10 キースは思い出す。
※ 回想において、流血や暴力を匂わせるシーンがあります。ご注意ください。
後書きに、あらすじを書いておきます。
「キース君、それでは全然駄目です。そんな言い方では相手は諦めてくれません。いいですか――」
リリアを助けるために、いつも使っているお断りの言葉を披露したキースだったが、その言葉では不十分だとルークに指摘され、粘着質な相手の見分け方と、しつこい相手のあしらい方の説明を受けるはめに陥った。
力では勝てないから絶対にふたりきりにならないようにと、何度も何度も念を押される。明らかに男性を想定した対策であった。眼鏡の奥の瞳が怖いくらい真剣だった。……ものすごく心配されているということは十分に理解できた。
多分ルークも苦労したんだろうなとキースは思った。ルークはとても綺麗な少年だった。腕をつかんで引き留めていないと、今にもふっと空気に溶けて消えてしまいそうな、儚げな雰囲気を持っていた。しかもその横には、童話から抜け出して来た王子様のようなアレンがいたのだから、とにかく目立つ二人組だった。……色々大変だったに違いない。
キースがルークのお説教を受けている内に、リリアが平静さを取り戻したため、三人は再び並んで歩き出した。
「リリアさま、ここからは、こちらの者が庭をご案内します」
建物に沿って角を曲がると、狭いが手入れの行き届いた庭が広がっている。そこに、メイド服を着た五十代くらいの女性が立っていた。
「お久しぶりでございます。リリアさま、キースさま。大きくなられましたね」
目尻の皺を深くして、その人は深く深く上半身を倒してお辞儀した。
「……メイジー?」
茫然とした顔で、リリアが名前を呼ぶ。キースも目を大きく見開いた。
「はい。そうでございますよ。十年経ってもあまり変わっていませんでしょう? 少し皺と体重が増えたくらいですかね」
ふらふらと前に出たリリアは、そのまま小走りになり、メイジーに抱き着いた。
メイジーは二人の乳母だった。忘れるはずがない。言葉も、食事の仕方も、服の着方も、生きるために必要なすべてを、メイジーが二人に教えてくれたのだから。
伯爵が別荘を出た後、残された使用人たちは全員解雇されたのか、本宅のほうには誰一人戻らなかった。……気にはなっていたのだ。一緒に暮らしていた彼らがどうなったのか。しかし、子供だった二人には知る術がなく……それに、何となくイザベラたちの前で別荘でのことを口にするのは憚られたため、リリアもキースも今日まで誰にも聞くことができなかった。
キースはゆっくりメイジーに歩み寄ると、じっと何かを確認するように顔を見つめた。
「メイジー? 本当に」
「こんな美人、なかなかいませんでしょう?」
メイジーが茶目っ気のあるウィンクをする。だいぶ髪には白いものが混ざり、身幅は倍くらいになっていたが、間違いない。
「……ほんものだ」
ぽつりとキースは言うと、そのまま固まった。
「あらあら、泣いて再会を喜んでいただけるのは大変嬉しいのですが、リリアさま、お化粧が崩れてしまいますよ。ここはぐっと堪えて下さいな。……無理ですか」
リリアは声を殺して泣きながら、メイジーの肩に額をこすり付けるように首を振る。メイジーはその背中を優しくさすりながら、困ったように笑った。
「ルークさま、お嬢さまは二階のお部屋の方にお連れします。そこで少し準備をしますのでお時間をいただきたく存じます」
「任せます。では、キース君はこちらへ。……君も準備が必要なら少し待ちましょうか?」
「……泣いてないです」
キースは顔を上げた。目の端が僅かに赤くなっていたが、ルークは気付かないふりをしてくれた。
しがみつくリリアを何というか豪快に引きずるように去ってゆくメイジーを見送った後、二人はテラスに向かって歩き出した。
応接室に向かう回廊の途中で、紺色のスーツに着替えたアレンがひとりで待っていた。壁にかけられた肖像画を見上げている。ただ立っているだけで人目を引く、とても魅力的な男性ではある。それは認める。
キースはアレンの横に立ち止まる。アレンが見ていたのは若かりし頃のリルド侯爵の肖像画だった。将官だった頃のものだろうか。赤いサッシュを襷掛けし、様々な勲章が隙間なくつけられた王国軍の正装を身に着けている。茶色の長い髪を後ろで束ね、小さく微笑んでいるような口元にはきちんと整えられた髭がたくわえられていた。眼差しは鋭いのに、茶色の瞳はどこか優し気な雰囲気もある。祖父に似ているというトマスは二十年後にこんな顔になるのだろう。
「いい絵ですね」
「この肖像画が、自由を愛する彼の人の特徴を一番よく捉えていると思うよ」
アレンは肖像画に目を向けたまま穏やかな声で言った。そのまま視線をずらしてルークに尋ねる。
「リリアお嬢さまは?」
「やはり、泣いてしまわれましたよ。メイジーはいつも通りに振る舞っていました。あの人の仕事に対する意識高さには本当に頭が下がります」
「……メイジーがどうしてここにいるのですか?」
