15 旅人は帰国した。
珍しく午前中に来客らしい。ジョージが対応しているようだ。一人部屋で手紙を書いていたリリアは耳を澄ませた。
書いているのはアレンへのお礼状だ。お料理が美味しかったこと。ルークとメイジーに会えてうれしかったこと。あと他に何があっただろうか……
「お嬢さま、奥さまにお客人なのですが……」
ゆったりしたノックの後で、ジョージの声がした。今日イザベラはトマスとキースを伴って買い物に出掛けている。対応できるのはリリアしかいない。
「お約束の方ですか?」
リリアは途端に緊張した面持ちになった。イザベラが約束を忘れるようなことはないと思うが、一応確認する。
「いいえ、ロバートさんです。買い付けから戻ってみえましたよ。一年ぶりですね」
ゆっくりゆっくり部屋に入って来たジョージは、にっこりと笑った。勢いよく立ち上がったリリアの嬉しそうな顔を見て、ジョージはますます笑みを深める。
「良かったですね」
「はいっ」
リリアはジョージを置き去りにして部屋を飛び出した。
吹き抜けになっている玄関ホールに立っていたのは、無精ひげを生やした旅姿の男だった。ルークの従兄に当たる人で、すっかり長くなってしまった茶色の髪を後ろでひとつに結んでいる。どうせまた髪を切るのをサボったのだ。前髪に隠れてしまった目はルークと同じ明るい空の色だとリリアは知っている。足元には大きなトランクがいくつも積み上げられていた。
「おかえりなさい。ロバート」
リリアは階段を駆け下りると、荷物の確認をしていたロバートの背中に向かって勢いよく両手を突き出した。
「うおっ」
リリアに突き飛ばされて、ロバートは大きくよろめくが、二、三歩後前に進んだだけで態勢を整える。
「残念だったな。リリアさま?」
振り返ってニヤリと笑う男を見て、リリアは勢い込んで言った。
「私も十七歳になりましたよ。これで、ロバートの旅に一緒に連れて行ってくれますか?」
「あと十年経ったらな」
「ロバートは十年前にもそう言いました」
子供っぽくぷうっとむくれたリリアに、
「そうだったっけかねぇ」
ロバートはすっとぼけてみせる。ますますリリアが頬を膨らませた途端、二階からリリィお嬢さまの声がした。騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたようだ。
「ロバート! ほんもの?」
「いつ俺の偽物が出たんだよっ……って」
リリアと同じように階段を駆け下りたリリィお嬢さまが、肩をぶつけるように正面から体当たりをする。ロバートは大きくよろめきながらも、何とかその場に踏みとどまった。
「うー。あとちょっとだったのにぃ」
「いきなり来るな。二人ともでかくなったからこっちも準備が必要なんだよ」
二人の令嬢は顔を見合わせると、にっこり笑い合った。
「げっ。二人がかりはやめろ。ホントにやめろ」
「えいっ」
「ていっ」
背後に回った二人が息を合わせてロバートを突き飛ばした。大きくよろめいて床に手と膝をついたロバートは、体をひっくり返すようにして腰を下ろす。二人の少女が明るい笑い声を立てながらその両脇に膝をついた。リリアはきちんと髪を結い上げて花柄のワンピースを着ているが、眠っていたらしきリリィお嬢さまは、厚手の生地で縫われたストンとしたワンピースの上にガウンを羽織っていた。髪は緩く三つ編みにして右肩に下げている。
「倒しました。これで私たちの勝ちですね。どんなお願いも叶えてくれるんですよね」
「ってぇな。三十路の男をもう少し労われよ。古傷が痛むだろうが……はいはいお願いはなんですか、お嬢さまがた」
痛みに顔を顰めながら、しょうがないなぁというようにロバートが両手を上げる。二人の少女は勢い込んで言った。
「無事に帰って来てくれてうれしいですロバート。しばらくうちにいて下さい」
「おかえりロバート。旅の話を聞かせて。どこを回って来たの?」
「今回は侯爵様に言われて南を回って来た。王都には一ヶ月くらいは滞在できそうだ。ってか、年頃の娘がこんなところで座り込むな。本当にはしたないぞ。ジョージさん笑ってないで止めて下さいよ」
ジョージは可愛い孫娘たちのちょっとしたおふざけを見守るような目で三人の様子を見ていた。
その時、呆れたような声が聞こえて来た。
「……何をしてらっしゃるんですか、お二人とも」
声の主を見つけたリリアの顔がぱああと輝く。
「ルークお兄さま!」
