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5 婚約者がやって来た。

 ガルトダット伯爵令嬢には婚約者がいた。七つ年上の騎士アレンである。

 この人も先代伯爵の醜聞により多大なる迷惑を被った内の一人だった。

 

 アレンは国王と女性兵士との間に生まれた子供で、王族の血を引いてはいるものの、母親の身分が低いため王子を名乗ることが許されなかった。

 そんなアレンの身を預かったのが、軍の高官であったリルド侯爵だった。トマスの祖父に当たる人物である。その縁で、アレンは将来ガルトダット伯爵家の娘と結婚して、リルド侯爵が持つダージャ領を授けられることが決まっていた。

 ――リリィお嬢さまが生まれる前の話である。


 伯爵家がガタガタしている間、アレンは軍の判断で王都から離れていたが、最近王都の近衛騎士団に戻された。

 伯爵家の娘二人は十七歳になっていた。


「で、どうだったの? 気楽な田舎暮らし」


 アレンは、トマスより二歳年上だが、身分は下になる。

 早くに王室を抜けたアレンは、自分の血筋に全くこれっぽっちも誇りもこだわりも持っていなかった。そして、士官学校を出て軍人となった彼は、周囲の煩わしい雑音を蹴散らすだけの実力を持っていた。 


 今身に着けている白い軍服も、隊長以上に許された儀礼服である。先日まで駐在していたキリア自治区は帝国との国境で、人の出入りが激しい。この国一番の大きな港も持っている。トマスの言うような気楽な田舎暮らしでなかったことは確かだろう。

 何となくだが、今日はトマスの機嫌が悪い気がする。言葉や態度に棘を感じる。何かあったのだろうか。リリアは居心地の悪さを感じて、小さくなっていた。


「文化や流行に色々な国の影響が見て取れて、そこは面白かったですね。王都よりも自由な気風で、人々も大らかな感じでした。商人の作った街だったからでしょうね」


「ふーん。気に入ったのならずっと戻って来なくてもよかったのに」


 皮肉気な微笑を浮かべてトマスがぼそりと言った。リリアはその声の冷たさにひやりとした。


(一方的にトマスさまが、アレンさまに対して怒っていらっしゃる?)


 二人の間に何かあったのだろうか。リリアは内心首を傾げた。確かに昔からものすごく仲が良いという訳ではなかったが、三年前はこれほど険悪ではなかった。


 大人の余裕というのか、アレンはトマスの態度を気にする様子もなく、優雅にお茶を飲んでいる。彼はその整った容姿といい、優しい人柄といい、まさに童話に出てくる理想の王子様であった。

 アレンは戦女神と称えられた母親の美貌を引き継いでいる。父親に似ていたら、残念なことになっていたに違いない。このひどく整った容姿のせいで、他の王子たちに疎まれ、王宮から出されることになったのだ。

 現王族は全員、身長が低めで骨太。顔は三角形。髪は黒く、さらさらのストレートヘアだ。目の色は王族の証であるエメラルドグリーン。ついでに高確率で癇癪持ちらしい。近親婚のせいだろう。

 エメラルドグリーンの目を受け継がなかったため、アレンは継承権を与えられなかった。この国は未だ民族主義が根強いため、国王にはわかりやすい王族の『しるし』が求められるのだ。


 無駄に大きいがために莫大な維持費がかかる伯爵家の街屋敷タウンハウス。どうがんばっても今の財政では手入れが行き届かない中庭にテーブルが出され、当主であるトマスとリリア、そして客人であるアレンが椅子に座っていた。

 侍従であるキースは給仕に徹している。リリィお嬢さまは今日も昼間から眠っていた。故にここにはおらず、リリアがリリィとして同席していた。「とりあえず、今日は、伯爵令嬢リリィのつもりでいてね。リリア」と、トマスが良い笑顔で、訳の分からないことを言い出したからだ。

 要するにリリィお嬢さまの身代わりとして参加しろという意味だとリリアは解釈した。 


 リリアがアレンに会うのは、実に三年ぶりだった。三年前にアレンと会った時は侍女のリリアとして、リリィお嬢さまの後ろに控えていた。お嬢さまはいつものようにテーブルに突っ伏して気持ちよさそうに眠っていた。


