4 身代わり伯爵令嬢はデビューした。
リリアにはリリィお嬢さまの話し相手という仕事の他に、もうひとつ重要な役目が与えられていた。それは、お嬢さまと一緒に貴族令嬢としての教育を受けることであった。
「リリィはあの通り突然寝ちゃうから、どんな時でもそばにいてあの子を手助けしてくれる存在が必要だわ。お茶会や舞踏会に一緒に行って、同じ立場で見守ってほしいの。だから、あの子と一緒にお勉強してね」
尊敬するイザベラに優しく諭され、幼いリリアはそんなものかと納得した。
「あなたの評価が、伯爵家の評価にもなるわ。わたくしたちを助けるためだと思ってがんばってくれるかしら?」
伯爵家のため、と言われれば、リリアは俄然やる気になった。
一年間、使用人棟で孫扱いをされていたリリアは、自分が立派な侍女になって、おじいちゃんおばあちゃんたちのように伯爵家の役に立つのだと心に決めてしまっていた。子供の一年は大人が考えているよりずっと長かった。リリアはすっかり身も心も使用人となっていた。
――子供部屋近くの廊下に飾られていた先代伯爵の肖像画の鼻の辺りが、まるでワインの瓶で殴られたかのように大きく凹んだのはこの頃だった。
リリアは侍女としてリリィお嬢さまを一番近くで支えられるように、必死で勉強した。お嬢さまより余程努力した。二人には優秀な家庭教師がつけられたが、勉強が始まった途端にお嬢さまはテーブルに突っ伏して眠ってしまうため、実際にはリリア一人が教えを受けている状態だった。
ダンスのレッスンの日は、どういう訳かお嬢さまは毎回体調を崩して、起きて来なかった。
「じゃあ、私の分もがんばってきてね、リリア。頼りにしてるわ。だいすきよ。ずっとそばにいてね」
「はい。わたしもお嬢さまがだいすきです。ずっとおそばにおります」
常套句となったやり取りを終えると、ベッドの中からリリィお嬢様はひらひらと手を振った。そして一瞬にして眠りに落ちた。
リリィお嬢さまに頼られて、リリアはますますがんばった。ダンスは筋が良いと褒められた。一番大変だったのはマナーだったが、小さな失敗ひとつが伯爵家の名に傷をつけると教師に教えられたため、時間を見つけては鏡の前で何度も練習し体に覚えこませた。
そうして、二人が十六歳になった年に、伯爵令嬢として恥ずかしくないマナーと教養を身につけたリリアが、社交界にデビューすることになった。
リリィお嬢さまは、リリアが社交界に出ることを、まるで自分のことのように喜んだ。「これで一生楽ができるわ」と思わず口を滑らせたが、その言葉は幸いなことにリリアの耳には届かなかった。
デビューする娘の名前はリリアではなくリリィにして欲しいと、リリアの方からお願いした。庶子を先にデビューさせたとなると、いらぬ誤解を招くと判断したからだ。それに、リリィお嬢さまはダンスが踊れないから、侍女の自分が身代わりで社交界に出るのだとリリアは信じ切っていた。
トマスはちょっと考えるような素振りを見せた後、「他の人には内緒だよ」と、良い笑顔でリリアに念押しした。イザベラは一瞬ほうけたような顔になったが、達観したような面持ちで、「もうそれでいいから、がんばりなさい」と言った。
――その夜、肖像画の頭頂部に大穴が開いた。
そして、リリアは、『ガルトダット伯爵家の長女リリィ』として、社交界デビューしたのであった。
無事社交界デビューを果たした後、リリアは長女リリィとして、イザベラと共にお茶会に出掛け、トマスにエスコートされて舞踏会に参加した。ドレスを頻繁に新調できないため、病弱だということで社交場に出る数を最低限に絞っていたが、数を減らした分失敗が許されなくなった。
先代の所業によって地に落ちたガルトダット伯爵家の評判は、当主が代わって数年が経過してもあまり芳しくなかった。
「あれが、あの放蕩伯爵の……」「ああ、あの名前だけの伯爵家か」「あらあら、ぱっとしない娘だこと」「見てごらんなさいな、あの野暮ったいドレス……」「本当、ずいぶん時代遅れねぇ」
社交界は悪意の海だった。蔑みの目。ひそひそと扇の陰で囁かれる悪意。
少しでもミスをすれば、待ち構えたかのように嘲笑される。自分の失敗が伯爵家の傷になる。マナー教師の言った通りであった。
帰りの馬車で、リリアが堪えきれず涙を流したのは、一度や二度ではなかった。
その度に先代肖像画の傷が増えてゆくようであった。
穴が開いた頭頂部から陥没した鼻にかけて、細い投げナイフが突き刺さったような跡がいくつもつきはじめたのはこの頃だ。
肖像画の表面はボコボコに波打ち、絵の具はひび割れ剥がれ落ち、描かれた人物の顔はすでに原型をとどめていなかった。最早肖像画とはいえないような状態だったが、何故か子供部屋近くの廊下に飾られ続けていた。
リリアはどんなに辛い目にあっても、リリィお嬢さまの身代わりをやめようとは思わなかった。それが侍女の自分に与えられた職務なら、完璧にこなして伯爵家の役に立ってみせると日々決意を新たにしていた。元来生真面目な性格であるリリアは、妥協を許さず自分を磨いた。努力に努力を重ねた。
その結果、ガルトダット家の長女リリィは、病弱だが所作が美しい、完璧な令嬢として、名が知られるようになった。
本物のリリィお嬢さまと、社交界における伯爵令嬢リリィの評判が著しく乖離してしまったことに、身代わり本人だけが全く気付いていなかった。