初時雨
或る初時雨の昼下がり。陰陽家のささらと下仕へのもなかが、館の釣殿に出で居た。敷皮に腰を下ろし、琴を傍に、笥には果物や唐菓子などを載せている。
「――ところで、太郎さんはお戻りですか?」
「いえ……全く何を考えておるのやら。『奈良山に向かうので暇を少々』とだけ残し、妾が応へる間も無く行きおって……」
「いつお帰りなるでしょう?」
「ほ、妾が存じるわけもなく。あのような小僧は、放逐に致しましょう」
次郎の仕事は自分に回っているので、それに蜂吹くもなか。それを見たささらは、はんなりと咲った。さこそ申すが、次郎が僧坊として住む雑舎から、朝の読経が聞こえると、もなかは戸外に立ち、目を瞑りてその美声に耳を傾けている。また次郎の作る柚の汁あへしらふ切り大根は、よう好んで食べている。
「そはあまりにけしからず」
もなかにとって、太郎さんは良き話し相手。わたくしとこの子は、師弟の間。方技を教え伝えるのに遠慮はないが、同じ女こそあれ、気の置けない仲にはあらず。歳も離れているし、生まれも違う。もなかは、太郎さんを『げにあいなし』と申して憚らないが、気兼ねなくおしゃべりしている。
「……」
あら? もなかが、訝しげなお顔を見せている。きっと、わたくしが思うておるのを読んでいるに違いない。この子は、昔から感が鋭いから。ここは話を変えましょう。
「してもなか。通はいかが? 秋分はとっくに過ぎたけど」
「これほどは」
もなかが、白い掌を出してえいと念じると、鞠ほどの氷をゐ出した。冷氣がささらの顔に触り、衣の中まで忍び込む。あは、まだまだ。あのしかめ面を見ればよくわかる。
「十分です、無理をなせそ。殿方と違って、女の通は天地定まらぬもの。げに高まる程には、天下並びなき様に華やぎますが、下がる時は何もできません。そしてその上下は、その人その人で変わるもの。わたくしは、月の満ち欠け。あなたは、夏至と冬至」
大人にならば、女性とて通は定まる。しかし、女性特有の“月の障り”が、最も危険で弱点となる。かかる理由で、陰陽寮には男の役人が多い。
「氷室の氷をゐ出しておった頃より、楽になりました」
ささらはそれを聞いて気の毒に思った。本来なら、諸国の氷池から切り出して貯蔵するのであるが、通の底突くもなかに押し作らせた。将来もなかを推挙するためだ。最初は、白子と奇怪な目で見られていたが、徐々に役人の覚えもよくなった。
「それはよかった。今年の冬は、どれだけ成長しているか楽しみです。あなたは、まだたくさんのことを学ばないといけませんからね」
「げに」
「さあさあ、お手一つ遊ばせましょう」
そう言うと、ささらは琴を掻き鳴らす。庭を優しく濡らす雨音に、ささらの白く細い爪先が立てる調べが乗る。まこと琴の上手にておはしける、もなかは目を瞑って聞き惚れた。日〻寒くなるのも、自分には心地よい。空は鈍色の厚い雲で覆われ、この初時雨が止む様子はなかった。