住ノ江
「ぢゃ、お留守番よろしうお願いします」
壺装束の余所の方が、次郎に声を掛けた。市女笠を目深に被り、その縁から虫垂れが掛かっているので、その顔は見えない。
「夕餉と風呂の支度を、ゆめ忘れぬよう」
水干のもなかが付け加えた。このいと冷やき目は常のこと。それにしても毎晩欠かさず、蒸し風呂に入る不思議さよ、次郎は訝しんだ。
正門にあらじ、裏門より紅葉敷かれる林に出て行く二人。方塞がり故、一度別の方角へ進み、それから目的地に行く。今日はいずらへ、など訊ねないので、あの二人の向かう所は知らず。凡そ陰陽の料だろう。しばし余所の方は、公事とてもなかを具して大内裏へ参った。夏の暑う頃合は、その女童の神通力をもってして、氷室を冷ましていたらしい。
前栽の落葉を取り、筧の水垢を拭い、廂を拭き上げる。次郎は、散々こき使われているが、山の修行と比べれば、“何事かあらん”だった。ことに入峰すると、先達から地獄・餓鬼・畜生の三悪道の責め苦を味わされ、落命する法兄弟も少なくない。それを思うと、ここは極楽であった。ただしあの白子の嫌味を除けば、の話ではあるが。
「何しに、かかる者に使わるるぞ……」
掃除が終わると、渡殿に腰を下ろす。常にはここに控えて、天井に繋ぐ鈴が鳴れば、御前に伺候して用命を伺う。ただし余所の方からではなく、必ずもなかから言いつけられた。
「こはするな、かをせよ……などと申すが、機嫌次第で謂ひの変わっておる」
そうひとりごつ。強飯は出すな、姫飯を出せ。肴も多く作れ、されど肉や魚は臭うて出すな。食味は薄うなせなど、とりわけ食に五月蠅い。ある時、かまどに薪もくべず、よう火の起こる不思議さよと、貼り付けてある札を取ってみると、中の竈馬を逃がしてしまった。案の定、もなかからぐちぐちと嫌味を舐めた。
「さて、今日はいかがせん」
一服後、次郎は台盤所に向かう。食事の支度も、山での大切な修行であるが、はたして、都の佳人のお口に合っているのか、甚だ疑わしい。なぜなら次郎は、雑舎で一人食しているからだ。余所の方には、次郎がもなかに亦送し、もなかが供えている。まあ、食事を共にすると、作法だ何だと厄介で、腊も食えそうにないので、一人が良かった。それにしても――
『一日に米飯をニ膳ずつ頂くは、天上の栄花にも如かず』
影法師ゆえ粗食には慣れておるが、やはり屋根の下で、大きなる鉢にうづたかく盛る飯を食べておると、そう覚える。
「こはしつるわ! 切り大根を切らしておる」
次郎は丸頭を叩いた。
『ささら様は、柚の汁してあへしらふのを、まこと好んでおられるので、旬の間は出すように』
と、もなかから言いつけられていた。供えること能わずは、また何と言われることやら……。
急ぎ次郎は、盛りの過ぎた西の市まで立ち走ったが、神仏の加護も無きにやあらん、これを得ることができなかった。あの冷き目で嫌味を申すもなかの顔が、よう浮かぶ。せめて索餅でも買って帰ろう。あの女童は、菓子などに目がなかったからの。あの時の、“下がり”を食らっておった姿を見れば、すぐにわかる。
「む?」
天も傾きかけた時分、とある川辺で――あは女子であろうか、屈んで何かをしておる。次郎が小手を翳して見ると、その人は袖に石を詰め込んでいるではないか。
「すわっ、こはいかん! そこなお人!」
馬の足掻くが如く駆け寄り、次郎はその手を取る。女子は大いに驚くが、身を投げる心は変わらず暴れた。
「止め給え、もはや憂世に未練はございませぬ!」
「いかにも事訳ありと見ゆる。せめて話だに聞かせてくだされ!」
「見知らぬお人に、なんの――」
もがきにもがくが、所詮女子のか細い力では、何もできない。小柄とはいえ、影法師に手首を握られては、岩に繫がれたにも等しかった。石をホロホロと落としながら、小道に引きずられると、女子はワッと泣き出した。
「むう、夫が跡絶えて久しいと? そ人はいかなる者で?」
「あの人は高砂の者で、その家柄を尋ねれば、男子は代々弾正台に補せられ、嫡子は高砂と呼ばれております。夫は検非違使の末座に据えられ、日々都の非違を改めておりました。あれは夏の日でしたか、或る沙汰を追うとのことで、いつも通り見送ったが最後、それっきり家に帰らぬのです。私は庁に上って尋ね申しましたが、女身なんどは相手にされるわけもなく……」
松の木蔭に腰を下ろし、遠い空を見ながら語る住ノ江。衣は粗末であるが、見目形は卑しからぬ姿で、一旦は止まった涙が今一度目尻に漲りつつあった。
「その沙汰とはいかに?」
「私には露ほども知りませぬ。なにせ、夫は事を話さないので……」
「事の他、何か存疑すべきことはありますか?」
「いいえ。妻が申すのも憚れますが、夫は直なる人で、酒や遊び事などはせず、よもや他の女に走るなどありえませぬ。何より、私に何もおっしゃらず、忽然と姿を消してしまうのが不思議のことで――」
検非違使とあらば、何かに巻き込まれることもあるであろう。太刀を交えて、そのまま切り殺されておるのかも知れぬ。
「今は寝ても覚めても夫の身が気がかりで、野良の手もつきませぬ。親を見送った私にとって、木の下もとなるは、あの人のみ。もし夫が既に仏様に召されて、かかる憂き目を見続けるのならば、私も来るべき世を迎えて、契りを今一度交わそうとしていたのでございます」
やう〳〵潤み声になる住ノ江。こはいかん。このまま思い詰めては、また水に身を投げ入るぞと次郎は感じた。
「なるほど。こはただごとにあらじと覚えました。ここは一つ、野僧にお任せあれ。知りもせぬ小僧を訝しげに思われるかも知れませぬが、人の跡問うのには慣れておりますゆえ。子細を尋ねて、今一度参りましょうぞ。それまで、ゆめ早まったことをしでかしてはなりませぬ。夫が帰ってきた折、妻がおらぬとなれば、今そなたのお気持ちを、そのまま夫に着せることになりますからな」
その言葉に、なす術もない住ノ江は喜んで額ずいた。夫のいないこの世なぞ、生きる値打ちも無いと思っておったが、目の前に仏の権化が顕れた心地がしたのであった。