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20 伯爵令嬢は誘拐された。 その4

「リリィお嬢さまっ」


 玄関ホールに足を踏み入れた途端、リリィに抱きついてきたのはリリアだった。


「よかった。戻って来て下さった……」


 そのまま膝から崩れ落ちそうになるリリアをルークが慌てて支える。丸一日近く誘拐されていたリリィより、リリアの方がよほど憔悴していた。

 先ほど恋人たちの感動の再会を白けた目で見ていたリリィは、今度は自分が当事者となり、少し気まずいようなくすぐったいような気分を味わうこととなった。


「ただいま。リリア。心配してくれてありがとう。王宮のベッドはすごく寝心地が良かったわ。食事も美味しかった。久しぶりにゆっくりできたの」


 努めて明るく言うと、リリアはばっと顔を上げて、リリィの顔をまじまじと見ると、涙を溜めた目で微笑んだ。


「それならば、よかったです」


「お詫びに素敵なガウンと、靴ももらったわ。王宮に泊まれるなんて二度とない貴重な経験よね。……さ、中に入りましょう。リリアの方が寒そうよ。アレンたちは来ているのよね? 会った?」


 リリアは暗い顔をして首を横に振った。


「リリィお嬢さまの事が気になってそれどころではありませんでしたから。あちらのお嬢さまにはメイジーが付き添っています。イザベラさまもトマスさまもキースお兄さまも、居間でずっと待っておられますよ。私だけが取り乱して、みっともないですね」


 そして、そのままふらふらっとよろめく。本当に顔色が悪い。見かねたルークがリリアを抱き上げた。

 リリアは珍しくコルセットをせず、体を締め付けないタイプのワンピースを着ていた。髪もゆるい三つ編みにしているだけだ。多分……イザベラはリリアにベッドで休んでいるように命じたのだろう。だが、先触れによってリリィの帰宅を知ったリリアは、部屋から出て玄関ホールでずっと待っていてくれたのだ。


「目を閉じていてください。このまま部屋まで運びます」


「すみませんルークお兄さま」


 リリアはルークに言われる通りに素直に目を閉じた。結婚が決まったと思えば、リリィはいなくなるし、婚約者は恋人を連れてくるし……一度に色んなことがありすぎて、もうリリアの精神は限界なのだろう。白い白いと言われるリリィより、顔が白い。


「リリア、私は本当に大丈夫なの。広いベッドでずっと寝てただけだから。お願いだから、少し休んで」


「……はい。申し訳ございません。頭痛が酷いので、少し休ませていただきますね。お嬢さまがご無事で本当に良かったです」


「……うん。私は大丈夫だから……ね」


 リリィは泣きたいような気持ちになった。昔からそうだ。リリアは恩ある伯爵家の家族のためとなれば、限界まで自分を殺してがんばってしまう悪い癖があった。一歩引いて、相手の立場や気持ちを優先させてしまう。


(リリアは自分が誘拐されれば良かったのにと、自分を責めたわよね……)


 王宮のベッドの上で、もう一晩泊まっていきたいな。なんて、ちょっとでも思った自分を張り倒してやりたい。

 リリアを抱えたルークと連れ立って歩きながら、リリィは深く反省したのだった。





 居間には、リリアの言った通り、イザベラとトマスがソファーに座って待っていた。


 その正面にはロバートと、……もう一人リリィの知らない男が座っている。よく焼けた浅黒い肌をした、体格の良い男性だ。しかし、緊張した面持ちで体を小さくしている。


「ただいま戻りました」


「おかえりなさい。あら、素敵なガウンね」


 落ち着いた声音でイザベラが言った。


「無事戻ってくれて安心したよ。王宮はどうだった?」


 トマスが力なく微笑む。さすがに疲れているのだろう。


「至れり尽くせりでした。お客さまがいらっしゃるなら着替えて参りましょうか?」


「ガウンを着ていれば大丈夫でしょう。……よろしいかしら?」


「みなさまが良ければ、自分は……」


 客人は力ない声でそう答えた。


「では、このままで。リリィそちらにお座りなさい。リリアには会った?」


「はい……ひどい顔色でした。ルークが部屋に連れて行きました」


「そう、なら大丈夫ね。ルークに任せましょう。あの子もルークの言うことなら素直に聞くでしょうから」


 イザベラがあっさりと言った。

 未婚の男女が部屋でふたりきり……しかし、あのふたりの場合何の違和感も感じないのは、十年以上に渡って積み重ねられた信用と信頼のせいだろう。恐らくこの場にいる伯爵家の人間全員が、リリアのことはルークに任せておけば問題ないと思っている。そもそも、あまりに何もなさすぎるから全員苦労させられているのだ。……相手がリリアではなくリリィであってもそれは変わらない。多分ルークの中では、自分たちはちいさな子供のまま、時間が止まっている。


「キース、人数分の紅茶を用意してくれるかしら?」


 リリィがソファーに座ったのを確認してから、イザベラは壁際にジョージと並んで立っていたキースに命じた。


「お母さま、まず最初にひとつ伺っても?」


「何かしら?」


 リリィは客人の隣に座るロバートを見て、思わず顔を顰めた。


「なんでロバート、ロープでぐるぐる巻きなんですか?」


 ロバートは何故か犯罪者のようにロープで拘束されていた。とても悲し気な目をしている。


「それはね、ロバートが王家に魂を売ったからよ」


 イザベラはそれはそれは美しく微笑んだ。やっぱりか、とリリィは思った。王家の隠密部隊を屋敷に引き入れたのはロバートだったのだ。例の野菜泥棒は下見に来ていたその人たちだったのかもしれない。


