上洛
世に影を厭ふ者あり。晴れに出でて離れんと走る時、影離るる事なし。 『宇治拾遺 六・八』
「やよ御房。あが天王山ですぞ」
鞍上の代官が、指差して小僧に言いかけた。次郎は小手をかざして翠微を見遣る。あれを超えれば山城の国か。筑前を出でて、都へ上ること数ふれば、四十九日となる。
「つらつら事を案ずるに、思い切ったことをした」
そうひとりごつ。国衙で寺の用命を済ませて帰山の途中、運上の列が滞っておるを見るに、聞けば警護の武官や侍が足りぬと言う。担夫五十余人、馬と牛はその半数。さあれば卅余程おらねば心もとなきに、十余人も足らない。
『御心やすう、おぼしめされ候へ』
そこで次郎は侍僧と偽って、運上に加入した。障りなく都まで運んで、代を受ける。背丈短く、墨染浄衣にしら杖のみ持つ故、代官以下『さしも猛き者には見えじ』と訝しげであったが、次郎は影法師、腕に覚えはあった。
『草履はよく馴染んでいるか? わずかの合間も脱いで足を休めよ。痛む時は、足裏に塩をなすりつけて、火で炙れ』
『西風がある。そのうち一雨降りますぞ』
『旅路の色欲に溺れるな。遊君は性病をお持ちであろう』
やがて代官は、この小僧を『こは只者にあらじ』と見抜いた。小冠ほどの齢であろうが、やけに旅慣れている。それだけでない。昼はうち寛ぐことなく、夜もやすくも寝ず、虎の目を光らせる。今も牛に積んだ俵から、舂米を盗み食った担夫を睨みつけたではないか。
京に近づくにつれ、おぼつかない風聞が届く。輓近、徒党が貴族を路上で襲い、また蔵に押し入って火を放ったとか。運上の歩荷なんどは、ひったくれと言っているのと同じ。
「ふむ……」
さりとて、先を案じてばかりでも、げに詮なきこと。気晴らしに、代官は旅情の一つでも口ずさむ。
「皆人は 旅に出で立ち 秋水の――」
それを傍で聞く影法師の次郎。このお方は、事あるたびに一首朗吟なさる。風流なお人よ、そう呆れたが、そこはかとなく歌の心がわかった。
秋にもなれば、野分の一つや二つが通る。そうなると川が出水し、棚橋や仮橋は流され、しばし逗留となる。それに厭飽た人が、『はや川止めの関を解け』と官吏に押し掛けた。
また代官を困らせたのは、“水あたり”だった。国を跨げば水も変わるもので、飲めば腹具合が悪くなる。あれは安芸だったか、人々が多く腹を壊して、運送を止めなければならなかった。かといって、担夫を干上がらすわけにもいかない。澄んでよく流れている水は飲ませた。どうしても渇く者には、胡椒を砕いて飲ませた。暑い日には、田螺を醤油で炒り煮にして食べさせた。これで弱い腹の水あたりは防げる。
「秋水の……御房、下の句は続きますかな?」
「いえ、野僧にはさっぱりです」
すると代官は、旅硯と懐紙を取り出し、続かなかった歌をしたためた。そしてチラと次郎を傍目見る。
ふむ、歌の方は心得ぬか。確かこの僧、豊前が彦山、西號寺と申したの。わしは雑掌の出だが、さような寺号はあったか? 僧綱からも聞いたためしもない。そもそも彦山は鎮西第一の霊山。年中霞深く、岩ども峙ち、竹林繁茂とし、虎も出る。かかる山に、道場を切り開き、修行しておるとは如何なる者ぞ。もしや……?