ためらいがちに、キースはルークに尋ねた。
「……別荘のことは君たちには伏せられていたんですよ。嫌な事を思い出さないように」
ルークがまっすぐにキースを見つめた。嫌なこと、と言われ、キースはその先に続く言葉を警戒した。
「あの別荘は本来は侯爵家の持ち物なんです。なので、伯爵が本宅に戻った後、使用人は全員侯爵家に戻されました。メイジーはしばらく侯爵家で侍女をしていましたが、数年前から私と一緒にアレンの身の回りの世話をしています。今回、君たちに彼女を会わせたのは、もう大丈夫だろうという侯爵さまの判断でした。――私は詳しくは知りませんが、お二人は大変つらい目にあわれたんですよね」
「……ああ、あれ、ですか」
キースはふっと表情を消して、宙に視線を彷徨わせる。その様子をアレンとルークは慎重に見守っていた。
記憶の底から突如響き渡ったのは、ワインの瓶が粉々に割れ砕ける不快な音だった。キースの視界が突然真っ赤に染まる。銃声が二発。視界が大きく揺れる。天井と、過去の映像と。
メイジーがリリアの目と耳を塞ぐために強く抱きしめている。顔が真っ青だ。
『キース坊ちゃま、坊ちゃま、私を見てください。このメイジーだけを見てください』
そうメイジーが必死に叫んでいる。それなのにキースの目は赤に引き付けられる。
『誰か、誰か、坊ちゃまの目を塞いで! お願い誰かっ!』
メイジーが悲鳴のような声をあげる。
床に広がる赤。誰かの荒い呼吸。投げ出された靴。その先を見ようとした瞬間に、強い力で引っ張られて視界が真っ暗になる。誰かがキースの目を塞いだのだ。怒鳴り声がする。何を言っているのかわからない。キースの耳は呼吸音だけを拾っている。
『これは鹿だ。だから、何の問題もない』
その言葉だけははっきりと聞きとれた。ぐらりと体が傾いだ。遠くから聞こえてくる呼吸の間隔が早くなっている。視界は黒い筈なのに、目の裏に赤がどんどん広がってゆく。
「血が……」
喘ぐような声がキースの口から洩れる。
「キース君、違うっ。それは赤ワインですっ」
鋭い声で誰かがそう言った瞬間、ぱあんと視界が弾けた。高い天井が目に映る。そのまま倒れてゆく体を誰かが支えた、視界を彷徨わせると、眼鏡の奥の水色の瞳と目が合った。ルークだ。
今は、あの時ではない。ここにあの血だまりはない。違う、血ですらない、あれは……あれは、ルークの言うように赤ワインだった筈だ。
聞こえていた呼吸音は自分のものだ。冷や汗が噴き出している。寒い。全力疾走した後のように、心臓が早鐘を打っていた。キースはルークに支えてもらいながら、何とか体勢を立て直そうとする。ぐにゃりと床がたわんだ気がして、膝が崩れた。今度は腕を取られて抱きとめられる。
ルークは普段絶対に自分から他人に触れない。例外はガルトダット家の令嬢二人だけだ。潔癖症だからと嘯くが、ルークの噂を知っている者が変に気を回さないための配慮だろう。つまり、よほど自分はひどい状況なのだと、妙に冴えた頭の中でそう思った。ぐっと腹の底に力を込めて、自分の足で立つ。ごく自然にルークが身を離した。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫です。取り乱してしまってすみません」
キースは心臓の辺りを右手で押さえながらそう言った。
「……ああ、そういうことなんですね。だから、トマスさまは俺を絶対に狩猟には連れて行かなかったのか。俺があのことを思い出さないように。どうしていつも留守番させられるのか、不思議に思っていたんです」
遠い目をしてキースが呟く。そして、何かを振り切るようにふっと息を吐いた。血の気の引いた顔に、少しずつ赤みが戻り始める。
「今思い出しても、本当に最悪ですね。……あ、記憶の中のメイジーは、さっきよりもだいぶ細かったですよ」
冗談を言って場の空気を変えようとするキースを見て、ルークは苦いものを食べたような顔をした。
「咄嗟のメイジーの行動で、リリアさまは現場を見ていない筈なんです。だから、何が起こったのか知らない。皆が心配していたのは、君のことです。特にメイジーは、もっと自分がしっかりしていればと、ずっとあの時の自分の行動を悔いている様子でした」
キースは喉を潰してしまいそうな声で叫び続けていたメイジーの姿を思い出す。誰か、誰か坊ちゃまの目を塞いで、と。
「何が起こっていたのか、今なら何となくわかります。でも、俺もはっきりとは見ていないんですよ。メイジーが必死に呼びかけてくれていたし、ギリギリで誰かが目を塞いでくれました。……赤ワインが床にぶちまけられていた。それを俺は血だと勘違いしたんです。あんなに血が流れた筈がない」
それ以上のことは見ていない、それは本当だ。もし見てしまっていたら、赤ワインを血と勘違いした自分の心は壊れていただろう。メイジーはちゃんとキースを守ってくれたのだ。
「でも、やっぱり狩猟には行きたくないです。これからもお留守番させてもらおうと思います。……後で、メイジーと話をする時間をいただけませんか? ちゃんとお礼が言いたいです」