廊下から姿を現したのは、昨日アレンの私邸で会ったばかりのルークだった。前髪を上げていつもの眼鏡をかけているが、今日は軍服ではなく灰色のスーツに身を包んでいる。ルークが前髪を上げるのは、書類仕事の時に邪魔になるからなのだそうだ。つまりこれから仕事に行くのだろう。
「毎回思うんだが、何で俺が呼び捨てで、あっちはお兄さま呼びなんだよ」
「羨ましいですか?」
無表情にルークは従兄に問いかけた。
「あら、ルークもいたのね。久しぶりね。半年ぶりくらいかしら?」
「リリィさまは相変わらず呼び捨てだな……いたたた……腰ひねった」
「……まだやってたんですね。このゲーム」
通称ロバート倒しと呼ばれるこのゲームは、二人の令嬢がまだずっと小さい頃に、リルド侯爵によって考案された。
ロバートは船で様々な国を回りながら、買い付けを行う侯爵お抱えの商人だ。王都に戻って来た時は、いつもガルトダット伯爵家に滞在している。
リリアとリリィお嬢さまが、彼に初めて会ったのは、先代の葬儀の時だった筈だ。
ルークとよく似た男に、当然のごとく幼女二人はよく懐いた。その結果、彼が再び旅立つと知るや、行かないでと駄々をこねはじめてしまったのだ。
孫娘二人に、ロバートを連れて行かないでくれと涙目で懇願され困り果てた侯爵は、苦し紛れに『ロバートに膝か尻もちをつかせられたら、何でもひとつだけ言うことを聞いてもらえるというのはどうか』と、二人に提案した。
子供の頃はわざとロバートが負けてくれて、少女たちはひとつずつお願いを叶えてもらえてご満悦だった。――それが今でもロバートの無事を祝う儀式のように続いている。
「はい。はやく立ち上がって下さい。床は冷たいでしょう?」
ルークが軽く膝を曲げ、白手袋を嵌めた手を二人に差し出した。リリアとリリィお嬢さまは再び顔を見合わせてにっこり笑うと、
「えいっ」
「ていっ」
掛け声と共に、ルークの手を掴んで両側から思いきり引っ張る。流石に少しよろめいたものの、ルークはすぐに態勢を整えた。
「はいはい。ちゃんと自分で立ってくださいね」
あやすように言われて、引っ張り上げられてしまった。
「つまんなーい」
リリィお嬢さまがむくれた顔をする。リリアはくすくす笑いながら嬉しそうにルークの左手を握っている
「二人ともいい加減子供じゃないんですから、そろそろこのゲームもおしまいにして下さい。打ち所が悪かったら、この人死にます」
ルークはとても残念なものを見る目でロバートを見下ろす。
「……否定できないことが辛い」
いてててっと言いながら、ロバートがよろよろと立ち上がった。
「……そして、リリアさま。そろそろ手を離して下さい」
「ふふふっ。ルークお兄さまと手を繋げる機会なんて滅多にないので。しばらく離しません」
とても幸せそうな顔をしているリリアを見て、ルークは苦笑する。
「リリィお嬢さま、力の限り握り締めるのはやめて下さい。痛いです」
「はいはい」
一方のリリィお嬢さまは、顔を真っ赤にして握った手に力を込めていた様子だが、疲れたのか飽きたのか、ぱっと手を離した。
「よかったな両手に伯爵令嬢」
にやにやしながら、ロバートが従弟に言った。ルークの眉間に皺が寄る。
「おかえりなさい、ロバートおにいさま」
「気色悪いわっ」
心底嫌そうにロバートは言った。ふんとばかりにルークが顔を背ける。
「ところで、本当にどうしてここにいるのよルーク」
改めてリリィお嬢さまがルークに尋ねた。
「昨夜は、こちらに泊めていただきましたので」
「……気付かなかったわよ? 朝食の時もいなかったわよね」
「夜間だったので使用人口を使わせていただきました。アレンさまが昨日こちらに伺った時に、ジョージさんから最近野菜泥棒が出ると聞いたそうで、私に調査をしてくるようにと。ロバートと一緒になったのは本当に偶然です。そろそろ帰ってくるだろうとは聞いていたんですけどね。……あ、昨夜は畑に異常はなかったですよ」
「ありがとうございます、ルークさま」
「どうして俺はロバートさんで、ルークはルークさまなんでしょうかね。ジョージさん」
ロバートが納得しかねるといった様子でジョージを見る。伯爵家の家令はちょっと首を傾げるような仕草をしてみせた。
「……さてはて。年を取ると耳が遠くなりますな」
「……良いお耳をお持ちで」
「ロバートは愛すべきロバートだからよ」
がっくりと肩を落としたロバートの横で、リリィお嬢さまが腰に手を当てて、胸を張って答えた。
リリアはじっと自分の横顔を見つめているルークの視線にあえて気付かないようにしていたが、
「……リリアさま、手を」
