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3 アヒルはクマになるらしい。


「アヒルは大きくなるとクマになるんですって」


 風が冷たくなってきたことに気が付いて、精一杯の背伸びをして窓を閉めようとしていたリリアは、思わず振り返った。今リリィお嬢さまは何か聞き捨てならないことを言わなかっただろうか?


 リリィお嬢さまはベットの上にうつ伏せに寝転がって、にこにこ笑いながらリリアを見ていた。枕の上には開いたままの本が置いてあった。

 リリアもリリィお嬢さまも父親似であったから、二人が姉妹だというのは一目瞭然だった。

 柔らかい栗色の髪と、同じ色の瞳。きりっとした目つきのリリィお嬢さまに対して、たれ目のリリアは少し気弱そうな印象を周囲に与える。特に美男子でもなかった父親に似たため、二人ともぱっと人目を惹くような絶世の美人ではなかったが、将来を悲観するほど不細工な訳でもなかった。まぁまぁ可愛い。お化粧すると化けるよね、といった程度である。


 伯爵があっさりとこの世を去った後、リリアの立場は微妙に変わった。

 まず名前がマーガレットからリリアに変わった。服がメイド服からリリィお嬢さまとお揃いの子供服に変わった。リリィお嬢さまの隣の部屋がリリアの部屋になった。

 そして、仕事が階段掃除から、リリィお嬢さまの遊び相手に変わったのだ。貴族の身の回りの世話をする存在を侍女と呼ぶのだと、使用人の中で暮らしていたリリアは知っていた。なので、自分はリリィお嬢さまの侍女なのだと思っていた。


「いえ、アヒルはクマにはならないはずでござ……」


「だってこの本のここに絵が書いてあるもの。一緒にいるってことは家族でしょう? クマの方が大きいから親なのよね」


 わたし、ちゃんとわかったのよ、すごいでしょ。と言いたげなキラキラした目で見つめられて、リリアはうっと言葉に詰まった。


 リリアより半年先に生まれたリリィお嬢さまは、今年で七歳になるが、外見も内面も実年齢よりやや幼い。それは彼女が一日のほとんどをベッドの上で眠って過ごしているからだ。特に病弱ということはないのだが、毎日十五時間程度眠らないと起き上がれない。他人より多くの睡眠を必要とする体質なのだと、医者は言っていた。

 午前中は起きていられることが多いが、お昼を過ぎると読書をしながらうとうとし始め、三時を過ぎる頃には大抵寝てしまうのだ。


「え、えっとえっと……」


 いや、アヒルは絶対クマにならない。これ以上の勘違いが増える前に、ここはきっちり真実を伝えねば。今回こそ、今回こそお嬢様の思い込みを正してみせる。固い決意を胸にリリアは大きく息を吸った。


「それは、たまたま一緒に描かれているだけでして……」 


「こっちのクマの方が大きいから、お母さんね。お母さんは子供を産むから、体が大きいのよね」


(あれ? 体が大きいのはお父さんではないでしょうか?)


 ……なんか正しいことを言ってそうで違う気がする。そう一瞬考え込んだのがいけなかった。とりあえず、アヒルがクマにならないと即座に否定すべきであった。


「そういえばお母さまは今日どちらにお出かけなのかしら? 歌劇場かしら? 歌劇場って男の人が剣を持ってお姫様を取り合って戦う場所なのよね。誰がお姫様と結婚するのかしら。お母さまはお姫様になれるのかしら。新しいお父様はどんな人かしらね。あ、お土産は何を買ってきて下さるかしら。この間本で読んだ、食べるとカエルに変身してしまうクッキーをお願いしたんだけど、買えたのかしら? ねぇリリアとても楽しみね」


(えっと、歌劇場は、オペラを見る場所で、闘技場は……何でしょう? イザベラさまは奥方様だから、お姫様ではない気がします……カエルのクッキーは、どのお話に出てきたものでしょうか?)


 矢継ぎ早に質問されて、リリアはおたおたしてしまう。何から訂正してよいのかもうわからない。そんなこんなの内にアヒルがクマになるというのが、お嬢さまの中で確定してしまうだろう。でも、何を優先として訂正すべきなのか……ぐるぐる回る頭でリリアは考えたが、結果として涙目で黙り込むだけとなっていた。


「お父様って何かしら? 私はお父様ってものはいなくても全然全く平気だったわ。自然界でも子育ては母親だけがする動物も多いみたいだし、雄って子育てに絶対的に必要って訳ではないのかしらね。私はリリアがいればそれでいいわ。だいすきよ、ずっとそばにいてね、リリア」


「はい。私もお嬢さまがだいすきです。ずっとおそばにおります」


 リリアは反射的にそう返していた。「ずっとそばにいてね」「ずっとそばにおります」は、マーガレットがリリアになったばかりの頃に、二人の間で交わされた約束だった。いつしかそれは、リリィお嬢さまにとって眠る前の挨拶になっていた。挨拶というより儀式のようなものだろうか。リリアの「ずっとそばにおります」という言葉を聞くと、お嬢さまは安心して眠れるのだそうだ。

 

