9 リリアは動揺する。
数分後に馬車が止まったのは最近アレンが譲られたという私邸の前だった。
リルド侯爵が現役の軍人だった頃に使っていたという二階建ての屋敷で、周囲は背の高い鉄の柵で囲まれ、狭いが庭もついている。
馬車の中では、キースがキリア自治区の食文化について、アレンにあれこれ質問していた。リリアは微笑を浮かべ、時折相槌を打ちながら、二人の会話をただ黙って聞いていた。
兄が一緒についてきてくれて良かったと、リリアは心の底から思った。自分一人では全く会話が続かなかっただろう。……子供の頃は、どうだっただろうか? そんなことをふと思う。そして、気付いた。リリアがアレンと二人で話したことなど、ほとんどなかったのだと。
門の前で馬車が止まる。
御者がドアを開けると、門の前で待っていた人物が、胸に手を当てる敬礼で主人と客人を迎えた。軍服を身に着けているが、剣を持って戦うのではなく、書類仕事を専門としている役職についているだろうと一目でわかる、知的な雰囲気を持った男性だ。白銀色の前髪をすっきりと撫で付け、眼鏡をかけている。
「ルークお兄さま、お久しぶりです」
アレンにエスコートされて馬車を降りたリリアは、弾んだ声でそう言うと、精一杯美しくお辞儀をした。
「お久しぶりですね、お嬢さま。……今日は何とお呼びすれば?」
「……今日はリリアでいいみたいですよ。前回リリィでしたけど。もうややこしいからやめたみたいです、中身入れ替わったよ設定。自分で言い出しといて、トマスさま自身がなんかもう面倒になったみたいで」
キースがうんざりしたように言った。「今日はもうリリアでいいよ」と、軽い感じでトマスに言われたのはそういう理由だったのかと、リリアはがっくりきた。
「まぁ、トマスさまが何を確かめたかったのかは大体想像つきますけどね。……もし、気付かなかったら、もう二度とガルトダット伯爵家の敷地には入れなかったでしょうね」
ルークがちらりとアレンを見る。アレンは気まずそうな表情をしていた。
「顔が違うんですから、普通にわかりますよ。意味わからない設定に付き合わされるこっちの身にもなってほしいです。まったくもう……」
キースが不満をぶちまけている。リリアも全く同感だった。本当に、突拍子のない思い付きに人を巻き込まないで頂きたい。トマスももういい大人なんだから、面白ければそれでよしという考えで行動するのはやめて欲しい。
「トマスさまはお二人が困った顔をするのが、かわいくて仕方がないのですよ」
「面白くて仕方がないの間違いですよね」
『不服だ!』と、顔に書いてある二人を見比べて、ルークは苦笑した。
「さあ、どうでしょうね? ……そろそろ門の中に移動しましょうか。まずはお庭へご案内いたします」
ルークが先に立って歩き出した。キースとリリアが後に続く。アレンは別行動のようで、その場から動かなかった。
ルークはアレンの従卒で、もともとは商人の息子だ。子供の頃にリルド侯爵に預けられ、年が同じということでアレンの近侍となった。元王族の近侍となるくらいだから、彼もとても整った顔立ちをしている。
アレンが伯爵家に遊びに来るときには、必ずルークを伴っていた。
リリアは使用人のつもりだったから、アレンより、同じ身分のルークに親近感を抱いて懐いていた。リリアがルークと一緒にいたがるから、自然とリリィお嬢さまもルークに懐いた。二人がルークから離れなかったため、アレンはトマスとキースと一緒にいることが多かったのだ。
リリィお嬢さまとリリアがルークにくっついていた理由は簡単だ。一番優しくて何でも言うことをきいてくれたからである。ままごとだろうが、人形遊びだろうが、お花遊びだろうが、ルークはいつでも二人が飽きるまで笑顔で付き合ってくれた。花冠だって喜んで被ってくれた。
トマスとキースはそういう『女の子の遊び』には付き合いきれなかったから、正直ルークが妹の面倒をみてくれて助かっている様子だった。少年たちはアレンに木登りや、剣の扱い方を教えてもらっている方が楽しかったのだろう。
ルークは娘たちの子守りをしに伯爵家にきているようなものね、と、イザベラは笑っていたものだ。たいていルークの右側にリリィお嬢さまが、左側にリリアがひっついていた。
――ルークが、リリア達と出会う数年前に、両親と双子の妹を水難事故で亡くしていたと知ったのは、もう気安く手を繋ぐことができない年齢になってからのことだ。
門の中に入ってから、三人が並んで歩けるようにとルークは歩調を緩めた。
「ルークお兄さまもお変わりなく、安心いたしました」
「リリアさまはこの半年の間に、とても綺麗になられましたね」
ルークがそう言って穏やかに微笑むと、キースがあからさまに驚愕の表情を浮かべてみせた。