今はもう恐怖心はない。多分、あれが赤ワインだったと納得したからだ。
「そうしてくれると、メイジーも喜ぶよ。……すまないね。食事の前に嫌な事を思い出させてしまった」
アレンは安堵したようにそう言った。
横から刺すような視線を感じて、キースは苦笑してアレンから目を離す。
「本当にもう大丈夫ですよ。ルークさん」
どんな些細な不調の兆しも見逃すまいと、じいっとキースを見つめているのはルークだ。そういえば、この人はかなりの心配性だった。
「俺、もう小さな子供じゃないですからね?」
キースはからかうようにわざと明るく言う。ルークの中で、ガルトダット伯爵家の子供たちは、ずっと幼い頃のままで、時間が止まっているのかもしれない。
「……そうでしたね。失礼いたしました」
ルークはようやく納得したかのように微笑んだ。「いや、あなたの中で俺は何歳くらいなんですかね?」と思わず聞きたくなったが、もし聞いたら色々ショックな答えが返ってきそうなのでやめておいた。
「それより、どうして今になって、俺の記憶を取り戻す必要があったのですか?」
キースが尋ねると、アレンとルークが顔を見合わせた。
「キースはやはり賢いね。……最近、伯爵家の良くない噂が婦人たちの間に出てきていているのは知っているよね。多分もうイザベラさまの耳には入っていると思うんだけど」
「内容までははっきり知りませんが、何となくまた風向きが悪くなったようには感じています。……どうせ先代の愛人騒動の噂が再燃してるんですよね」
「今回はいつもとちょっと違うんだよ。噂の内容はこうだ。『先代のガルトダット伯爵は人殺しだ。愛人だった女優を殺して別荘近くの湖に沈めた』」
アレンの言葉に、キースは顔をしかめた。
「……俺の記憶とは違いますが」
「君の記憶が正しい筈だ。伯爵は女優を殺していないし、誰も死んでない。ただ、あの別荘で殺人が起きたかもしれないという噂がいきなり出てきたことが不思議なんだ。もう十二年も経っている」
「先代はとっくに墓の下ですしね。……つまり、認識を合わせる必要があったんですね。俺がどの程度覚えているの……か……」
キースはここにきてようやく事の深刻さに気付き、顔を引きつらせた。噂が耳に入った瞬間に、キースが先程のような反応を示してしまったら――それを見た者全員、殺人は本当に起きたのだと確信するだろう。そうなったら墓の下の伯爵は殺人犯だ。自分の勘違いが、伯爵家を再び窮地に追い込でいたかもしれなかったのだ。
「この噂が厄介なのは、その場にいなかったイザベラさまが否定しても、誰も納得しないということだよ。逃げた女優を連れて来て、私は生きていますと言わせるのも無理だ。やってないことを証明するのはとても難しい」
「噂が自然消滅するのを待つしかないってことですね……トマスさまの婚期はますます遅れますねぇ」
そちらの方が悩ましいというように、キースはちょっと困った顔をしてみせた。
トマスは結婚の意思が全くないから、これ幸いと思うかもしれない。あの人は、妹二人が幸せな結婚をして家を出るまで、新しい女主人を迎える気にならないだろう。
それにしても、かなり厄介な噂だ。アレンのいう通りで、こちらからはどうすることもできない。これはもう時が過ぎるのを黙って待つしかない。――ああでも、これがリリアの婚約問題と重なるのか……めんどくさい。
最近のトマスが暴走気味なのは、何もかもが嫌になってきたからなんだろうなと、キースは気付いてしまった。
「……みなさま、お食事の支度ができました。応接間の方にどうぞ」
会話が途切れるのを待っていたのだろう。廊下の奥の部屋から声がかかった。お食事という言葉を耳にした途端に、ぱあっとキースの顔が輝いた。
「食べられそうですか?」
心配そうに尋ねるルークに、
「当然じゃないですか。食べられるときにしっかり食べておかないと、いつまた食べられなくなるかわからないんですから」
キースは満面の笑みで答えた。食事が不味くなるようなことはさっさと頭の片隅に追い払う。
キースの言葉を聞いて、そんなに伯爵家の台所事情は厳しかったのかと、アレンとルークはかなりの衝撃を受けている様子だった。
最近貯蔵室の棚が寂しくなってきたから、少し援助してもらえると嬉しいなと思って出た言葉だった。こう言っておけば、明日にでも何か届くだろう。肉がいいなとキースは思った。
10話 あらすじ
キースとリリアは、別荘時代に自分たちの面倒をみてくれていた乳母のメイジーと再会する。
メイジーは現在、ルークと共にアレンの身の回りの世話をしていた。
キースは最近社交界に流れ始めたという、ガルトダット家に関する良くない噂の内容を聞かされる。
それは、『伯爵が愛人を殺して湖に沈めた』というものだった。
しかし、実際にはあの別荘で誰も死んでいない。
十二年も前の話が、何故今になって突然出て来たのか不思議に思う。
そんなことを話している内に、食事の準備ができたらしい。




