチラつき、消えそうになる。こは効験すこぶる良く、そう易々とは消えぬはず。唯の安物なら、忽ち火は潰えて、肝靈も身に添はぬ心地ぞすれ。さあれば、人は物の怪の恰好の餌食となる。いよいよ歩み出ずるか? もなかは気を引き締め、目を凝らす。
「⁉︎」
提灯の光の外に、おぼろげな形をした人が佇んでいた。膝下は靄の如く消えておるので、ならず者どもを襲った霊で間違いない。
「汝は誰そや?」
もなかは、提灯を突き出し誰何する。ちらつく光が近寄ると、霊は一層おぼろげになり、胴まで透かす。それは窪んだ目で、もなかの方をぢっと見つめるのみ。
「引歌どのにあらずや?」
もなかは今一度問うた。霊となっても、理を解し、未だ人倫踏み外さずという場合、言向けて来世へ旅立ってもらう。ただ、この世に執念を残して未だ去らないのが霊の類。況や、引歌は既に耄碌とおなりである。
あの霊は、人の形にかろうじて老人の顔が写っている。妾が問いに応える能わずか? 彼奴から出る霊圧がやう〳〵強うなると、肌に粟を覚えた。もなかの周りにある、皿や茶器が転がり始める。その一つが、雲のように浮く。こは仕掛けてくるな、と思った刹那、霊感に打たれて身の毛が逆立つような緊張感が走った。茶碗が、矢の如く飛んでくる!
「咄っ!」
掌より氷居出して防ぐと、茶碗も氷も砕け散った。宣なるかな、あのならず者どもは、これにやられたか。頭に一打貰えば、先の屍と同じ道を辿ることになる。
「鎮まりたまえっ! 汝は今やあの世へ旅立つ者、像は未だこの世に留まる物ぞ! 両者相入れぬ世にあらずや!」
引歌――いや屋鳴りは、見えるか見えぬかの顔で、もなかを凝視している。かかるほどに二つ三つ四つの器を浮かせた。たちまち、もなかを仕留めんとばかりに射掛ける。時を揃えたゆえ、茶器一つに氷が間に合わず、もなかは肌に触れるか触れないかで躱した。
「ほ。こは調伏止むなし」
袖に手を突っ込み、鹽袋の紐解くと、屋鳴りに打った。能面のようなあの顔が苦痛に歪み、なにやらわからぬ声を上げて、消え失した。調伏了んぬ? なんぞさこそあらん。肩越しに霊圧を覚えると、彼奴は母屋の隅に立っていた。しかし、今は怒り顔を顕にしている。
もなかが、今一度鹽袋を打ち掛けると、屋鳴りはつと破れの几帳を引き寄せて、これを防ぐ。そして、寸分も置かずそれを打ち出す。もなかは両手で大きなる氷居出して止めた。
「ちぃ、こはうかつ。小役人が変化した下位霊よと、軽め侮っておったが……!」
今や、こちごちの大小あらゆる物を投げ掛けてくる屋鳴り。転びつ、跳びつ、舞ひつして躱すもなかは、いかがせんと考えた。あは実を持つ人や獣にあらじ、氷ぶつけても透かすこと一定。さあらば、この霊符を以って調伏せん! 指の間にそれを挟み、顔の前に持ち上げる。
「妾が祈ぎ事、神も応へたまへ!」
と唱えて打つ! なんとあの屋鳴りは、小刀を浮かせてそれを二つに切ってしまったではないか。これでは霊符もただの紙屑と化す。
「すわっ⁉︎」
しかも、足元に忍び寄らせた古衣に絡げ上げられ、打ち返りて仰様になるもなか。こはしつるわ、と立ち直る間もなく、瓶やら何やらが叩きつけられる。身を捩り捩り避け、氷居出して防ぐ。この屋鳴りの乱投に、ウもスも言わず討たれをはんぬるか? もなかの脳裏にささらの顔が浮かんだ。
『押されても心慌てず、機会を待て』
と仰ったが、今や崖っぷち。一人勝手に物の怪を調伏せんとして、返って殺されるなど、ささら様は人笑へとなり給ふ。あの影法師にいたっては、腸を切りて笑うだろう。
いずこより持て来にやあらん、屋鳴りは大鼎を浮かせた。あは避け得ず、防げ得ず……もはや命これまで、ともなかはわななく。
両手で顔を覆うと――頓に人がもなかの前に打って出て、印を結んで大鼎を吹き飛ばしてしまった。影法師の次郎であった。
「お怪我は?」
「……ほ、こはあいなし。いかなるわけで?」
「それは後で――」
来と来る陶器、調度品、古衣を木太刀で掻い遣る次郎。この屋鳴りは、物を考える理はあらん、方〻にある物どもをある限り浮かせた。時を同じうして打ち掛ける旨であろう。次郎は単なる小坊主、阿修羅菩薩にあらじ。眼も手も二つなれば、はたと毀ち散らすにも限りがある。
いかがせん⁉︎ 印を結び、験力現すには遅すぎた。ありとあらゆる物が、次郎に襲いかかる。こはえ避らず――
「おんこほりそわか!」
もなかが唱える。凍てつく猛吹雪が荒れ狂い、忽ち母屋一面は氷に閉ざされた。宙に浮いている物は落ち、落ちた物は床と共に凍りついた。方術を間近で次郎は驚いた。あの屋鳴りも、物を浮かせずんば、投げる能わず。
「こは神妙なり、もなかさん!」
次郎が振り向くと、もなかは現無き面で、鼻血がとうとうたらりと流れ出だした。
「もなかさん? いかにやいかに⁉︎」
「櫻餅食かばや……」
と残して、絶え入った。倒れ込むもなかを次郎は抱き抱える。南無三法、これなん神通力を使い尽くすにござんなれ。しかし、介抱する遑は無い。屋鳴りが、を今一度物を動かさんとし館中が鳴り始めた。
あちこちの氷に裂が入ると、天井の一角が崩れ落ちた。それだけでない、天井裏に隠してあった唐櫃まで、落ちてきた。するとどうだ、次郎の肌にひしと感じる霊圧が消えた。
こはいかにと見ると、あの屋鳴り――いや引歌は、あのその唐櫃を凝視している。次郎が近寄ると、いつも間にか引歌もそばに立っていた。次郎が蓋を取り、散り敷く布を取り除くと、瀟灑美人像とは是也。
「老いて隠し所を忘れて、霊となっても、なお人々から守ろうとした愛惜よ」
次郎は呆れた。恐る恐る美人像を渡そうとするが、差し出す引歌の手は透き通る。この哀れな霊は音も立てず泣いた。こは成仏できないではないか。
「さあらば、この像も此の世より其の世へ渡さん! きっと受け取れ!」
次郎が立像を頭上まで掲げると、そのまま床に叩き付けて、粉々に割ってしまった。するとどうだ、立像も幽体になったではないか。引歌は、手の舞い足の踏所も覚えずといった有り様で飽き満ち、立像を大事に抱えて、そのまま消え去った。
「了んぬ……」
寒々とした母屋に、冬風が一陣差し入る。正倉院御物に値するとも評された、瀟灑美人像は二度と組み上げられぬよう、破片を攫われた。そして残されたのは、次郎とらうたげな顔を覗かせて眠るもなかであった。




