土大根
「この恩、どう申してよいのやら……」
或る男が、影法師の次郎の前でぬかずいた。聞けば、やんごとなき方の 殿人と言う。次郎が四条を逍遥しつる折、京童部が、この男を隈に鎖し籠めていた。次郎がしら杖で、事も無く打ち調じていると、その一人が殿人の唐櫃を押し取って、駆け出した。
『しまった、なんたる抜かり……』
人の参り集う路地で、次郎は倒懸の印を結び、その京童部を片足首から宙吊りにした。験力を衆目に晒すべきではなかったと、今更驚いた。唐櫃が落つると、殿人は慌てて取り返す。印を解くと京童は落ち、脇目も振らず遁走した。
「いづらの寺の、いかなる僧でありますか?」
「いえ、野僧はつまらぬ山の、味噌すり坊主であります」
「せめて、御戒名だけでも……」
次郎は、野次馬の目を避けるべく、何も言わずその場を立ち去った。
『ゆめ用心なされ――』
代官の言葉をふと思い出す。
『都の民は、まこと物見高き人々ぞ。火事が起こると見物に群れ、喧嘩があれば辻に立ち、人の冠婚葬祭に見惚れ、野良犬の交接にもすぐ立ち群がる。法師の“影”なんど見せれば、なんと言わるることやら……』
「さて、どうしたものか……」
次郎は歩きながら考えた。先の運上は、障りなく京庫に収めた。後日、大内裏に向かうと、不思議のことかな、郁芳門間際には、数多の荷と人々が座っていた。
『あはな御房、こはいたう困じましたぞ』
縹の袍の代官が、指貫の稜取ってやって来た。
『そもじに約しておった、代が報えぬ。いかに思ほし始めるにか存ぜぬが、関白殿が「徴税のあり方を、延喜・天暦の古風に糺せ」と仰せられての。上達部らが、博士に先規を尋ねさせることから始まっておる。昨今は官庫収納も沙汰速やかであったが、昔日に復すとなると、相当な日数を要すること必定よ。加えて、手違いが起こったらもう……考えとうない』
『して、いつ頃目処が立ちます?』
『それがわからぬから困っておる。税を取らるる者はおろか、取る者だにわからぬからの。余剰物を肆に卸売って、それを代にせんと思うておったが、ご覧の通り、検納すら始まらぬ。国〻の倉はもちろん、門から大炊寮まで、足の踏み処もない有様よ』
代官は頭を抱えた。京都までの道中、多少の事が起こっても、ゆゆしく大様なる風を崩さなかったが、今はどこにもその姿は無かった。
『……致し方ありませぬな』
『まこと申し訳が立たぬ。差し当たり、露ばかりであるが、これを受け取りなされ。残りは工面しておきますぞ』
そう残すと、代官は忙しく門内に入っていった。こは当分、歌を詠む気にもなれますまい。次郎は、後姿の代官を見てそう思った。
影法師に頼んだ挙句、謝礼せぬまま行方晦ましたり、難癖つけて額を減らしたりする輩は少なからずいる。しかしあの代官には、かかる薄汚さや強欲さは感じなかった。
ふと気づけば、次郎は京の場末にいた。人家もまばら、既に刈り取られた田が広がっている。炉端の岩に腰掛けて、土大根を齧る。
「苦い……」
なにより食物の策を巡らせねば、今の手持ちでは心許ない。腕っぷしに頼って事を為したいが、得体の知れぬ小僧が目立つわけにもいかぬ。托鉢でもするか? それとも国に帰るべきか? そうする前に都の様子や山川の景色などを、写生しなければ。帰山してから清書し、他の影法師の見聞とするためである。
「寝る場所はいかがせん……」
よい匂袋を持たぬなら、草むらで旅寝するなと戒められていた。毒虫がいるからだ。季節によって、毒を持つ虫もいる。蚊、虻、蜂、蛭、斑猫には特に気を配る必要がある。もう秋だが、次郎は京畿の博物には疎い。
一陣の風がやけに寒く、破れの浄衣と圓頂に染みる。わなわなと身体を震わせた。
「綴り刺せ」
促すように、野原からそう聞こえてくる。先の見えぬ身に、次郎は不安を抱いた。