と、しびれを切らしたルークに言われるに至り、
「……はい」
名残惜しそうに手を離した。
「本当に二人ともルークが大好きだな」
何とも言えない表情で二人のやり取りを眺めていたロバートが、リリアとリリィお嬢さまを見比べながらそう言った。
「大好きなお兄さまです。ロバートも大好きです」
「そうね、兄として大好きだわ。ロバートも好きよ一応」
「はいはい。そりゃどうも。……で? 結局どっちがアレンさまと婚約したんだよ?」
ロバートがからかうように言った途端に、しんっと玄関ホールに沈黙が落ちた。
「……うん。何か、俺が悪かった。……ほれ、二人に土産だ」
ロバートは何かを察したのか、手っ取り早く話題をかえるために、トランクを開けて中から小さな箱を二つ取り出すと、デザインを確認して二人の伯爵令嬢に投げて寄越した。危なげなく受け止めた二人は、手の中にある美しい螺鈿細工の箱を見てわっと歓声を上げる。
「開けていいですか?」
「受け取ったんなら、もう二人のものだ。好きにしな。ただし、細工箱だからそう簡単には開かないぜ。そして、中は空じゃない。その二つ、デザインが違うだろう? リリィさまのは蝶で、リリアさまのは花を表しているらしい。中身も違うものが入っている。……さ、二人ともそれ持って部屋に戻った戻った。俺は疲れたから寝る」
わざとらしく欠伸をしてみせて、ロバートは手近なトランクを片手で持ち上げ、勝手に客室に向かって歩き出した。ひらひらと手を振る後ろ姿を少し見送った後、二人の令嬢はばっと手の中の小箱に視線を移す。二人は額を合わせて、小箱を手の中で転がし始めた。それぞれ、捻ってみたり、押してみたり、軽く叩いてみたりしている。
ルークとジョージは小さな子供を見守るような目で二人の様子を眺めている。リリアとリリィお嬢さまはロバートに会って、すっかり童心に帰ってしまっていた。
……二人の眉間に皺が寄り、それがだんだん深くなってゆく。
「ルークお兄さま、あけ方がわかりません」
「ルーク、あけて」
途方に暮れたような顔をして、二人はほぼ同時にルークを見上げた。
「ご自分でどうぞ。私は仕事があるのでもう出ないと」
ルークはにっこり笑って、踵を返した。
ええーっと不満げな声を上げたのはリリィお嬢さまの方だ。リリアはシュンと肩を落とした。
「……あ、そういえば、リリアさま。メイジーが当分こちらのお屋敷でお世話になります。今は色々あって休んでおりますが、夕方には挨拶に伺うと思いますよ。ジョージさんメイジーのことよろしくお願いいたします」
「うちは正直、常に人手が足りていないので、メイジーが戻って来てくれるなら助かります」
メイジーの事をよく知っている口ぶりに、リリアは驚いて尋ねる。
「ジョージはメイジーを知っているのですか?」
「はい。よく存じておりますよ。メイジーはこの屋敷でずっと奥様の侍女をしていたのですが、先代が別荘に移るときに、例の方のお世話をさせるために連れて行ってしまったのです。先代がこちらに戻ってからは、リルド侯爵家の方で侍女をしているとは聞いておりました」
「ねぇ、メイジーって、昨日、リリアを綺麗にしてくれた人?」
少し尖った声でリリィお嬢さまが言った。
「はい。でも、どうして……」
あの和やかな食事会の後で、メイジーに一体何があったのだろうか。リリアは不安になった。……実は酷い二日酔いでベッドの上で唸っていることなど知る由もなかった。
「メイジーは、リリアさま達が帰った後、あんな優柔不断な男にお嬢さまは渡せないと言って、アレンさまの私邸を飛び出してしまったんです。仕方ないので、昔の職場であるこちらに連れてきました。……あ、あと、アレンさまのことは、どうしようもないとか、顔だけとか、なかなかにひどい事を言ってましたね」
さらっと、まるで今日の天気を語るような口調で、ルークはそう説明した。
「ええと……?」
あの後本当に何があったのだろう。リリアはぼんやりとルークの顔を見つめた。
「そういう訳なので。リリィお嬢さま、いじめないでやってくださいね」
そう念押しして、今度こそ振り返らずにルークは足早に立ち去ってしまった。
「……優柔不断。ね、成程。私、そのメイジーって人に会うのすごく楽しみになってきた。夕方には挨拶に来るのよね。じゃあ、私その時起きていられるように少し眠っておくわ」
リリィお嬢さまはそう言いおいて、大事そうに小箱を抱えて部屋に戻って行った。
サブタイトル変更しました。初歩的なミスです。申し訳ございません。




