8 婚約者は惑う。
初デートだというのに、親の葬式にでも出て来た後のように憔悴しきった婚約者を見て、挨拶の言葉を口にしようとしていたアレンは絶句した。
リリアは袖の膨らんだ襟の高いワンピースに花飾りのついた帽子という、王都の若い令嬢の間で定番の装いだった。世界各地から最先端の流行が入ってくるキリア自治区にいたアレンにはやや古臭く感じるが、精一杯のおしゃれをしてくれたのはわかる。しかし、いかんせん顔色が悪かった。
リリアを伴って玄関ホールに現れたキースは、三つ揃えのスーツを着ていた。いつも隙なく完璧に身なりを整えている彼にしては珍しく、急いで着替えたのかズボンの裾が一部めくれており、髪もやや乱れ気味だった。そして、全身から疲労感がにじみ出ていた。
「……ええと、随分お疲れのようですが。何かありましたか?」
アレンはフロックコート姿だった。その隣には護衛として同行している軍服の青年が姿勢よく立っている。
「今しがた兄に人生初の愛の告白をしてフられました」
婚約者は、多分深く考えることなく素直にそう言った。ぎょっとした顔をしたのは、護衛の青年だった。アレンは笑顔を崩さなかったが、口元が引きつるのを止められなかった。
「……不可抗力です」
普段より随分低い声で、俯いたままのキースが言った。肩が震えていた。
昔から人の機微に敏い子だったから、先日馬車の中で、手紙の件を知ったアレンが少し苛ついていたことを感じ取っていたのだろう。怖がらせてしまったらしい。
「いや、怒ってないから。大丈夫だよキース。そんなに怯えなくても……」
アレンはつい昔の癖で、年の離れた弟にするようにキースに呼びかけた。
「怒ってるじゃないですか怒ってるじゃないですか怒ってるじゃないですかーっ」
キースは精神的疲労からか、アレンが昔のように呼び掛けたせいなのか、若干幼児退行していた。しかし、アレンは本当に怒っていなかった。まぁ、何らかの妨害はしてくるだろうなと予測していたからである。
「……だいぶ壊れてるな」
顔を上げようとしない二人を見て、アレンは苦笑を浮かべた。護衛の青年が困惑した様子でアレンとキースを見比べている。
「お芝居の練習だろう? ……そういうことにしとけばいいさ」
「……お芝居……お芝居?」
アレンの言葉を呪文のように唱える内に、キースは落ち着きを取り戻したらしい。彼が顔を上げたタイミングでアレンは尋ねた。
「ところで、誰か付き添いは?」
普通女性の外出には女性の使用人が付き添うものだ。アレンは玄関ホールを見渡したが、少し離れた場所で控えている家令のジョージの他に使用人の姿は見当たらなかった。
「俺が一緒に行くから付き添い人はなしということみたいです。基本うちは人手が足りてないので。あと、当主が挨拶は不要だと。……笑いすぎてお腹が痛いらしいです」
拗ねたような目をしてキースがふいと横を向いた。つまり腹筋が痛くなる程笑ったということか。
仕事中は私と言っている一人称が普段使いの俺になっていたが、アレンはそのままにしておくことにした。
キースは相変わらず、気持ちいいくらい素直でまっすぐな心の持ち主のままだ。特殊な出自と珍しい髪と目の色のせいで、民族主義が根強いこの国では蔑まれ続けただろうに、変に屈折することなく育った。
トマスがキースをずっと守っていたからだ。
あからさまにキースを侮蔑するような相手に対しては、わざと愚鈍な人間であるかのように振る舞い、『放蕩伯爵の息子』を貶める方向に会話が進むように誘導していた。自分が泥を被ることで、キースと……社交界デビューした妹を守っていたのだ。
若きガルトダット伯爵は本当にキースと妹たちを大切にしている。危害を与えたと判断した者に対しては容赦ない。
――身をもって思い知る日が来るなんて、思ってはいなかった。
「……まぁ、行先は私邸だから、何かあればうちのメイドに世話をさせるよ」
「デートですよね?」
「今日はうちでおいしものを食べる日。じゃあ行こうか。外に馬車を待たせてあるから」
おいしいものと聞いて、素直にキースの目が輝いた。伯爵家の財政は安定してきたとはいえまだまだ余裕がない。社交に関する費用は削れないため、毎日の食事がどうしても質素になると聞いている。キースにはいつも量が足りないのだろう。
「……アレンさまって、本当に出来た人ですよね」
子供の頃のように、キースは純真無垢な目をアレンに向けていた。幼児退行は加速していた。
「……うん? いや、そんなことはないよ?」
アレンは、一瞬息を詰め、思わず苦笑する。胸が痛んだのは罪悪感からだ。それを振り切るように、リリアを振り返る。そして、まだぼんやりしている彼女に、手を差し出した。
「……リリアさまも、一緒に行きましょう。今日はリリアさまとお呼びしても?」
パチパチとゆっくりと目を瞬いて、リリアはとても不思議そうな顔で差し出された手を見ていた。何故アレンが自分に手を差し出すのか全く理解できないというように。それでも、おずおずと頷いて自分の手を重ねる。リリアが嫌悪感を示さなかったことに、アレンは心の底から安堵していた。
その時、ふっと頭に浮かんだのは別の女性の眼差しだった。アレンの手を取るとき、恋い慕う色を隠そうともしない菫色の瞳が甘く輝く。
――胸に押し寄せたのは、喪失感と静かな哀しみだった。
「行ってらっしゃいませ」
ジョージが丁寧に頭を下げた。そして、そういえばと思い出したように言葉を続けた。
「最近裏の畑に野菜泥棒が出没するのです。深夜に起きている者が、人影を見たとかで」
「……わかった、こちらで対処するよ」
アレンはすっと目を細めた。自己憐憫に浸っている場合ではないようだった。