「そういえば、アレンはリリィに会うのは久しぶりだよね。社交界デビューしてちょっと雰囲気変わったでしょう」


 その言葉に、リリアは紅茶を噴きそうになった。


 雰囲気が変わって当然だ。だって別人がなり替わっているのだから。


 横目で盗み見ると、トマスはにやにや笑っている。あのタイミングは絶対わざとだったに違いない。リリアは気持ちを落ち着かせるために一旦ティーカップを置いた。持ち手をつまむ指先がプルプル震えていた。


「大丈夫ですか?」


「すみません。兄が急にわたくしの名前を出したので、驚いてしまって」


 申し訳なさそうに目を伏せる。リリアはアレンと目を合わせることができない。今ここで『リリィ』を名乗っているのがリリアであるとアレンは気付いていない筈だ。嘘をついている罪悪感でどうしても相手の顔を真正面から見ることができないのだ。


 そもそも、アレンは男の人なのに無駄にキラキラしている。そして、相変わらずとても人当たりがいい。


(顔が良くて性格もいい騎士なんて、そうそういる筈がないんですけど……)


 社交界の荒波に揉まれに揉まれたリリアである。笑顔の薄皮の下に悪意を隠している人間を嫌というほど見て来た。だが、アレンは物語に出てくる理想の王子さまのような人だから、この穏やかな雰囲気の裏で、リリアのことをつまらない娘だと見下して嘲笑っているとしたら……ちょっと立ち直れないかもしれない。


「雰囲気は……三年前とあまり変わっていらっしゃらないように思います。勿論成長されたなとは思いますが」


「…………ふーん」


 自分で話題を振っておきながら、トマスは面白くもなさそうに目を眇めた。


「社交界は大変だったからね。もうホント、先代のせいでうちの評判は地に落ちてたからさ。でも、リリィは令嬢として完璧だった。お陰で僕も母も少し楽ができた。そいう意味ではがんばってくれたリリィに感謝してる」


「え」


 急にそんな事を言わないで欲しい。リリアは取り繕うことも忘れて、茫然とトマスを見つめてしまった。


「努力、なさったのですね」


 優しい声をかけられて、心臓が跳ねた。


「そうだよ。君がふらふらしてる間にもね」


 その声のあまりの冷たさに、リリアは凍り付いた。

 驚いてトマスを見ると、射るような視線をアレンに向けながらも、空々しい笑顔を浮かべていた。慌ててキースに目を向けると、彼は素知らぬ顔でトマスの隣に控えていた。その変わらない態度に自分を取り戻す。


 確実に悪くなった雰囲気を和らげるために、リリアはおずおずと口を開いた。


「えっと、お母さまや、お兄さまに比べれれば、わたくしは病弱ですので社交の場にもあまり出かけておりませんでしたし……お兄さまにそこまで褒めていただける程のことができていたかどうか……」


「完璧だったよ。だから、求婚話がどっさりきた」


「え?」


 リリアは目をぱちぱちさせた。


「おかげさまで、リリィは大人気でね。病弱っていうのも儚げな少女って好意的な受け取り方をされてさ。確かに、この子は自分が守ってやらないといけないっていう庇護欲を刺激するんだよね。もう本当に断っても断っても求婚してくる輩が後を絶たなくて。先代の不祥事のせいで、足元見てくるようなのばっかだったけど。あれのお陰で第二王子の側室にって話は流れてくれたから、まあよかったよね」


「ええ?」


 初耳だった。思わずリリアは大きな声を上げてしまい、慌てて両手で口を覆った。


「そんな話が出たんですか?」


 アレンの声が少し低くなったような気がした。


「出たんだよねぇ。民族主義の宰相辺りが断固反対してくれたから、実現しなかったんだけど。その理由にあの先代の醜聞が利用されたって訳。うちとしては、よかったと思うよ。第二王子はねぇ……ダメだね。大事な妹は渡せない。ま、第一王子はもっとダメだけどさ」


 隣でキースが大きく頷いている。確かにその二人の王子に関しては良い噂をほとんど聞かない。というより、王子全員、良い話がない。大丈夫なのだろうかこの国の行く末は……。

