私と代償
――数時間前。
蓮狐の元に、とまれは姿を現していた。
「……どうしても、あの子と話をしてみたいの」
流石の大妖怪も、かなり困った顔をした。
「あの少年に、突然とまれが姿をくらました理由を言いたいとか、そんな事で尋ねてくると思ったけれど…… まさか、あー…… 困った子だね」
とまれは何も喋らない。
試しにこちらも何も言わずに居たのだが、一向に帰る気配がしないので、蓮の狐は仕方なくその概要を伝えた。これを聞けば、大人しく帰るだろうと思って。
「逢魔が刻を知ってるかい」
「……?」
「夕暮れが、夜になる境目の事でね、魔物に遭遇しやすくなると言われているその時間帯は、私達の力が、少しだけ強くなる」
「……私も、人型がとれるの…?! 」
「いや、とまれほど儚すぎる存在じゃ無理だ、普通ならね」
意味深な言葉に息を呑む。
蓮狐がすっと手を前に出すと、とまれの周りに、突然蓮の花が浮かび上がった。ぼんやりと発光しているそれは、周囲の暗さも相まって、そこだけ切り取られたかのように幻想的な風景を作り出す。
だが彼から告げられた言葉は、その美しい風景からはかけ離れた、残酷なものだった。
「選びなさい、とまれ。私はこれから、とまれが人前で『とまれ』と姿を現すのに使うその力を100年分前借りして、君に人型をとらせようと思う。それでも君程度の力じゃ、逢魔が刻の間だけしかその形を維持することが出来ないだろう。そしてそれが終われば、君は100年、誰の目にも映れなくなる。人の目だけではない、私達の目にもだ。この意味が分かるかい」
「君は意識だけの存在になる。実体の無い存在である私達が、自分で自分の本質を忘れた時…… 即ちそれが、私達の「死」を意味する」
たった数分の為に、君はここまでの覚悟ができるのか。
とまれは頷いた。一瞬でもいい、私は、今会わないともっと後悔してしまうからと、呟いて。
*
人の体は変な感じがした。
最初は歩き方もわからなかったけど、あの子に会える、あの子と話せると思うといてもたってもいられなくなって、気付けば私は走っていた。
ベンチに腰掛けたあの子の背中が目に入る。
怪我をしないかとそわそわしている横顔は、いつも見ていた筈なのに心臓の音がうるさくて、もうそれだけで満足してしまいそうになった。
それじゃだめだ。
今日はそれ以上のことが出来るんだ。勇気を振り絞り声を出す。本当はもっと隣に座りたかったけど、こんな状態でこれ以上近づける訳がなかった。
「偉いですね、いつもそうしてるんですか?」
……あれ、何か変なことを言ってしまっただろうか…… 両目を見開かれた彼の瞳の中に居る私が、あからさまに身を縮める。でもどうやら、私が裸足なことに気遣ってくれているみたいだ。
また、頬がゆるむのを抑えられなくなる。
私は今、彼の視界に入っている、心配するだけの存在から、空間を共有している。それがまた、堪らなく嬉しい。
「……足、全然怪我してないね。もしかして君、いつも素足なの…?」
「奏君が心配しているような、複雑な家庭の事情は無いから心配しないで」
今一何を考えているのか分からない顔をしながら、「怪我をしてなかったらいいんだ」と小さく呟いて、彼は視線を前に戻した。
何を話す訳でもなく、何をする訳でもなく、横並びで小さい子達が遊ぶのを遠目に見やる。
守られる側だった彼が、時にハラハラした表情を浮かべるのを見ていると可笑しくて仕方がなくて、守る側へと移りゆくその姿に、立派になった大人の背中を重ね合わせ、私はまた、何か満たされた気持ちになるのだった。
ずっと、こうして居られればいいのに―― 決して叶わない望みだと分かっている。けれど、少し夢見るくらいは、……許してくれるだろうか。
日が落ちる。
空が赤から紫へ変わり、白が心なしか全体に混じり、ついに、青が時の尻尾を喰らい始めた。
「あっ、ちょっと待って」
私は聞こえないふりをして立ち上がる。
