弾正台
「して、山姥の首を掻いた後はいかに?」
桂川のほとりに座る次郎と放免。既に夕刻、夜の帳が見えている。入り相の鐘が、悲しげに鳴った。
「荒屋や辺りを改めた。さればこそとて、尸の出るわ出るわの有様よ」
次郎はかぶりを振った。思い返すだけで、鼻のねぢ曲がる心地ぞす。どれも身元のわからぬ者であったが、余さず荼毘に付して、経を上げた。その中に、高砂の名が刺繍してある白狩衣も見つけ、妻の元に返したというわけだ。
「奥方はどうなされた?」
「いかなるべしとも覚えず。見るも無残に泣き崩れる事疑いなき故、留守を見計らって、衣だけ置いた」
「身を投げるのではありませぬか?」
「……」
もちろん、次郎もそう覚えた。さあれどかの女にとって、夫亡き今、残るべき世であろうか? 涙に暮れ、亡き夫の菩提を弔うのになんの楽しみを得ようか? 仏にはや迎えられ、来るべき世に旅立った方が、幸せなのではないか? どちらにしろ夫婦とは、一夜の枕を並べるも、五百生の宿縁と言うので、きっと来世でも出会うに違いない。
「某は学も仏性も無い醜男ですので、味噌殿には執着執念よと笑われましょうが、命あってこそ物の種と申しますか――」
「俺だってそうだ。三千大千世界で、金銀銭を積て候ども、命にかえば物ならじ。勝て惜き人命なりと言うではないか」
「ワハハ! まこと左様にございますな」
放免は重苦しい場を払拭せんと、押し笑った。小石を掴んで立ち上がると、川面でひたひたと跳ねさせた。この男、かなりの大力よ。次郎は太うたくましう腕を振る放免を見て思った。
「にしても、高砂殿が殺された事訳がつゆわからぬ」
「……これは某と味噌殿の秘語にしとうございますが――」
放免は声を細くして周囲を窺う。彫りの深い顔に、豊かな髭。何事にも動じない面魂に見ゆるが、繊細な心もあるようだ。
「その紙背文書に書いてあった名を聞くに、いずれも弾正の者でしたな」
「だんじょう?」
「は。弾正台と申すは、嘗て二官八省から独り立ち、太政大臣を除く全官人の非違を糺弾する所であります。これを抑えるのは、左右の大臣のみでしてな。某も具に知らねど、いつぞや使庁も置かれ、台使相通じて事に当たれと仰せ仕りましたが、職掌や権能が重るのか、役人どちで諍いが起こっております。我ら使庁は官制や法に縛られず、帝の御言葉によって動く機関ですので、徐々に弾正は形のみとなりて、その尹は名誉職に押しやられ、今や親王様方がおなり遊ばせる有様。多く弾正の者は検非違使となりましたが、やはり氷炭相入れぬのでしょうな。使庁で彼奴らを一掃する密令が回ったのでしょう。某もなぜに軽微な非違で、と或るお人を流すかと思った事もあります」
はて、学も無いと申しながら、詳に説明する不思議さよ。役所の垣内政争なぞ、ついぞ知らぬ次郎であったが、今心得た次第であった。
「なるほど。では階の上の者は流人とし、端は高砂殿のように、山姥にでも食わせていたというわけか」
妻の住ノ江曰く、高砂の長男は代々弾正台に補さるる家。そんな男が、権力闘争の牙にかかったわけで、まことに無念としか言いようがない。されど、こは妻は告げないでおこう。泣く女に水を注ぎ足す愚行に等しい。
「なんとも後味の悪う頼まれ事になり申したが、こは昔より続く角牙突き合わせの一齣。某や味噌殿、まして奥方には力無しと申す他ありませぬ。味噌殿も、あまり気になさりますな」
放免は次郎の肩に手を置いた後、去って行った。
鈍色の空の日が今や消え失せんとする時、あの男の背は誰そ彼となり、闇夜と溶け合った。寒風が吹くと次郎は震えた。俺も帰ろう。もなかさんが呆れて待っている。