 何となく喉の渇きを感じて、リリアは紅茶を口元に運んだ。そのタイミングを見計らったようにトマスが言った。


「という訳でさ、仕方がないからさっさと結婚して欲しいんだけど」


 噴き出すことはなかったが、紅茶が気管に入りかけてむせた。慌ててハンカチを口元に当てる。あまりに苦しくて、結婚という衝撃の言葉は頭から吹き飛んでいた。


「お嬢さま、大丈夫ですか」


 涙を流しながら咳き込むリリアの背を駆け寄ってきたキースがさする。


「やりすぎです、トマスさま」


「うん。ごめんリリィ。ちょっとタイミングが悪すぎた」


 あからさまな非難を込めてキースが主人を窘めたが、トマスはあくまで軽い感じでそう言った。絶対に自分が悪いと思っていないことだけはよくわかった。


 やがて落ち着いたリリアは、キースにもう大丈夫だと目で訴え、顔をあげた。

 紅茶が冷めえていて本当に良かったと心から思った。……どうして、ここまでしてトマスはリリアに紅茶を噴かせたいのだろうか。意味が分からないし、悪ふざけが過ぎる。……いや、何となく、自分で憂さ晴らしをしているんだろうなとは気付いていた。

 ――本当に、リリアが知らない所で、アレンとトマスの間に何があったのだろう。


「申し訳ございませんアレンさま、みっともない姿をお見せしてしまいました」


 リリアはどうしてもアレンの顔を見られず、消え入りそうな声で、下を向いたまま謝罪する。


「いや、気にしないで下さい。それより、大丈夫ですか?」


「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」


 心配そうに声をかけてくるアレンがどんな顔をしているのか全くわからない。呆れているかもしれない。恥ずかしい。もう消えてしまいたい。


(私のせいで、リリィお嬢さまに、何度も紅茶を噴き出したかけた令嬢というイメージがついてしまっていたら、どうしましょう……)


 リリィお嬢さまに申し訳ない。やり直せるならやり直したい。本当にもう泣きたい。全部トマスが悪い。


「アレンはこの後、軍のほうに顔を出すんだよね。キースに送らせるよ。色々聞きたいこともあるだろうし、弁明もあるだろうしね。馬車の準備ができたら呼ぶから、しばらくここでゆっくりしてるといいよ」


 うえぃ? というような奇妙な声をキースがあげ、慌てて咳払いで誤魔化す。


「……いえ、失礼いたしました。申し訳ございませんが、私はどうしても片付けなければならない仕事があるので他の者を……」


「行ってくれるよね、キース」


 断ることを許さない口調だった。


「……承知いたしました」


 キースは笑顔の圧に負けた。


 じゃ、仕事があるからと言って、トマスは何故か顔色を悪くしたキースを伴って屋敷内に戻ってしまった。

 後には、アレンと、恥ずかしさといたたまれなさで、肩を丸めて小さくなっているリリアが残された。


(身代わりの私には荷が重すぎます。お嬢さま助けて下さい)


 リリアは心の中で泣いていた。ここから挽回しようという気力は残念ながら残っていなかった。早く部屋に戻りたい。


「ところで、リリアさまは……」


 どこにいらっしゃるのですか? と続くと思ったリリアは、


「今日は体調を崩して部屋で休んでおりますっ」


 アレンの言葉を遮るようにしてそう答えていた。

 目の前に、吸い込まれそうな綺麗な瞳があった。アレンはじっとリリアを見ていたらしく、顔を上げた途端にばっちりと目が合ってしまったのだ。ああ、そうだ、この人の髪と目の色は月のない夜の空の色だったなと思い出した。三年間離れている内に、そんなこともすっかり忘れていた。 

 一瞬息をするのも忘れたリリアだったが、すぐに我に返った。

 いつもリリィお嬢さまの近くに控えていたリリアがこの場にいないのは、確かに不自然だった。何とか理由をつけて相手に納得してもらわねば。


「リリアは体調を崩して部屋で休んでおりますご挨拶もできず大変申し訳ございません少し疲れが出たようです大きな病気とかではないのでご安心下さい」


 リリアは一息で言い切った。アレンはあっけに取られたような顔をしていたが、


「わかりました。お部屋でやすんでいらっしゃるのですね」


 優しい声でそう言うと、眉根を下げてちょっと困ったように笑った。


「そうなのです。やすんでいるのです」


 リリアはそう言って、さりげなさを装って目を逸らし、冷めきった紅茶を口に運んだ。今度は無事に飲むことができた。うまく相手を丸め込むことに成功した達成感と罪悪感で心臓がバクバク音を立てていた。


 その後、馬車の準備ができたと使用人が呼びに来てアレンが席を立つまでの数分間、何やら当たり障りのない会話をした筈なのだが、何を話したのか、ふらふらと自室に戻ったリリアはまったく覚えていなかった。




 

 ものすごく、疲れた。その一言に尽きた。


 何だったのだろうあの険悪なお茶会は。確かアレンは、伯爵家に王都への帰還の報告をしに訪れたはずだった。せっかく帰って来たのだから、もう少し和やかな雰囲気で迎えるべきではなかったのだろうか……


