2 「クタバレ」と奥方は言った。
リリアとリリィお嬢さまは、母親違いの姉妹である。
ガルトダット伯爵が、自称女優に産ませた娘がリリアだ。
幼かったリリアは母親の顔をほとんど覚えていないのだが、ストロベリーブロンドの髪と宝石のような菫色の瞳を持つ、一度見たら忘れられない程の美人だったそうだ。これがやり手の性悪女で、真面目一辺倒の堅物と言われ、清廉潔白に生きてきた伯爵を誘惑し、人格が変わるまで堕落させた。
伯爵に出会う前から、その美貌を武器に数多の貴族男性に金品を貢がせてきたらしい。パトロンと言えば聞こえがいいが、要するにカモである。そうして手に入れた人脈を辿ってとうとう伯爵の愛人にまでなったのだから、ある意味人生の成功者と言えるかもしれない。女優を名乗っていたが、舞台に立っている姿を誰一人として見たことがなかった。
ガルトダット伯爵と自称女優は、湖近くの別荘に引きこもり、自堕落な生活を送っていた。女優は自由に外出できない籠の鳥となる代わりに、贅沢三昧を許され、伯爵は趣味の狩猟に明け暮れた。
同じ別荘で、リリアと兄のキースも暮らしていたのだが、伯爵は子供の存在など完全に忘れ去っていた。
その頃リリアは『リリア』という名前ではなく、『マーガレット』と呼ばれていた。子供たちが視界に入ることを自称女優が嫌ったため、キースとマーガレットは質素な服を着せられ、使用人と共に暮らしていた。しかし、お遊び程度のお手伝いを頼まれることはあっても、きつい汚れ仕事をさせられることは一切なかった。
今思い返しても、随分大切にされていたと思う。料理人から、焦げたクッキーやケーキの切れ端を内緒でもらい。大人たちが働いている間は、門衛の男に遊んでもらっていた。
後で聞いた話によると、伯爵の奥方であるイザベラの指示だったそうだ。子供には罪がないのだから、衣食住を整え、決して蔑ろにしてはならない。そう使用人たちに厳しく命じてくれていたらしい。
因みにキースは、自称女優の息子で、外国の貴族の血を引いていた。正確に言えば、マーガレット(リリア)の父親違いの兄であった。
二人の人生が大きく動いたのは、女優が若い出入りの商人と、莫大な金額の宝石を持って駆け落ちし、ようやく伯爵が五年間の夢から醒めた時だった。
伯爵は何事もなかったかのように奥方が待つ本宅に帰ったのだが、問題となったのはキースとマーガレット(リリア)の今後の処遇であった。
伯爵と奥方の間には二人の子供がいた。キースより二つ年上の長男トマスと、マーガレットと同い年のリリィお嬢さまである。
キースは遠縁の子ということにして、小姓としてトマスに仕えることになった。キースは異民族の血を引いてはいるが、母親に似て見た目が良い子供だったため、伯爵も特に異を唱えなかった。
だが、伯爵家の血を引いているマーガレットの方は、そう簡単にはいかなかった。
「この子は伯爵家の娘としてわたくしが育てます」
と、奥方であるイザベラは宣言した。
金色の髪に青い瞳を持つ、厳しそうな女性であった。嫁いできた頃はふくよかでのんびりとした気質の少女だったが、愛人騒動のせいで瘦せ細り、顔つきまでもがすっかり変わってしまっていた。当主不在の間伯爵家を守り続けた彼女の苦労は計り知れなかった。
「私に愛人の子供がいるなどとは、伯爵家の恥だ。認められない。そもそも本当に私の血を引いているのかも疑わしい。どうしてもここに置きたいのなら雑用メイドとして扱え」
伯爵は、心底汚らわしそうにそう言った。その場にいた誰もが、唖然として幼いマーガレットと伯爵を見比べた。彼女は父親似だった。特に二人は口元がそっくりだった。
これは何を言っても無駄だと思った奥方は、ひきつった笑顔を浮かべて、こう提案した。
「では、この子は、使用人棟に部屋を与えましょう。それなら文句はございませんこと?」
それならばいい。と伯爵は頷くと、さっさと部屋から出て行った。本宅に戻った伯爵は仕事一筋で融通のきかない生真面目人間に戻っていた。
「謝罪もできず、自分の罪を認めることもできず、すべて子供のせいにして逃げを打つとは……本当に底の浅い」
扉が閉まるのを確認して、奥方が室内の人間に聞こえる程度の声で言い捨てた。今しがた部屋から出て行った男のせいで、伯爵家の名声は地に落ち、財政は火の車だった。
「さっさとクタバレ役立たず」
凄みのある微笑と共に紡がれた言葉を、その場にいた全員が聞かなかったことにした。
そういった訳で、キースとマーガレット(リリア)は使用人として、伯爵家で暮らすことになったのである。
雑用メイドとはいえ、マーガレットはまだ五つ。与えられた仕事は伯爵の見送りと出迎えと、使用人棟の階段掃除だった。
使用人たちが手分けして縫ってくれた小さなメイド服を着て、園庁が作ってくれた小さく軽い箒で階段をひとつひとつ丁寧に掃く彼女は、伯爵以外の屋敷の人間全員に大変可愛がられた。本宅に残っていた使用人は他に行くあてのない老齢の者ばかりだった。彼らはリリアを孫のように大事に大事に扱った。
『クタバレ』という呪詛はきっちり仕事をしたらしく、本宅に戻って一年後に伯爵は重い病に倒れ、あっと言う間に亡くなった。
葬儀の間でさえ誰一人涙を見せなかった。あれだけの不祥事を起こしておきながら、何食わぬ顔をして舞い戻ってきた男を、館の人間は心の底から軽蔑していた。
自称女優は山を越えて隣国に逃げたそうだが、その先の行方はわからないらしい。