「御房は、彦山の西號寺でありましたの?」
「は」
「侍僧と申しておったが」
代官はここで一拍置き、次郎の顔をしかと観下ろしながら――
「影法師であるか?」
と試しに問うた。次郎は眉根を寄せ、目も細めた。
「……さようなものは知りませぬ」
「いやなに案ずるでない。わしは昔日の沙汰は気にも留めておらぬし、信じてもおらぬ。むしろ心やすう覚えておる」
「……」
そこに前導の下役人が駆けてきた。曰く、怪しげなる奴原が道塞ぎ、止まれと申しておると。次郎は先を見遣った。驚いた代官は、そちらへ馬を急がせる。
「馬上に見ゆるは、綱領殿におわすや?」
「いかにも。遠の朝廷より代を仕る者よ。して汝は誰そ?」
「先の右馬の少属が後胤、山城の住人、久我元紀と申す。今より路地検分を致す」
代官は驚いた。我方は勿論、己が徒党にも武威示すがごとく大仰に申しておるではないか。見れば、無頼ばかりを十余人ほど従えている。
「なんと⁉︎ 荷の検分とな? 関にもあらじ、さような――」
「こは関であるぞ。今より関になり申した」
久我元紀は、いやしう笑って徒党に振り返った。遅れ歩いてきた次郎が見ると、代官は苦々しい顔になっている。こは路次狼藉にあらずや。検分なんど申しつつ、難癖つけて押し取るに違いない。上荷の馬や牛も多く、逃げることはできぬ。かといって、返事次第では、切り合いになる。
坦夫や下役人はわななき、警護の者は前に出ていた。見かねた次郎が言い掛けた。
「いかがいたします?」
「むぅ……やむを得まい。流血沙汰なんどはもってのほか。米は余分にある故、袖の下――」
「いけませぬ。我方の尻に、ひしと取り付く訝しげな者がゐます。大方、野伏の物見でありましょう。ここで抜かりを見せたら最期、天王山にでも潜んでおる本隊に、命までばひ取られましょうぞ」
次郎は野伏どものやり口を知っていた。物見が山越えする一行を見定め、山岳の撓に埋伏する本陣に知らせる。険峻な道で一行の前後を塞ぎ、追い剥いで森林に遁走する。
「では如何にすれば……」
「ここは一つ野僧をご覧あれ」
次郎はしら杖を回し、前に打って出た。国を出てから、ただ歩くのはもう厭飽た。何か振わねば、腕が鈍って調子が出ぬ。これを見た久我元紀は今一度笑った。
「こは如何に? 小僧が出てきおったわ。下がれ下がれ、お主に言うても事訳わからぬ」
「下がるのはお主ぞ。痛い目に合う前に、とう〳〵往ね」
「ぬははは、勇ましい小僧めが! 腕の一本でも切らねば、わからぬと見える」
久我は太刀を抜いた。そのまま喚き叫んで、次郎に駆けるが、鋒を打ち下げ、土に切り籠めてしまった。次郎は久我の脇下を突い潜り、振返り様にしら杖で折烏帽子を打じ落としていた。
「なんと⁉︎ ぬぅう……男子を辱めるとは、小癪な味噌すり坊主かな」
露頂を隠しながら、久我は怒りに震えて、落ちた烏帽子の緒を締め直す。
「だから往ねと言うに。次は容赦しない」
久我が土の太刀を拾うや否や、間を詰められ、次郎のしら杖で顎を打ち付けられた。そのまま倒れて足掻き、激痛に喚き叫ぶ。
「ああ打ったり打ったり、奴は曲者かな!」
久我の徒党に動揺が走った。いずらの僧か知らねど、あの手際は只者にあらじ。如何せん? 頭目に誘われるまま、難なく租庸物を奪って、酒宴でも開くはおろか、返り討ちにあらずや。こは束になって寄せても勝ち目無いぞ。
次郎にはわかっていた。頭目の久我とやらは、今はあさましく臥して地を舐めておる。そして、しゃつらは血や忠で結ぼれた武門にあらず、所詮は損得勘定の縁。日比腕っぷしで威張り散らしておれば、尊ぶ者はなかろう。であれば、誰が助けるか。
「次の相手はいずれぞ?」
次郎は、徒党らを睨みつけた。あとは数ならず。すでに誰もが及び腰、虎に睨まれて歩み寄られる心地となっていた。堪えず、一人が逃げ出した。一人逃げ出せば、後はもう我も我もと命惜しさに同じ道を辿るのみ。あはれ、地に伏す久我をおいて他、皆算を乱して逃げ散った。
運上の人々は、手を叩いて喜んだ。代官が次郎の元に馬を寄せる。
「致したり。して奴は殺したか?」
「あの程度では死にませぬ。されど、しばらく物は言えんし、食えんでしょう」
「召し取るべきにやある?」
「いえ、あのような無様では、根城に帰っても爪弾きになる事一定。頭目として終わりでしょう」
「左様か……やよ、人〻! 定めて肝を潰したであろうが、旅を続けようぞ! 行程に遅留があってはならぬ。日が入る前に、山を超えるぞ!」
代官は声を張り上げると、担夫どもは下ろしていた荷を背に乗せつ、牛に鞭を入れつ、行列はノロノロと進み始めた。次郎は、殿に向かって歩き始める。
「野僧は今より野伏の物見でも、追い立てて参りましょう」
円顱で丈短の背丈に、代官は心たのもしう覚えた。馬の向きを変える時、久我の伏し姿が目に入った。既に絶入っておるのか、つゆほども動かぬ。昨日までは徒党の頭目、今日は討ち伏せらるる無残さよ。
「常なき世とは、このこと」
そこに無常の秋風が吹きすさぶ。国を出しより日日並べて、今はもう肌寒くなっていた。