「ルークさんが女性を褒める言葉をお持ちだとは、思ってませんでした。キリアで女嫌い克服したんですね」
ルークの女嫌いはかなり有名だ。近くに寄れば虫けらを見るような目を向けられるため、軍属の女性ですら声をかけるのを躊躇うらしい。白銀の髪と水色の瞳を持つ彼は、冷酷非道な氷の魔王と揶揄されているとトマスが言っていた。まっすぐに見つめられた相手は凍りつくのだそうだ。
ルークもアレンと共に三年間キリアに駐在していた。そこで彼の女性観を変える出来事が――
「全く克服していませんよ」
なかったらしい。
「失礼を承知で申し上げますと、リリアさまとリリィお嬢さまは、私にとって妹のような存在ですので」
「私はお兄さまがたくさんいて幸せですね」
リリアは微笑んでルークを見上げる。
「キース君が私に靡いてくれれば、本当の兄になるんですけどね」
ルークの恋愛対象が、華奢な少年であることも有名な話だった。キースはルークの好みのど真ん中ということになるようだ。
「兄は、トマスさまの事が好きなんだそうです」
ふふふっと笑ってリリアが冗談めかして言うと、ルークはにっこりと笑い返してくれた。
「では、私にもチャンスがあるということですね」
「ないですからねー」
キースは慣れた感じで受け流した。二人ともルークが本気で言っている訳ではないとわかっている。ただの言葉遊びだ。
「フられてしまいましたね」
大してショックを受けた様子もなく、ルークは軽い感じでリリアにそう言った。
「私も今日、キースお兄さまにフられたので、一緒ですね。……リリィお嬢さまに、結婚する前にキースお兄さまに告白しろって言われて、そして見事にフられてしまいました。結構傷ついたんです。これは失恋の数に入るのでしょうか?」
リリアが明るい声でそう返す。ルークは水色の目を細めた。
「そうですね……どんな風に告白なさったのですか?」
「リリィお嬢さまが考えたんですよ」
リリアはあまり深く考えずに、先程諳んじた台詞を――
「えっと確か、私はお兄さまのことを、ずっと長い間……って――え? えぇええ~?」
言えなかった。
突然真っ赤になって立ち止まり、おろおろし始めたリリアを、不思議そうな顔でルークが見ている。
よくもまぁ、恥ずかしげもなく言ってのけたものだと今更思う。
……そうか。とにかく早く終わらせてしまえとそればかり考えていたし、相手がキースだったからか。あの時はただの言葉の羅列でしかなかったのに、頭が意味を理解してしまったら、突然ものすごく恥ずかしくなった。たとえキースが相手でも二度目は無理だ。
リリアは両手を頬に当てた。顔が熱い。ああ、この気まずい状況を早く何とかしないといけない。キースに助けを求めようとするが、兄はどういう訳か先にどんどん歩いて行ってしまう。
「リリアさま? ひょっとして……今になって恥ずかしくなってしまわれたのですか?」
キースの背中と、真っ赤になったリリアを見比べて、ルークが困ったような顔をしている。
「……はい」
多分、ルークの考えていることは少し違うような気がする。でも、もうそういうことにしてしまえ。気持ちを切り替えて、まずはこの真っ赤な顔を何とかしなければ。
「あの時は、意味なんて深く考えていなかったんです……。ちょっと待ってくださいね。すぐに落ち着きますから」
両手で顔を隠し、リリアは大きく息を吸った。平常心平常心と、心の中で呪文のように唱えながら。
……時々、お嬢さまって本っ当に恐ろしいなと思う。
さくさくと一人で先に進みながらキースは思った。多分、庭はこっちの方角だろう。
あの時、白薔薇のアーチの下でリリアがたどたどしく言った台詞が、誰を想定して誰によって作られたものか、キースにはすぐにわかってしまった。仕込まれていた火薬がここで爆発することは、さすがに想定外だったろうが。
嫌がらせもここに極まれりだなぁと、キースは空を見上げる。一体誰が、このタイミングでルークを送り込んできたかは知らないけれど。――トマスは自分は何も企んでいないと言っていたから、違うのだろうか。
――もう一体、誰が何をどうしようとしているのか、さっぱりわからない。
とりあえず、愛の告白はできなかったようだ。まぁ、婚約者の家で、他の男性に愛を告げてどうするんだという話だが。……あのまま勢いで最後まで言ってしまえば面白かったのに。
……あ、思考がトマス寄りになっている。これはよくない。
恐らく泣きそうな顔で助けを求めているであろう妹のために、キースは仕方なく立ち止まった。小さくため息をついて背後を振り返る。
「……因みに俺は、いつも通りの定型句で丁寧にお断りさせていただきました。聞きます?」