鹽
「これっ! 太郎どのっ! いかにや今までっ! 門にな入りそっ! 外様に立たれよ!」
暗れ塞たがる時分、余所殿に帰ってきた次郎に、もなかが叫ぶ。その声はあまりにも鋭く響んで、林の鳥が飛び立つ。何が何だかわからず、次郎がたじろいでいると――
「だから外に出よと申すに! 穢らひを持ち込んではなりませぬっ!」
この小女房は白毛を怒らして立てた。なんすれぞ、さこそ逆鱗すれ? 門外へ追い出された次郎に、もなかは何やら呪文ささめき、鹽を振り掛ける。
「俺が帰ったのが、ようわかりましたな。座を蹴っておはし――すわっ、べべべ――」
「さこそ死臭を打ち撒けば、千里の先でも空に知りまする。さては血忌日に殺生を成しましたな?」
もなかは、一掴みの鹽を次郎の顔に浴びせた。あの山姥の死臭が、まだまとわりついておったか。俺自身はいつもと変わらぬが、やはりこの白子――陰陽の人ゆえか、何かと感する事多々あるのか。
「……もう入ってよろしいでしょうか?」
「ささら様が、そもじを召しておられる。今よりお湯引きて、身を清めてから上りたべ」
「また風呂ですか? 俺は好きではござらんのに……」
「ほ。何条仔細を申ぞ」
先程までの鼠色した厚雲は、何処へ吹き流されたのか、星々が綺羅と輝き、月影もまた涼しく館を照らす。小綺麗になった白丁姿の次郎は簀子に、もなかは廂に、そして主人のささらは、御簾隔てた母屋の端に、高麗端のいと清らなる畳をうち敷きて座っていた。
「悩み人への芳心、まこと大儀でありました。されど、念無き様になりぬめり」
「は」
次郎は、頭を下げたまま応へる。不思議のことかな。住ノ江の夫を探しに、奈良山の廃集落に向かったなど、俺は委曲かに申してもおらぬ。されど、なんでふこのお方は、全て見据えたる口吻なのか?
「太郎さん、さこそ堅くなありそね。頭を上げたも」
軽く頭を上げる。かのお姿は、御簾の後ろの灯台によって、輪郭しかわからないが、椿の香は強く鼻を擽る。
「もなか」
「を」
「簾を放ちたも」
「は!? し、しかし……」
「放ちたも」
二度も仰せ付けられたもなかは、戸惑いながらも御簾をゆっくり上げた。その際、次郎の方を睨む。『目は下に伏せ、顔のほどは見奉るな』と言わんばかりであった。
「これで、あなたのお顔がよく見えます」
はんなりと咲う余所の方は、檜扇すら下ろしていた。次郎は、つくづくと見奉る。いみじう長くなる黒髪に引眉、ふっくらとした頬、小さな鉤鼻、白き肌。これが都好みの佳人なのか……。このお方は漫ろ神の悪巫山戯で、国を傾けるほどの美人に変えられたと聞いた。なので、その顔を見た男は、すべからく恋に落ちるという。
『陰陽道の女なんど、狢狸と等しう眉唾よ!』
こう言ひ落とす公卿ですら、ささらの顔をほのかに見た夜には、豪華絢爛に拵えた恋文を送ってきたとか。恥ぢしらふささらは、檜扇で顔を隠し、出仕も渋るようになった。するとどうだ、見えないものは一層見たい欲に駆られ、ささらが陰陽寮におはすと聞けば、垣に穴を開け、築地に登って覗き見せんとする輩が後を絶たなかった。
しかし次郎は、色恋知らぬ小僧。長く霊山に遊び慣れておったせいか、『これなん都美人』と示されても心得で、むしろ風変わりと覚えた。宮廷の男心を惑わす漫ろ神も、次郎には無力だった。
「さればこそ。わたくしが申した通りじゃない。太郎さんは大丈夫と」
「ほ」
ささらは、もなかに如法と咲う。もなかは体面悪くぷいとする。何やら、俺のことを話し合ったようだが、つゆほどもわからない。
「太郎さん」
「は」
「わたくしを余所の方と呼ぶのは止めたも」
「そは惧れ多き事」
「あなたはもう館の人。その内人から“余所の方”と呼ばれるのは、不思議なことです」
「では、なんと呼び申し上げたら……?」
「ささらで構いません。心配は無用です、こは実名にありませぬ」
次郎は余所の方で良かったが、ささら様がさこそ仰ればせむかたなしと、姿勢を正し、仰せのままにと申し上げた。
「そして、もう濡れ縁に座らなくてよろしい。廂までお上りなさい」
そこまで催促される次郎は鼻白む。なぜなら、廂でささらの心もわからず、驚き呆れているもなかがいるからだ。同じ座まで上ると、またいかなる小言を言われることやら。
「あいや、そればかりはちと……」
「ほっ! とう〳〵上られよ!」
次郎の遠慮に気付いたもなかは、こう言い放ちて蜂吹く。げにげにと無言で促す余所の――いやささら様も相まって、次郎は止むを得ずそうしたが、押し上がるようで、まこと居心地が悪かった。
「これは、いとさにあらず。あやにくに面嫌ひする程なればこそ」
「ささら様!」
茶化すささらに、顔を紅にして申し立てるもなか。次郎は何て申せば良いかてんでわからず、姿勢を正して、目を瞑っていた。
「さて、二人に申しておくことがあります。わたくしは、荷前の命を仕りました」
『のさき……なんぞそは?』
「歴代の山陵と外戚墓に、当年の調の初物を献上する儀式ぞ」
わけのわからぬ次郎の顔を見たもなかが、横から口入する。そしてささらの方を向き――
「にわかにささら様が補されるとは、余程人にお困りのようで」
「ちょうど神吉日も近くなりますので、それに合わせて発ちます」
「はて? さあれどそは十二月……大神祭と立春の間の吉日を占って行うのではありませぬか?」
「極月は寮も事繁くなるゆえ、今の月で、しかも略儀で良しと仰つかりました」
「ほ。それで兆域の霊が、お暴れいたさねば良いが」
あいも変わらず、わけがわからぬ次郎を見たささらは、付け加える。
「もともと、荷前は、土師宿禰が奉っておりましたが、凶儀に携わるのを忌避して、その職を返上し、それからは官人の事となりました。ただ陵墓を嫌忌する慣ひは中々消えず、しかも令制も弛緩しておりますので、荷前使の不参欠怠が当然となっています」
だったら廃止してしまえば良かろうて。そう次郎は思った。しかし、それを言い出した人に、兆域の霊とやらが、いかほど怒り出すか。
「わたくしは、土師の女でも加茂の女でもありませぬが、荷前たつなどぞ、あはれにやんごとなき命として承ります」
ささらは最近、夜空を眺めることが多い。その時に、天文の輩が申すよう、凶星が東方に一つ二つと増えている。確か否か知らねど、大祖を蔑ろにする我らへの凶兆ではないか? 天変地異の前触れではないか? そう考えるのである。
「それゆえ……もなか、太郎さん。しばしの間、留守を頼みます。まあこんな所に、下る人はいないでしょうが」
「ほ。聞いたか法師どの? 今度は好き勝手に出て行くなと言うことぞ」
「は」
ささらはそのような裏を含めたわけではないが、次郎が留守の間、全ての雑用を担ったもなかが、ここぞとばかりに言いつけた。ささらのことを知らぬ次郎は、恥ずかしさのあまり頭を下げてしまった。