あひおい
田畑でいと汗を流し、帰路につく住ノ江。友がきの女性らと言ひ立つ時こそあれ、独りになれば虚しさが這い寄る。日没になりゆくに、空もあはれに染められ、雁が列をなして飛び行く方には、我が家があった。灯もなく、待つ人もいない。
戸を開けると、折り畳まれた衣が床板に置かれていた。はて、なんでしょうと思っていたが――
「あっ⁉︎」
こは……こは、検非違使の白狩衣! 唐突の悲報に、住ノ江の手がわななき、腰が抜け、人心地すら失う。あの小僧様が、夫を尋ね当てたのでしょうか? さらずは、なぜゆえこの衣が置かれているのでしょう。嘘よ……嘘に決まっている! 既に住ノ江の面前は霧り塞がっていた。狩衣を顔に押し当てて、しばし物も言えず、只泣くよりも外の事なき有様である。
「違う……こは違う、夫のじゃない」
泣声で誰になく言い抗うも、衣の残香がいやがおうにも鼻をくすぐる。忘れようにも忘れられぬ。いまだに夫の温もりすら覚えた。濡るる衣を今一度見ても――
「あなた……早や帰りたも」
そう現を受け入れられない。ふと住ノ江は袖に物を探り当てた。取り出してみると、自分が夫に贈った白の片箸だった。もう心が爆ぜた。喚き叫び、家を飛び出す。人々がなんぞと振り返る。走り行く当てなどないというのに。
本当はわかっていた。すでに夫はこの世にはいないと。けど、はっきりと告げられるぐらいなら、まだ行方知らずのまま、生きて帰ってくる望みを持ち続けていた方が良かった。仏様も酷い。あれだけ毎夜祈ったというのに……。
住ノ江は足下おぼつかなく、地にまろびつつも泣きに泣く。もはや生きる意味はなく、すぐに入水せんと思へども、力及ばずそのまま絶えてしまった。
『箸が階に転げたのが、いたう面白くて』
『住ノ江さま!』
『なに気にするな。また買えばいい』
今のは夢なれや? 夫との馴れ初めから、今までの思い出を早回しで見返した気がする。ああ、いつもあの人は優しかった。夢ではあれど、ひさかたぶりに夫と再会した心地だ。今まで心は沈みに沈み、何一つ嬉しきことは起こらなかった。けど心がほんわか温かい。どうしてだろう? ああ、今は肌身離さず持ち続ける片箸に、夫の片箸が帰ってきたからだろう。そうに違いないわ!
『あ、こは何?』
住ノ江は知るよしもなかった。忘形見の箸に、夫は小さく偕老同穴と入れていたのだ。とっくに枯れ果てたと思っていたが、また涙が溢れて、目の前をボワボワとおぼろげになる。
『嬉しい。あの人からのお言葉……』
夏のあの日、別れの言葉を交わす事もなく亡くなった夫。その人から遺された声のように覚えた。
振り返ると、夕陽が美しく河に煌めいていた。あは、ここはあの小僧さまに入水を止められた所。今やこの世に踏みとどまる理なし。子を生さなかったのが幸いだわ。そして来世で再会したら、また箸を交わそう。今持っているものは、この世に残そう。あの人と自分の卒塔婆として、箸立ててから往こう。
『まあ!』
神仏の奇跡にやあらん、二本の片箸を添えて地に挿すと、それぞれが根を生やし土に張って、幹は太くたくましう天に伸びる。やがてお互いを捻り寄り合わせて、とうとう大きなる一本松に変化した。驚きと嬉しさのあまり、住ノ江は言葉も出ない。
『あなた……』
この松が物申すわけでもない。まして夫の変わり身であるわけでもない。しかし、なぜか知らねど住ノ江はさ思はずにはいられなかった。そよ風がふき、妻のほおを優しく撫でると、涙拭けとばかりに木末がサラサラ鳴る。
妻は木の幹に抱きつく。温かい……夫を抱いた心地がする。ずっとこのままでいたい。もう二度と離したくない。住ノ江は、そのまま眠り込んでしまった。静かなる夕暮れが、妻と夫を優しく包み、やがて霧が降りて夫婦の姿をすっかり隠してしまった。