もう限界だった。本当は紫に変わったくらいで帰らないといけなかった。私は、すこし長居をし過ぎてしまった。
「君はちゃんとあの子達を見て上げて下さい」
私はなるべく淡々とすることに努めた。
もう一刻の猶予も許されない。大丈夫、このまま別れて裏路地に入れば、私が消えるところを見られたりしない。
「おばさん、あそこの公園にみどりちゃんと友達が居るので一緒に帰ってあげて下さい」
――えっ
私は逃げた。
裾で顔を流れるものを拭おうとして、指先が消えかけているのに気がついたのが、更に私の焦りに拍車をかけた。体の端から消えていくなら、足も時間の問題だ。はやく人気のない所へ隠れないと。
感傷に浸る暇はなかった。さっきまで頭の中を悶々とさせていた「どうして私はにんげんじゃないの」というどうしようもない願望は、迫りくる現実の前にあっさり消えた。
「あ、危ない…!」
私の重心が斜めに飛ぶ。
はやく立ち上がろうとして、膝が上がらない。はやく逃げないといけないのに、転ぶとこんなに痛いなんて知らなかった。痺れる足が言う事を聞かない。涙目になる。足音が真後ろまで近づいた。
「こないで…っ!」
初めて自分が、『とまれ』で良かったと思った。
よくわからないけど、近くに来て欲しくなかった。
どうして来て欲しくないのか、考えても答えは出てこない。ただ、涙だけが溢れた。
『とまれ』を目の前にした彼は、ぴくりとも動かなくなる。
私はそれを横目に走り出した。
やはり、時が経っても彼の中では、『とまれ』は絶対的な存在なのかと思いながら。
それに、理不尽な喜びを感じながら。
だけど…… 走りながらも、足音が追ってこないか、小さな音をも拾いながら。
日は限りなく地平線に近付き、全ての影が長く長くこの町を黒く染め上げていく。
鳥の鳴き声しかしない一際ひっそりとした路地裏に飛び込むと、息をつき、そして、一度だけ振り向いた。
あの子は、追いかけては来なかった。
「……不器用…ばかみたい…」
自分で「こないで」とか言っておいて、どうしてこんな残念な気持ちになるの……
本当は、「行かないで」と止めて欲しかったのだろうか。
なんでこんなめんどくさいことをしたのだろう…… 自分で自分が理解できない。
本当はもっと話していたかった。
もっと一緒に遊んでみたかった。
一人で消えるのは怖いから、その瞬間まで、ずっとそばに居て欲しかった―― どうして私は、もっと素直になれなかったのだろう。分かっている、叶わない願いに心を傾けるほど、後が辛くなってしまうから。だからこれは、どうしようもなかったこと。
強がりは、逢魔が刻の終わりと共に消える。
誰も居ない路地で崩れる。
息を散々と涸らしながら、もう完全に黄昏の宴が静まった空を見上げ、大きく手を広げる。透け行く手のひら越しに、共に大気に存在をぼかしていく飛行機雲が見えた。
体が輪郭を無くしていく。
私はあんな儚い存在にも勝てないのか…… そう悟った頃には、流す涙すら霧の粒になって舞い上がり、飛行機雲を天の川の輝きにして消えた。
*
『とまれ』
三ヶ月ぶりに見るそれに、僕は固まった。
それだけでなく、明らかに目の前の少女が意図的に「とまれ」を出したことに、冷静さを全て持っていかれた。
「……とまれ? 」
女の子は走り去ってしまう。
きっと、この『とまれ』を踏み越えても何も起こらなかっただろう。それは分かっていたけれど、あの子が「とまれ」であることに驚いて、ただただ棒立ちすることしか出来なかった。
――もうすぐ、逢魔が刻が終わりますね。
その意味深な言葉が日暮れのことであるのを後から知り、僕は、その時間帯に町をうろつきまわるのが日課になっていた。
そして僕は出会ったのだった。
今度は着物とかじゃなくてスーツだったんだけど、ロン毛で白髪、しかも髪先がピンクというあまりにデンジャーな恰好をしたお兄さんが、「怪しくないよ、こっちへおいで」と手招きしてきた。
僕は全力で逃げ出した。
危ないお兄さんは、全速力で追いかけてきた。