 リリィお嬢さまは閉じた本を抱きしめて眠っていた。こうなるともう明日の朝まで起きない。


「おやおや、今日は三時のお茶まで起きていられなかったか」


 部屋の入口のドアから、盛装したトマスが顔をのぞかせた。トマスのお下がりを着たキースがその後ろに続いていた。出掛ける予定があるのかもしれない。

 リリアは慌ててお辞儀をする。リリアにとって、トマスは五歳年上の母違いの兄。キースは三歳年上の父違いの兄。と、ややこしい関係であるが、二人の兄は妹を大変可愛がっていた。


 トマスは、凡庸な顔の妹たちより数段整った容姿をしていた。目立つ色彩を持つキースを伴っていても存在が霞まない。妹たちと目と髪の色が同じで、顔のパーツの形もそっくりなのに、配置のバランスひとつでここまで印象が変わるものらしい。

 すらりと背が高く柔和な顔立ちをしている彼は、祖父の若かりし頃とそっくりなのだそうだ。――因みに、このガルトダット伯爵家は、百パーセントに近い確率で茶色の瞳と茶色の髪の子供が生まれてくることで有名だった。別名ガルトダットの呪いという。

 一方のキースは女性的な顔立ちで、真面目な顔をしていると冷たい印象を周囲に与えた。彼は母親似の自分の容姿をあまり好きではないようだった。


「いいよ、リリア。顔をあげて。リリィやっぱり寝ちゃったか。今日のマナーの授業もリリアが一人で受けることになりそうだねぇ」


「……どうしましょう、トマスさま。アヒルがクマに」


 若干顔色を悪くしながらリリアが言うと、


「ま、いいんじゃない? そのくらい、世間知らずの貴族令嬢のかわいい勘違い程度だって」


 トマスは苦笑いでそう返した。


「それより、歌劇場が闘技場になってた方が、僕としては興味深い。どこがどうなってそうなったんだろう?」


「先日イザベラ様がご覧になったという歌劇に出てきましたよ。闘技場」


 キースが困惑した様子でそう答えた。近侍である彼は表情を隠すのも仕事の内だったが、素直な性格のため、あまりうまくいっていなかった。


「ああ、その話を聞いて、こう繋げたのか、成程」


 くっくっくっと肩を揺らして笑い始める。トマスは笑い上戸なのだ。


「おもしろいよね」


「おもしろがっちゃダメですよね、色々。そろそろ本当に俺は心配なんですけど」


「純粋なんだよねぇ。本当にかわいらしいよねぇ……僕の妹たちは。是非ともこのまま大きくなって欲しいんだよね」


「だからそれ、マズイですって」


「大丈夫大丈夫。とか言いつつ、キースだって、かわいいと思ってるんだろう?」


「でも、このまま大人になって、悪い人間に騙されないか心配なんですよ」


 キースがため息をつきながら、笑い続ける主人を窘めた。ずいぶん砕けた言葉遣いだが、トマスは一切気にしない。


 二年前キースが本宅に連れて来られた時、トマスは弟ができたと大層喜んだ。今でも外ではきっちりとした主従関係、屋敷内では兄弟のように振る舞っている。それは母親が違うリリアに対しても同じだった。トマスにとってはリリアもリリィお嬢さまも、大切な妹なのだ。

 最近身分差というものを意識するようになったキースとリリアが弁えようとしても、トマスは何も変わらない。


「だって、一度そう思い込んだらもう訂正できないだろう? だからそれでいいんだよ。リリア、悪いけど誰か呼んできてくれないか? 着替えさせないと」


「承知いたしました」


 リリアはスカートを持って上体を倒し、先程より丁寧にお辞儀した。上手にできたので褒めてもらえると思ったのに、トマスは困った顔をしていた。


「そういう言い方寂しいなぁ。リリアは僕の妹なのにさ。……あ、お辞儀は完璧だったよ。よくできました。でもお兄さまとしてはそういう一歩引いた態度されると複雑なんだよなぁ。……あーあ、キースもちょっと前までは僕の後ろをくっついて回っていて、ものすごくかわいかったのに」 


「俺はもう、かわいいという年ではないですけどね」


 少しむくれた顔をしてすかさずキースが訂正した。かわいいと言われて恥ずかしかったのか、顔が赤い。


「今でも結構かわいいよ。素直でチョロいところが。本当に僕の弟も妹たちも純粋なんだよねぇ。君たちを僕に与えてくれたという点だけは、あの男に感謝してもいいとは思ってる。だから心配しなくて大丈夫。君たちは僕が守るからさ」


 トマスは唐突に真顔になると、廊下にかかっている先代伯爵の肖像画に向かって笑いかけた。ひとかけらの愛情すら感じられない冷たい笑顔だった。


 その肖像画は数年前に描かれたものの筈であるのに、表面の傷みが激しく、よく見ると、ピンで突いたような穴がいくつも開いていた。使用人たちの噂によると、時折何者かによって夜中に廊下から持ち去られるが、朝には元の場所に戻っているのだそうだ。

 ――その度に表面の傷みが多少酷くなっているらしい。

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