やまうば
「いづこを斤りに、俺は尋ねん……」
検非所で見つけた、紙背文書に書きつけてあった“関より外し人々”。そこに住ノ江の夫である、高砂の名もあった。次郎は今、関道から外れた獣道にいて、その人を尋ね歩いている。奥山深く入ってしまい、見渡せば欅が一面に乱れ立ち、枝葉が高く厚く天蓋となって、日を遮っている。
影が濃いので、次郎はしら杖を地に突き、音を立てて進む。そうしないと、茂みに寝ていた獣が驚いて、不意に噛み付くことがある。また蛇、蝮、毒虫などを寄せつけないため、牛糞を草履の裏に塗っている。
「や⁉︎」
次郎が驚いて振り返ると、濁り音を立てて、大烏が急に飛び立った。ふむ、山中は益ゝ妖しげなる様相を呈している。昼か夜かも定かではなく、漂う冷氣が肌に刺す。天狗なんども出そうだが――ふむ、そもそも俺の様な影法師が天狗であったな。むしろ、蝮や毒虫の方が恐ろしいか。ふと一息つくため、足を止めた。されど、気安く草むらに腰掛けない。
「はて、狩人なり山立なり、ここいらを通る人あらば、標なんど見えぬべし。それが見えぬは、俺は方違いにあらずや?」
長年山に遊ぶ身としては、方示す標を目敏く見つけるが、それらが無いのは、人が通らぬ証拠。いざ道を引き返そう。ここで夜を過ごす気にはならぬ。
「む?」
冷徹な氣が漂う中に、ふと温き人心を覚えた。人……ではない。背高の草に分け入ると、巌が鎮座してあった。一面苔生し寂れているが、次郎が削ぎ落とすと、石仏が彫られていた。さあれど雨風に長く晒され、輪郭のみかろうじてわかる程度。
「道祖神におわすか、こは?」
次郎は、瓢箪の水を掛け、屯食を供えた後、手を合わせ結縁詞を上げる。影法師が巡礼する際、霊場や霊跡で縁を結び、その験力を高めるのだ。その石仏の御縁にやあらん、次郎は心頼しう覚えた。
「うれしき結縁をもしつるものかな」
高砂の跡尋ね損ねたが、かような山中で縁を結び能るとは思わず。さて疾く降って、一旦出直そう。そう腰を上げて振り返ると――
「ん? あはなんぞ? 光り物か?」
木立の闇より、赤〻と燃える光が見えた。しら杖を構えて、歩み寄ると――
「そこなる者は天狗かゑ?」
「否、天狗にあらじ。遠つ国の修行僧です」
「さては道を誤ったのであろ」
「左様で候」
松明を掲げた襅の嫗が、茂みから出てきた。頭の白髪はまだら、面の皺も深う畳んでいる。訝しげな次郎を見て――
「よう見るとまだ小僧さんではないか。この山は人の立ち入らぬ奥地。修行の場ではありませぬぞ」
「そう覚えて、今より降ろうとしておりました。ときにその方は、なんぞの人です?」
「この山にありし名も無き村の婆婆なり。もう降るには、遅すぎる。吾が粗末屋へお越しくだされ、尚〻」
道中、このねび人は薺と名乗り、何の社の巫女を仕っておったとか、問はず語りを続ける。小う丸う背中を、次郎は追う。左右見めぐらせば、千年欅が立ち並び、東西もわからぬ。数尺先も闇が垂れ込め、婆の掲げる松明だけが、心細う光を灯した。
婆の申すよう、程なくして集落に入った。が、屋根から崩れ落ちていたり、土壁が刮げて木が剥き出しだったりと、いずれも酷い荒屋で、とても人の住処とは思えない。痛みの少ない賤屋が、嫗の寝屋処だった。
「ささ、小僧さん。召し上がれ」
「いえ、野僧は禁欲の身。お心遣い忝うございます」
