手袋 -3-
翌日、日曜日、僕は港へと足を運んだ。本当ならば、ウミの代わりに、ここから打ち上げ花火が上がる筈だったんだろう。係留場は決して広くはなかったが、それでも数多くの漁船が碇泊していた。僕は、船を一つ一つ覗きながら、野辺を探した。
「おい、こっちだぞ」
声のする方を見ると、野辺が僕に向かって手を振っていた。僕は少し早足で、野辺の漁船に向かった。
船は、いわゆる、イメージ通りの漁船で、突堤…というか桟橋には船尾が向けられており、簡素な橋…というか板が掛けられていた。この板を渡って乗船するらしい。
「これが、野辺の船?」
「俺の親父の船、な。外にいると目立つから、早く船に乗ろう」
野辺は器用に板を渡っていった。僕は一本橋が不慣れで、及び腰でゆっくりとバランスをとりながら甲板に上がった。
「意外と揺れるんだな…」
野辺は笑った。
「定員七人の漁船だから、まあ大きい方ではないからな」野辺が言った。「それと、その橋だけどさ、木百合も渡らなきゃならないんだぜ? 俺と圷で手を貸すとして、お前には慣れておいてもらわないとな」
そうか…。確かに、そうだ。ウミは左手しか使えない。もし、海に落ちたら、大変な事になる。
野辺は、先に設備を一通り説明する、と僕に告げた。
「僕が運転する事が、あるだろうか…」
「それは解らないけれどな。ただ、この港から陸までは二時間以上はかかるだろうし、他の船舶に気づかれないように行かなきゃならないから、最低限の知識は持っておいた方がいい」
「漁船って運転免許要るの?」
「当然。この船は二級の免許が必要だけれど、俺も持ってない。親父の免許があるだけだ」
なんだ、野辺も無免許運転か。
野辺は、操舵室を中心に、甲板を一周、一緒に回るように指示してきた。
「今回の目的は島外脱出だけだから、操舵室よりも前に出る事はまずないだろうけれどな」野辺はそう言うと、複数設置されているパトライトのような電灯を指差した。「海上なんたら予防法だかで、漁船には義務付けられた灯火設置が存在する。ランプを切らすと小型船舶機構なんかがうるさく言うやつだ」
野辺は、操舵室から生えている一本の角のようなポールに取り付けられた電灯と、操舵室の左右に目玉のように取り付けられた二つの電灯について、それぞれマスト灯、舷灯だと教えてくれた。
「舷灯は、進行方向から右側が緑、左側が赤。それだけ覚えておけばいい」
「ウインカーみたいな物かな?」
「ちょっと違う。他の船舶から、この船がどの向きに進行しているかを認識させるのが目的だ」
「ああ、なるほど。でも、他の船舶に視認させる、という事は、この電灯を点けていると目立ってしまうんじゃないだろうか」
野辺は、ニヤリと笑った。
「当然、脱出をするときには全ての灯火を消灯するさ。違法だけどな」
「全部消灯しちゃうと、運転するときに前が見えなくなるんじゃないのか?」
「車じゃないんだ。ヘッドライトの役割をする物はない。船の灯火設備は自分たちが何かを見るための物じゃなくて、飽くまで他の船舶から見えるようにするためにあるのさ。今回、海域には他の船舶は一切いない前提だから、消灯して問題ない。逆に言えば、これらの灯火が視界に見えた場合、他の船舶がいるって事になる。だから、覚えておいて欲しいってことさ」
なるほど…。
「この…突き出してる、触角みたいなものは?」
僕は、操舵室の左右から前方に向かって大きく伸びている、二本の釣り竿のお化けのような物を指差した。
「この船は曳き縄漁船だからな。漁をする時はその二本を船の左右側面から突き出すように展開して、曳き縄を垂らす。つまり、今回使う事はないよ」
それから野辺は、アンカー…思ったよりもずっと小さい…や救命浮き輪や赤バケツ…結局何に使うかは解らなかった…などを一通り説明した後に、操舵設備について教えてくれた。
興味深い事に、ハンドルは、いわゆる舵輪の形をしていた。存外にこの形が合理的なんだろうな。そのハンドルを中心に、右側にレバーが二つ、ダッシュボードにメーター類と、何やら液晶画面が複数設置されていた。
「エンジンはここに鍵を差し込んで、右に回してかける。原付と同じだな」野辺が言った。「レバーはクラッチとアクセル。この並んでいる液晶画面は、魚探とレーダーとプロッターだ。今回使うのは、レーダーとプロッター」
野辺は、それぞれ、周囲の障害物や船を探知する装置、車のカーナビみたいな装置、と説明した。
「プロッターに目的地を登録しておけば、暗闇でも航行できるって訳か…」
「その通り」野辺が言った。「後で話すが、具体的な目的地の目途はつけているから、脱出当日までに登録しておくさ。よし、じゃあ船室に入るぞ」
「船室?」
この狭い漁船に船室があるのか?
