留守
ある朝ささらは、荷前使として、余所殿を出立した。門外に待たせてあった手輿に乗ると、力者が恭しく持ち上げ、あけぼの美しい林に消えて行く。
もなかは、次郎と共に門前で見送った。ほ、輿が出た途端、こやつは体を揺り始めおったわ。よほど肌冷えると見ゆる。ふと草葉に目を凝らすと、初霜が置かれてあった。妾は凍まぬ身ゆえ、今更気付いたが、いよいよ冬の気を催すか……長かったの。
「う〜寒む〴〵。もう入りましょうぞ」
身を縮めた次郎は、そそくさと門内に帰った。もなかは、その背中を見守る。こやつが参ってから、ささら様はお変わりになられた。以前は顔を見られとうないと、何かと出仕を渋っておられたが、此の程は、ようお出かけになる。
妾は具に知らねど、あやつの法兄と聞く法円どのではないか? その人が鵺にやられたと耳驚かした夜から、ささら様は端居して、九国の空方をお眺めになる。また、妾に言いつけることもなく、社に籠り居て、独り儀式をお執りなることもしばしば。
「もなかさん?」
「……ただいま」
ささら様の胸中まで察することはなりませぬが、お気を紛らわせるため、事に出られるのでしょうな。良きかな、悪しきかな、妾には判断のつきませぬ。
女主人が不在とて、朝の勤めに変わりはない。次郎は十地を読誦するを朝の業とする。そして雑舎にあった木太刀を、坪の霜を払うかのように振るう。その後、廂などの浄巾がけに走り回る。ささらが起居する本殿、社、もなかの局などは、男子禁制なので、あの女童がやる。
それが終わると、次郎は坪を払い、もなかは閼伽棚 や仏前に花や水を供る。姿の見えぬ時は、今日の吉凶でも占っているのだろう。
「これっ! 随分ゆるりとしておるではないかっ! はや〳〵終わらせよっ!」
塵芥をかき集めていると、本殿から催促が飛んだ。全くこうるさい女童よ、次郎は舌打ちする。さては、ささら様のお留守を良いことに、好き勝手やるにござんなれ。
日も登った頃になると、物よそへに取り掛かる。次郎は、味噌、芋ガラ、平茸をかきまぜた雑炊、香の物、甘栗を膳に載せて、もなかに差し上げた。
『この程度で、腹が膨れる不思議さよ』
毎日そう思う。次郎も同じ物を食らうが、山育ちの修行僧ゆえ、鹽味は強う、もなかの倍以上は平らげた。それにしても、ささら様がおらぬだけで、館が空の如く覚える。あのお方の為人は、おるかおらぬかわからぬほど、か細く儚げだ。しかしその霊圧は、幽玄とでも言うべきか、館のどこにいてもひしと感じる。
次郎は、本殿を眺めた。陰陽家は怪しい呪物が掲げられ、陰気臭く、式の神が蠢く館に住んでおると誤解していた。確かに呪物はあり、風水や何くれの跡もあり、尋常より奇怪ではある。しかし掃部もかくやと、俺がやらされるので、築土も南庭も館も小綺麗だ。
『風をよう通したも。邪気を溜めてはなりませぬ』
もなかさんは、毎日のように申す。今も、上蔀を留めておる。ははは、丈が足らんので、一心に背伸びしておるわ。声を殺して次郎が笑うと、遠くでも気付いたのか、もなかはきっと睨みつけた。
「これ、遅れるでない」
と振り返りざまに、もなかが諫める。人々の雑沓する七条で、二人で買い出しに来た際、次郎は米や菜などしこたま詰まった筐を背負わされた。足下おぼつかなく、やっとのことでもなかについていく。
「ほ。これが音に聞く某法師か? 大力の者と思うておったが」
「鶉餅、餅腅、糫餅、索餅、捻頭、卵餅、饆饠、落雁に觀喜團まで……はて? 他にも、ようお買いになられましたな。重くてしかたありませぬ。一体どこぞの御腹に納められるのか、野僧にはてんでわかりませ――あ痛っ!」
紅潮したもなかが足を踏みつけた。次郎はふらつき、積んであった物がこぼれ落ちる。
「ほっ!」
次郎に一踏与えたもなかは、プイとして、ずんずか歩いて行った。『何事ぞ、この女童と小僧、腹立ちたまへるか?』と周りの人々が驚きあきれた。次郎はかぶりを振って、落ちた唐菓子などを拾い集める。全く、ささら様がおらぬからと言って、これでもかと菓子を買いおって……。
筐を再び背負うと、とうにもなかの姿は見えなくなっていた。しかし、掲焉に顕れたる白毛と白肌、糊の気残る襅姿は、どこにいようがわかってしまう。
「や?」
次郎が先を見ると、白子の女童は、見知らぬ女より懇願されていた。ただやはりというか、もなかはいみじう憎げに、『いね、いね』と野良犬でも追い払うように手を振った。女が手を擦って拝んでも、けんもほろろである。
「どうか、どうか! 父の無念をば――」
「ええい、しつこい!」
「こはいかに?」
次郎が追いついて物問うた。もなかは、見向きもせずに歩き出す。
「あひしらひさせそ」
こう素っ気ない。この壮年の女は物乞いにもあらじ、されど人目を気にせず、地に額をついて何やら申しているが、冷酷にももなかは去っていく。次郎は後ろを気にしつつ、その後を追った。
「さればこそ。怪異や不思議の沙汰を、妾に押し付けんとする輩よ。あの類は無きになすのがよろしくて」
「しかし、あは尋常なき様子でしたが?」
「ほ。太郎どのは知らねど、妾らは、気味悪いと疎まれること多くてな。それが、いざ自らに事が起これば、あの様よ。それに怪異の類は、浜の真砂。妾らが全て祓うわけがありましょうか」
後ろからの寒風に、あの女の泣き音が乗って届いた。次郎は、居心地が悪くなっていた。