嫗が恭しく膳を差し上げた。しかし次郎は串餅も、土器の熱酒も、肴の干し肉一片だに手をつけず、黒木の数珠を押し揉んで経を読んだ。婆は、前にのめり込むようにして次郎を見守る。火桶の灰もかくやと思われる髪は逆立ち、どす黒う肌は深く波寄せ、灯火の光が陰影を際立たせる。ギラギラとした大なる眼が次郎を見据え、不気味な笑みを溢す。
「ありがたや、ありがたや。汝のような法師を見るに、皺伸びる心地ぞいたす。朝になれば婆が案内いたすに、今夜は早う寝るがいい」
と言い残すと、色落ち萎れたる襅の背中を見せ、奥に下がっていった。
どれほど経ったか、次郎が寝の寝らえぬ所、奥から物音が聞こえた。あやしと思ひて、寝つつ聞けば――
「こは……刀なんどを研ぐ音か?」
と覚えた。音立てず、板戸をかすかに開けて差し覗くと、あの嫗は大包丁を研いでおるではないか。ははあ、これなん山姥にこそござんなれ。燈火で使う魚油の臭みにもまして、死臭が漂うわけだ。
「小僧の肉……小僧の肉……」
舌舐めずりして、婆はひとりごつ。さて、いかがせん。山姥はいずれの国の深山にも見られる。誰も彼も事訳あった挙句、禁術に魅せられ、また物に憑かれて人倫を踏み外す。影法師が、かような半妖を見過ごし、調伏せずにおくべきか。次郎はしら杖を手探るが、家屋で背丈ほどもある長物を振るには、ちと窮屈かもしれぬ。
やがて、大包丁を持った山姥が立ち上がり、次郎方へ歩み寄ってくる。そは物憑き顔で、薄墨色の形とて人に似ず、心魂もあるにもあらで、先の嫗とは似ても似つかぬ様相。板戸を開けると、夜具に包まっている次郎の元に歩み寄り、そのまま包丁を突き立てた。
「!?」
手応えがなかったのか、山姥は夜具をめくり返すと、そこには小僧はおらず調度品が詰められていた。
「いかにうれ、そうやすやす食われてたまるか」
と言うないなや、しら杖で山姥のうなじをしらげ、そのまま蹴飛ばす。不意打ちを食わせるつもりが、食わせられた山姥。時をおかず身体を起こし、畜生の声を張り上げつつ、次郎に飛びかかった。
「すわっ⁉︎」
あまりにも敏く詰め寄られ、次郎はむんずと掴まれた。そのまま山姥は耳まで裂けた口で、食い殺さんとする。ザラザラした赤い舌が伸び、ギョロギョロした目玉は次郎を捉えて離さない。
なんという怪力よ。しら杖で山姥を押し返しているが、一念さえ力抜けば、顔もちぎれるばかりに噛みつかれること疑いなし。鼻に掛かる山姥の息が、まこと臭い。
角力が拮抗していたものの、撓むしら杖がふつと折れると、二人して板床に倒れ込む。そのまま次郎と山姥は、組み打ったまま上になり下になり、下になり上になる。調度品を倒してしまうが、誰が気にするか。
「死ね、死ね、死ね!」
夜具の上にて圧はるるに、山姥は先の包丁を引き抜き、次郎の頭に突き立てようとすること数度。次郎は偶然に手に取った釜で、山姥の頭を殴りつけた。キェエと叫び飛び退くも、よほどの深手にやあらむ、どす黒なる血が迸り、つぶつぶと滴ること限りなし。息絶え絶えの山姥は、這って逃げようとする。
「南無恒心不乱。有漏に乱され、人々を殺め、倫を踏み外し山姥をも救いたまへ」
肩で息をする次郎は、そう念仏を唱えると、後ろから銀の針金もかくやと見ゆる頭髪をむんずと掴むと、山姥の包丁でその頸を掻いた。