 帰ってこなければよかったのに、と、トマスは冷たい声でそう言った。そこまで言わせる何かが二人の間にあったということだ。


 リリアは改めて三年間の空白を強く意識した。


 アレンの姿は三年前とあまり変わらなかったなとリリアは思った。少し髪が伸びたくらいだろうか。相変わらず現実離れした人だった。


「お嬢さまはとうとうアレンさまと結婚されるのですね……」


 呟いた自分の声を聞いた途端、何故かどんよりと気持ちが沈んだ。

 リリアは小さく息をつくと、無理矢理口角を上げてみる。そうすれば気持ちが少しでも明るくなるような気がしたのだ。


(でも、よかったです。これで約束通り、ずっとリリィお嬢さまのそばにいられます)


 アレンなら、リリアがリリィお嬢さまの侍女として一緒についてゆくことを許してくれるだろう。リリアがお嬢さまの身代わりを務めることに対しても、理解を示してくれるに違いない。


 アレンとお嬢さまが結婚する時に、侍女として一緒について行く。それは、リリアが幼い頃からずっと思い描いていた理想の未来だ。


 それなのに、二人の結婚を素直に喜べない自分自身に、リリアは戸惑う。


 昔……アレンがまだ士官学校に在籍していた頃は、休暇毎に伯爵家に滞在していた。兄たちが、アレンに剣の稽古をつけてもらっているのを、リリィお嬢さまと一緒に遠くから見ていたものだ。それが、アレンがキリア自治区に派遣されてから、一切交流がなくなって……リリアも社交界デビューの準備で忙しくて。離れている内に、だんだん……だんだんリリアはアレンのことを忘れていった。


 だから正直、婚約のことなどすっかり失念していたのだ。

 リリィお嬢さまの結婚はもう少し先だと思っていた。――まだもうしばらく、この伯爵家にいられると思っていたのだ。

 全身を駆け巡ったのは途方もない寂寥感だった。リリアは口角を持ち上げたまま、強く目を瞑った。


(ああ、私は、ここを離れたくないのですね)


 リリィお嬢さまの部屋で、四人でたわいのない話をするのが好きだ。

 お嬢さまはベッドで寝転がって本を読んでいて、トマスがキースをからかって楽しそうに笑っている。キースは迷惑そうな顔を隠そうともしない。リリアはそんな三人の様子をニコニコしながら見ている。やがて、『リリア、だいすきよ。ずっと一緒にいてね』お嬢さまが眠たそうな目を擦りながら言ったら、リリアは約束の言葉を返すのだ。


 そんなありふれた日常が、もうすぐ終わりを告げてしまう。


 リリィお嬢さまとリリアは、ダージャ領に移り住むことになるだろう。リリィお嬢さまはちゃんと夕食まで起きていられるだろうか? 新しい家の使用人たちは、眠ってばかりで少し風変りなリリィお嬢さまを受け入れてくれるだろうか。お嬢さまはダンスが踊れないから、社交関係はリリアが身代わりを務めることになるだろう。自分はアレンの横に並び立って平然としていられるだろうか……

 自分はあまりにも平凡だ。特に美人というでもないし、スタイルが良いわけでもない。美しい色の瞳や髪を持っていない……。

 もやもやとした不安が、湧き上がってくる。

 遠くに逃げてしまいたい。不意に強くそう思った。


(……やめましょう)


 リリアは余計な思考を振り払うために、大きく首を振った。振りすぎて気持ち悪くなってうつ伏せでベッドに倒れ込んだ。もう何も考えたくなくて、目を瞑った闇にすべての意識を集中させた。


 そのまま少し眠ってしまっていたらしい。


「リリア、イザベラさまが呼んでる。居間で待ってるってさ」


 ノックの音の後に聞こえてきたのは、アレンを送っていった筈のキースの声だった。リリアは慌てて上体を起こす。部屋の明るさからして、そんなに時間は経っていない筈だ。


「わかりました、すぐに伺いますとお伝えください」


「……おまえ、寝てただろ。ちゃんと身なり整えろよ」


 声でうたた寝していたことはバレたらしい。一言釘を刺して、足音は遠ざかって行った。

 リリィお嬢さまの婚約についての話だろうとリリアは目星をつけた。リリアは大きくため息をついて起き上がる。どうやらこの話から今日は逃げられないようだった。

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