野辺は、操舵ハンドルの左側、プロッター液晶画面が設置されたダッシュボードの真下、前輪駆動の自動車で言えばエンジンが入っているのではないかと思われる場所の壁面に設置されている取っ手を掴むと、上向きに大きく開けた。驚いた事に、そこには隠し階段があり、地下室? に降りられる様になっていた。左右に小窓があるようで、中は充分に明るい。
野辺と僕は、数段の階段を降り、船室に入った。正直、座っても頭が天井につくくらいの狭さだが、毛布が置かれており、横になって睡眠をとったりできるようになっている。
「ここなら、木百合を潮風から守りつつ、横にしてやる事ができるよ」
野辺が言った。僕は、隅に転がっている黒い物体を手に取った。
「これは? 枕?」
「それは、膨らませる前の黒色球体形象物だ。枕代わりに使えるよ」
こくしょくけいしょう…なんだって?
「ありがとう。色々、考えてくれたんだな…」
僕が言った。野辺は、鼻を鳴らした。
「いや、本題はこれからだ。今日、この場所で、できるだけの事は打ち合わせしておきたい。まず、木百合の体調がどうか、が一番の問題だけれど…」
「島に帰ってきて、まだ一回しか浄化はやっていないけれど…今のところは、大きな変化はなさそうだよ」
「そうか…。決行をいつにするか…なんだけど、来週の金曜日の夜中を考えてるんだが、大丈夫そうだろうか」
一週間後か…。浄化作業は三回。今の調子であれば、なんとか大丈夫そうだ。ウミの誕生日も終わってるし、タイミング的には良いのかもしれない。
「平日と土日だと、どっちの方が有利だろうか?」
「さあな」野辺が言った。「だけれど、今回金曜の夜中を選んだのは、さっき言った目的地に関わってくるんだ。何かというと、委員長に迎えに来てもらう事を考えてる」
委員長に?
「それは僕も考えたけどさ…。委員長は古杜の人間だぜ?」
「実は、既にアメリに連絡をして貰っていて、委員長の承諾はとれてる。委員長としても、学校が休みの方が動きやすいだろうからな…。それと、もし陸の病院を頼るなら、土曜日の午後や日曜日だと開いているところが少ないだろう」
合理的な判断だ。ただ、古杜家の跡継ぎの二人が主導して逃がしたとなれば、古杜の伝統は崩れ去る事になるだろう。そこまでのリスクをアメリと委員長に負わせてよいのか、と思いながらも、その伝統の犠牲になったのはほかならぬウミなんだ。一般の病院に診せる事ができれば、そこから事件化できるだろう。何しろ、今回の出来事は、明らかな人権侵害なのだから。燐光石は、いくつか持ち出せるようにしておくべきだろうか。成分の分析ができれば、あの島で起きている事が何なのか、解るはず…。
「ありがとう。それでいこう」僕が言った。「無事に委員長にウミを引き渡す事が出来たとして…僕も野辺も、島にはもう、戻れないな」
「お前と木百合は置いてくるとして、俺は戻るよ。親父に漁船を返さなきゃいけないし、島で少しでも追跡の足止めをできるとしたら、その役割を果たせるのは俺しかいないだろうしな」
そうか…。結局、みんな離れ離れになってしまう。それに、野辺にそこまで負わせるのは申し訳ない気がする。
「野辺は、どう思ってる?」僕が言った。「住民の半数が島外退避して、僕らだけ残された。でも、噴火はしていない。いずれ、島にいる住民にも、燐光石の毒の影響が現れるんだろうか」
「さあな…」野辺が言った。「ただ、その想定がなければ、半数だけ外にだす、みたいな判断はなかったと思ってる。少なくとも俺は、その覚悟をしているつもりだ」
でなければ、燐光石の浄化を、ウミの生命を蔑ろにしてまで急ぐ納得のできる理由がない。もし、最後まで浄化をせずにウミが島から出た場合、島民の命は脅かされるのだろうか…。だとしたら、ウミは脱出を納得しないだろう。軍事機密…って、もしかして、燐光石の毒の事なんだろうか。