「王族からの命令には、普通逆らえませんて。……まぁ覚悟はしていたので、俺のことは気にするなリリィさま。慰謝料は昨日渡した箱の中に入れておいたから。……因みに、俺を拘束するように命令したのはイザベラさまで、頭に的を乗せてナイフ投げの練習をしたのはルークとトマスさまだ」


「わかっているんだけど、何というのか、怒りをぶつける場所が必要だったのよね」


「ルークは手が滑ったとか言って、頬スレスレに投げやがった。耳がなくなるかと思ったぜ」


 ロバートは大げさにため息をつく。言われてみれば、耳の下付近の頬に赤い線が一本引かれていた。


 客人の顔色がますます悪くなった。自分もやがてそんな目に遭うと思っているのかもしれないが、さすがにトマスもルークも、ロバート以外にはそんな真似しないだろう。

 海外を旅して回っているロバートは荒事には慣れているのだ。内戦に巻き込まれたり、盗賊に襲われたりで、体中傷だらけだ。土産話には、よく生きて戻ってこれたなというものも多い。拘束されてナイフ投げの的にされるもの、きっと初めてではないから、リリィは同情する気にもならなかった。


「こちらは、ナトンさん」


「自分はエミリーお嬢さまの護衛を任されております、ナトンと申します。この度はうちのお嬢さまのせいで大変なご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした」


 縮こまっていた男はがばっと勢いよく頭を下げた。確か帝国の方では頭を下げる行為は最大の謝意を表す筈だ。


「謝罪は受け入れます。顔を上げてください。そもそも私はあんまり迷惑は被っていないので」 


 ナトンはあからさまにほっとした様子で顔を上げた。


「お嬢さまが大変リリィさまに感謝しておりました。とてもよくしていただいたと。お嬢さまはあの通り、本当に世間知らずで、夢見がちなところがおありで。ちょっと我が儘と言うか、自己中心的というか、一度思い込んだらもう何を言っても受け入れないというか、暴走すると止まらないというか……とにかく、大変ご迷惑をおかけしたことと思います。本当に感謝申し上げます」


「それは……そういうタイプのお嬢さんなら、あなたも心配だったわよね」


 その言葉を聞いた途端、イザベラは同情的な顔になった。ナトンは泣きそうな顔で頷いた。


「……何だろう、耳が痛い」


 ぼんやりと天井を見上げて、リリィは思わず呟いた。


「リリアから見たリリィの姿と同じだねぇ」


 トマスは茶化すように言う。


「思い込んだらもう何を言っても受け入れないっていうのは、リリアの方でしょうよ」


「リリィお嬢さまが面白がって、嘘ばっか並べてリリアをからかったから、そうなったんですよね」


 銀盆に人数分の紅茶を用意して戻って来たキースが、リリィの前にカップを置いてからそう言った。

 嫌がらせのように、紅茶はロバートの分も用意されていた。


「……間違いを指摘できずに、オロオロするあの子、可愛かったんだもん」


「リリア、まだお嬢さまがアヒルが成長したらクマになると思い込んでるって、信じてますよ?」


「……かわいいわよね」


「……気付いてます? リリアの頭の中のリリィお嬢様って、かなり頭の弱いご令嬢ですよ」


 キースにそう指摘されて、リリィは目を見開いた。それは何か? あのエミリーと同類なのか。それは嫌だ。


「本当に、うちの妹たちはかわいいよねぇ。素直で純粋なまま育ってくれたよねぇ」


 トマスが紅茶を飲みながらうんうんと頷いている。

 一方、トマスの隣のイザベラは、親身になってナトンの話に耳を傾けていた。


「王宮で預かるとは言われたのですが、何しろあのお嬢さまですから、何をしでかすか全くわからず、不敬罪で罰せられるようなことをしていないかと、もう不安で心配で……」


「わかります。わたくしもそうだったもの。うちの娘がうっかり失礼なことを言って、その場で拘束でもされていたらどうしようかと、それがもう心配で……」


 二人は話が分かる相手がここいたという感じで、意気投合したようだった。

 きっと心労が重なっていたのだろう。ナトンは疲れた表情を浮かべて、いかにエミリーが自由で世間知らずか、イザベラに訴え始めた。

 買い物に行きたいとなれば、他に予定があってもナトンたちを引き連れさっさと買い物に出かけてしまう。歌劇を見に行きたいとなれば、連れて行ってもらえるまで部屋に閉じこもる。勉強の時間が近付くと部屋から逃げ出そうとする。何か気に入らないと父親に泣いて直訴するため、家庭教師はすぐにクビになってしまう……


 わかる。わかるわとイザベラが頷いた後、ちらりとリリィを一瞥した。リリィは寝ていただけで逃げてはいないし、家庭教師の人選に口を出したこともない。多分エミリーよりマシだと思う。


 ――眠たいとなれば、他に予定があっても寝てしまう。眠たいとなれば部屋に閉じこもる。勉強の時間が近付くと部屋に閉じこもって寝てしまう……


 ……あ、やっぱり同類だった。リリィはがっくりと肩を落とした。


「自分の行動が周囲にどんな影響を与えるのかを、考えようとはしない方なのね」


「そうなのです。今回も、知り合いの商人の息子がお嬢さまに入れあげていることを利用して、家出しようとなさって。もう旦那様も頭をお抱えになっていた時に、ロバートさまが今回のお話を持ってみえて……」


 この話はいつまで続くのだろう。いい加減疲れたのでさっさと切り上げて部屋で休みたい。リリアは紅茶を一口飲んで、わざと音を立ててカップをソーサーにおいた。しんっとした沈黙が落ちる。


「……私だけ、話が見えないんだけど?」


「……誰から聞いても、私情が入ってややこしくなるから、俺から話す」


 ぐるぐる巻きにされたままのロバートがそう言った。誰も異は唱えなかった。

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