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かげほうし  作者: 海堂ユンイッヒ
12/44

 都の一角、人々の住う家の一つに、住ノ江(すみのゑ)がいた。野良に精を出している時はともかく、ふとした徒然で夫の高砂を偲ぶ。大路で、馬に跨がる白狩衣(しろかりぎぬ)を見ると、あの人ではないかとハッと驚く。

『物の怪に喰われたのであろ』

『見知らぬ女と逃げたと聞いたぞ』

 人々が噂すると、その情景が浮かんで、やりきれない住ノ江。仏前に据えてある、松の片箸を見遣る。これを思い、あれを思いで、涙ばかり流れていつまでも寝れない。なので夜なのに化粧(けわい)に励む。眉墨を引き、色口を作る。夫がいつ帰ってきても平静を装うように、涙川を覆うように、白粉を塗り重ねる。

「……」

 さあれど、跡絶えた日が重なるにつれ、差し含む涙は一層増さり、白粉に筋を残し、袴に落つ。濡れた袴は乾く暇もない。絶え入るように寝ると、いつの間にか朝になっている。

「夢でもいい。夢でもいいから、あの人に会いたい……」


 あは……さる方様に馴れ(つか)(まつ)っていた頃、饗宴(きょうえん)の料、台盤所と母屋との細殿を、足の置き場もなく行き来していた日でした。

『住ノ江、波の花と箸を』

『や』

 同じ仕えの女房に言われ、持て行く途中に人とぶつかったのです。その殿方は、声を上げてお笑いになります。その理由もわからずうろたえていると――

『箸が(はし)に転げたのが、いたう面白くて』

 と仰って拾い上げなさる。その殿方が夫でした。饗宴の次の日から、その殿方――検非違使さまは、毎日のように坪に細殿にいらっしゃいました。

『また来ているわ、あの方』

『住ノ江、ちょいと出てやりなさいな』

『つれないわよ貴女』

 私は華やく姫君にはあらじ、ただの端女(はしため)。それなのに、(ともがら)の女房どもが何かと囃し立て、いたずらに名が立つので、もう恥ずかしくて恥ずかしくて死んでしまいたいと思いました。あの検非違使さまがチラリと見ゆ、それだけで心に火が付いて、(すだれ)格子(こうし)(しとみ)などを全て下ろし籠めました。

『住ノ江さま!』

『なやましう存じます。帰り()べ』

 何かと嘘を作って、過ごしておりましたが、とうとう検非違使さまは――


はしにおり えんひろいし なみのはな すみにはあらで はしきめもがも


 このような情熱的な歌を書きつけて、(ひさし)に投げ込まれました。受け取らで逃げ去ると、何方(いずかた)が拾い上げられたのか、朝には、女童から大殿さままで、空で詠めない人はいないといった具合でした。もう身体中が火の塊のように恥ぢ燃えました。

 こんな日〻が続いたので、ついにさる方様が――

『こう廷尉(ていい)殿がお越しになると、奥は何事と噂立ちます。会ってあげてはいかが?』

 はんなりお(わら)いになってのたまわすものですから、致し方なく(たい)の屋にわざわざ室礼と晴着まで拵えて対面しました。いつもは無関心のさる方様でさえ、中隔ての障子を少しお開けになって覗かれます。何を話しかたは覚えておりませぬ。もう俯いたまま――

『はい……はい……』

 と(いら)へるしかない有様でしたから。そのような私に白けるどころか、あの方は一層情を抱かれたのです。

 その後、母の患いが悩ましくなって、私が里がちになった後も、あの方は変わらず戸を潜り、母とも馴れ親しまれます。この頃からでしょうか? 身構えていた心も解きほぐれ、検非違使様のお心を受け入れるようになったのは。里には、冷やかす女房もおりませんし。質素ながら、すぐに結婚も致しました。

 私たちの馴れ初めは箸。年が改まるごとに、お互い新たなものを交わし、橋とかけて夫婦の絆を繋ごうと誓いました。私たちは裕福でもありませんが、奮発して松にしました。私は白の箸を、夫は()の箸を手に、新年の(じき)を頂くのです。

『たかさご、すみのえのまつも、あひをひのやうにおぼえ……』

 これは古今の序だったか、私たち夫婦が喧嘩した時、憂き目にあった時などは、この一節を口ずさんで、今世だけでなく来世も、そのまた来世も契りを結ぼうとしました。母が帰らぬ人となってからも、さる方様から何かと後見頂いて、庶民ながら幸せに明け暮らしておりました。

 ところが不吉なことに、私が頂いた箸、その一本を失ってしまったのです。家中ひっくり返し、家の下まで這いつくばって探しましたが、ついぞ見つからず。それでも夫は咎めもせず――

『なに気にするな。また買えばいい』

 と優しう笑い飛ばしました。その後間も無く、夫は後絶えました。これが片箸ゆえにあらずして、なにゆえでしょうか? 一本足せば、夫は帰ってくるかと思いましたが、不揃いの箸を拵えて何になりましょう?

 その片箸は、仏様の御前に据えて、夫が無事でありますように、明日は帰ってきますようにと、毎日欠かさず祈念します。しかし想い届かず、心が滅入り涙が出てくるばかり……。


「むう……」

 次郎は迷った。既に戸口を跨いだというのに、住ノ江は正座して背を向けており、気付きもしない。既に日も沈んでおるのに、紙燭(しそく)もつけずにいるとは、よほど参っているように見ゆる。

 (しわぶき)て音なふめれば、住ノ江はハッとして、次郎に向かって額ずいた。

高砂(たかさご)殿の生死にも至っておりませぬ。まこと申し訳なき有様です。されど使庁(しちょう)の者から聞き及んだのですが、どうやら夫君は、奈良山に下向したようであります」

 住ノ江はワッと泣き出した。そこで生きておるのか、息絶えておるのか、不穏に駆られたためである。次郎は話を続けた。

「げに訝しげなのは、高砂殿の親君から申状が届いているというのに、それも登らず滞っておるらしいのです。しかも、夫君は下文(くだしぶみ)すら承らで、口頭下達され、そのまま出立したようであります」

「なぜゆえに……」

「それは使庁の者も、露ほどもわからずとのこと。ゆえに、野僧はしばしお暇を申しに参ったのです。奈良山は山城との境。検非所(けんびしょ)にでも推参して、実否を確かめてきましょう」

 住ノ江は、自分も具して行きたかったが、目の前の法師の足手纏いになるのは一定である。体を折りたたみ、音をのみぞ泣く。

「どんな形であれ、夫君の消息は掴んで参りましょう。ただ、お心の設けは致しておいてくだされ」

 そう残すと、次郎は戸口を出た。見ていられぬほどの泣き様だったからである。今にも涙の川が、はらはらと流れ出てきそうな声であった。

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